ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『泣き悲しめ』 ヨエル書2:12〜17

聖書研究祈祷会 2021年2月17日


『泣き悲しめ?』在宅聖研祈祷会 2021年2月21日

 

聖研の前に

配信を初めてから聖研が始まるまでの間、少し時間があるので、簡単な質問に答えるコーナーを今日からやってみたいと思います。最近、何人かの方から、お祈りの姿勢について質問を受けたので、ちょっとお話したいと思います。

 

多くのプロテスタント教会でお祈りをするとき、たいていの人は、このように手と手の指を交差する姿勢をとっていると思います。これは、お祈りの姿勢の一つであって「必ずこうやって祈らなければならない」というものではありません。

 

もともと、神様に向かって祈る際には、両手と頭を天に向けて祈っていました。また、悔い改めの祈りの際には、地面に突っ伏して、これ以上ないほど自分を低くして祈ることもありました。

 

もちろん、地面に膝をついて祈ることもあれば、手と手を優しく合わせる合掌のポーズを取ることもあります。祈る人の思いや状況によって、お祈りの姿勢も自然と多様になるものです。「今の祈り方の方が」「昔の祈り方の方が良い」というものではありません。

 

私も、交差した指に力を込めて祈る日もあれば、手と手をそっと合わせて祈る日もあります。牧師のやり方と違うから「私の祈り方、あの人の祈り方は違うかもしれない」と思う必要はありません。ぜひ、自分自身の心を神様に向けやすい姿勢を大切にしてください。

 

それでは、あと1分ほどで聖書研究祈祷会が始まります。共に心をしずめて、神様の言葉を受け取る準備をしましょう。

 

案 内

華陽教会では、感染拡大による岐阜県の医療提供体制の逼迫を受け、聖書研究祈祷会も、配信等による在宅聖研として行っています。場所も時間もバラバラですが、神様によって見えない教会に集められたことを覚え、共に聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の444番「気づかせてください」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆赦しと憐れみの主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、在宅聖研を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を聞こうとしている人を祝福してください。

◆神様。私たちはこの一週間、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。受難節に入った今、自分自身の過ちと向き合う勇気を与えてください。

◆神様。私たちはこの一週間、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、変化と回復をもたらしてください。責めと恥、支配と抑圧から解放してください。

◆神様。私たちが赦せない人、愛せない人のことを思います。どうか今、私が祈れない人のために、あなたのとりなしがありますように。私自身も、誰かが祈れない人のために、とりなす者となれますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ヨエル書2:12〜17(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

メッセージ

今日からレント、日本語で「受難節」や「四旬節」と呼ばれる時期に入ります。「受難節」という漢字からも分かるように、この時期はキリストの「受難」、イエス様が受けてきた苦しみと、十字架の死を思い起こす期間です