ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『野蛮で無謀?』 サムエル記上14:1〜15

聖書研究祈祷会 2021年2月10日


『野蛮で無謀?』在宅聖研祈祷会 2021年2月10日

 

案 内

華陽教会では、感染拡大による岐阜県の医療提供体制の逼迫を受け、聖書研究祈祷会も、配信等による在宅聖研として行っています。場所も時間もバラバラですが、神様によって見えない教会に集められたことを覚え、共に聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の455番「神は私の強い味方」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の在宅聖研を始めることができ、感謝いたします。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの友なる神様。岐阜県の新規感染者数もだんだんと落ち着きはじめ、緊急事態宣言の解除も検討されるようになりました。一方で、病床使用率は未だ余裕がなく、医療従事者も疲れています。どうか今、看護師や医師、保健所の職員を助けてください。

◆私たちの母なる神様。多くの教会で、礼拝に行けない人、祈祷会に行けない人が、集まれない状況に疲れを覚えています。伝道師や牧師や教育主事も、様々な対応に息切れしています。どうか今、それぞれの教会員と教職を支え、みんなの信仰生活を守ってください。

◆私たちの父なる神様。明るいニュースが目立たない一方、あなたの呼びかけは確かに実を結んでいます。回復した人、つながった人、喜びを得た人がいます。どうか今、それらの良い知らせが、離れている一人一人に届くよう、ここにいる私を用いてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。サムエル記上14:1〜15(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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ArtCoreStudiosによるPixabayからの画像

メッセージ

旧約聖書には、敵を打ち負かす英雄があちこちに登場していますが、ヨナタンは間違いなく、その一人に数えられるでしょう。イスラエルの最初の王サウルの息子であり、サウル以上に勇敢な彼は、自分と従卒の2人だけで、ペリシテ軍の20名近い先闘部隊を討ち取ります。

 

それはちょうど、手強いペリシテ人との戦いでイスラエルの兵が疲弊し、市民も次々と集結する敵に怯えて、洞窟や岩の裂け目、岩陰や穴蔵の中に身を隠しているときでした。なにしろ相手は3万の戦車、6千の騎兵、海辺の砂ほどにも感じる兵士を携えた軍隊です。一方、イスラエルの軍勢は3千人。正面から戦って敵う相手じゃありません。

 

あまりのギャップに、先陣切って戦いに行く者はなく、みんなサウル王の後ろでおののいていました。このままじゃいけないと思ったサウルは、神の託宣を求めて祭司サムエルを待ちますが、約束の一週間が経っても現れません。こうしている間にも、敵を恐れて自分から離れていく兵士がいます。

 

気がつけば、3千人いた兵士は6百人まで減っていました。仕方なく、サウルはサムエルの代わりに自分が焼き尽くす献げ物をささげて、神様に勝利を願いました。ところが、献げ物を終えたちょうどその時、サムエルが現れ、勝手に献げ物をして神様に嘆願したことを怒ります。

 

「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を自分の民の指導者として立てられる」

 

ちょっと可哀想ですよね? 約束の日に現れなかったのはサムエルの方で、サウルはできる限りのことをしたわけです。神様に背こうとしたのではなく、むしろ、神様に助けを求めて献げ物をし、祈ったわけです。「自分が神だ」と言い出したわけでも、礼拝を蔑ろにしたわけでもありません。祭司不在の間、民の不安を取り除くため、神に聞こうとした。

 

にもかかわらず、彼は遅れてやってきたサムエルに責められ、王位剥奪を預言されてしまいます。兵士が減っただけでなく、満足に武器も作れないため、自分と息子ヨナタン以外に、まともな剣もありません。ほぼ、素手や棍棒による戦い……理不尽の極みと言えるでしょう。

 

そんな中、父親に代わって勝利を収めた若き息子、ヨナタンの行動は、多くの人に評価されます。強大な敵を恐れて攻め込めない王に比べて、息子は従卒と2人だけで先陣を切り、先闘部隊を討ち取った。「主が我々二人のために計らってくださるにちがいない」と信頼し、神への信仰によって勝利を得た。

 

けれども、正直私はヨナタンの行動に様々な疑問を覚えるんです。果たして彼は、父親よりも信仰が厚く、神に忠実だったのか? 本当に心から神を信頼していたのか? いやいや先生、何を疑っているんです? 敵に対する勝利を収め、先闘部隊から遊撃隊まで震え上がらせた人間が、信仰によって行動したと言えないはずがないでしょう?

 

確かに、従卒と2人だけで敵の陣営に攻め込むなんて、一般的には野蛮で無謀な行動です。もし、自分たちが突っ込んで敗北してしまったら、そのまま味方の陣営まで一気に攻め込まれるかもしれません。王の息子が人質に取られたら、間違いなく不利な交渉に使われます。高確率で仲間を危険にさらすでしょう。

 

しかも、ヨナタンは父親を説得することなく、黙って敵陣に向かいます。自分が死ねば、味方の士気はますます下がり、2つしかない貴重な武器も敵に奪われてしまいます。さらに、敵の前に姿を現すためには、両手両足でよじ登らなければなりません。上から突き落とされるか、矢で射られたら一発アウト。非常に愚かな選択です。

 

けれども、これは信仰的なエピソード……一見無謀に思える行動も、神様に信頼したからこそ実行できたと言えるんです! そんな反論が聞こえてきます。しかし、果たして彼の選択は「信仰的」と言えるのか? 直前に、父親が祭司に黙って献げ物をし、神に嘆願をしていました。その結果、王位の剥奪を宣言される。

 

この件を教訓とするならば、ヨナタンもまず、勝手に行動するのではなく、祭司サムエルにお伺いを立てるはずでしょう。「神様は、我々のために計らってくださるでしょうか?」「主が勝利を得させてくださるでしょうか?」……けれども、ヨナタンは父親にもサムエルにも相談しないまま、一人で決めて、一人で行動してしまいます。

 

いやいや先生、ヨナタンは自分の考えで戦いにいったわけではありません。彼は、神様の意志を知るために、敵前でこう言っています。「あの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。そのとき、彼らが、『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。もし、『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」と。

 

確かに、そのとおりです。ヨナタンは行動を起こすとき、神様の意志を伺っていました。でも逆に言えば、敵がいる先陣の方へ渡って行った段階では、神様から「こうしなさい」と言われたわけでも、「勝利を与える」と言われたわけでもなかったことが分かります。ここに来て初めて、神様の意志を知ろうとする。

 

しかも、神様が選んだ祭司に伺うのではなく、直接祈って聞くわけでもなく、敵の反応によって判断する。「相手がこうすれば、戦って勝利を得る」「こうしなければ、戦闘を中止する」……どちらかと言うと、占いや願掛けっぽい判断ですよね? 果たして、神様に聞こうとしている態度なのか、疑わしいものがある。

 

もっと言えば、この願掛けのような行為によって、ヨナタンが勝利を得たことが、父親サウルの「敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」という愚かな願掛けへとつながっていった可能性もあります。皮肉なことに、ヨナタン自身がその願掛けを批判しますが、彼も人のことは言えません。

 

そもそも、サムエルを待たずに神様に嘆願したサウル王が罰されるなら、サムエルに神様の意志を聞かないで、自分で判断したヨナタンも、神の戒めを守らなかったアウトな人物ということになります。素直に彼の行動を評価するなら、不利な状況で武勲を立てて、味方を危険にさらしてでも、自らの力を誇示しようとする愚かな人物に映るでしょう。

 

さてさて、厄介なことになってきました。神様に直接お伺いを立てようとしたサウルの方が、よっぽど誠実かもしれません。けれども、ヨナタンと従卒が敵に姿を現すと、狭くて過酷な戦場であるにもかかわらず、本当に2人で、敵を討ち取ってしまいます。どうやら、神様は2人のためにちゃんと計らってくださった。

 

「両手両足でよじ登る」という武器を持てない隙だらけの状況からも、この結果が、普通あり得ないことを示しています。神様の介入がなければ、達成できない勝利を得た。一方で、ヨナタンに対する神様の直接的な語りかけはありません。祭司サムエルを通して託宣が語られることもありません。神様がヨナタンをどう評価したのか分からない。

 

ここで気になってくるのは、以前サウル王に語られた祭司サムエルの言葉です。「今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる」……その直後に置かれた、息子ヨナタンの英雄的なエピソード。おそらく、サムエル記を順に読み進めて来た人は、彼が新しい指導者として選ばれることを期待するでしょう。

 

民の信頼を失い、兵士たちもごっそり離れていった父に代わって、息子ヨナタンに王位が映る時が来たのだ……けれども、この先の展開を見た人は、その期待が裏切られることを知っています。新しく民の指導者として立てられるのは、サムエルから油注がれたダビデ王で、サウルもヨナタンも敵に討ち取られて死んでしまうと。

 

もしかしたら、ヨナタンは多くの人が評価するように、神様に忠実で信仰心の厚い英雄ではなかったのかもしれません。もっと野蛮で無謀な若者に過ぎなかったのかもしれません。実は、輝かしい結果に見合う人物とは言えなかった……しかし、だからこそ、このエピソードが大きな意味を持つと思うんです。

 

神様は、父親以上に無謀で野蛮だった若者を多くの敵から守られた。彼の選択によって仲間が危険にさらされないよう、2人に勝利をもたらされた。この結果は、英雄の行動や信仰を評価し、正当化するものではなく、むしろ、愚かで弱い人間に付き合い続ける神の憐れみを示している。そんなふうに思うんです。

 

今、新型コロナの流行によって、恐れおののいている私たちも、信仰という名のもとで無謀な行動や選択を行ってしまうかもしれません。間違った判断をしながらも、神様に守られている状況を、自分たちの姿勢の正しさに結びつけてしまうかもしれません。でも、本当は違うんです。神様は、どれだけ私たちが愚かでも、付き合い、守り、導く方です。

 

たとえ、この先、華陽教会で感染者が出なくても、クラスターが発生しなくても、そのことを謙虚に受けとめながら、誠実に祈り、悩みながら、勇気をもって行動していきたいと思います。あなたの葛藤に、あなたの苦しみに、今日も、神様が寄り添ってくださいますように。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(兵庫県神戸市の神戸教会)のために、迫害や弾圧を受けている人のために、悪質な支配を受けている人のために、病気や障がいのある人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆兵庫県神戸市の神戸教会のために祈ります。この教会を感染症の脅威から守り、会衆派の精神に基づいて、地域に開かれた姿勢を保つことができますように。また、2つの附属幼稚園の働きが守られ、子どもたちの成長が祝されますように。

◆迫害や弾圧を受けている人のために祈ります。中国や台湾や香港で、自治や人権を蔑ろにされている人たちが助かりますように。自由と命と良心が守られ、一人一人の安全が回復されますように。

◆悪質な支配を受けている人のために祈ります。企業や宗教団体、家族関係、友人関係の中で、健全でない力関係、破壊的なコントロールに囚われている人たちに、あなたの癒しと解放がありますように。

◆病気や障がいのある人のために祈ります。痛みや不自由さに耐え続け、我慢し続けている人、理解されないしんどさに苦しんでいる人たちが癒されますように。共感と連帯へつながる新たな関係性が築かれますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「恐れ惑うこの身に」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して在宅聖研にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研は、私と奏楽者の2名、同時に視聴されていた4名、計6名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も、配信等による在宅聖研を行います。会衆が集まる集会の再開は、2週間毎に役員会で検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページのお知らせでお伝えします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。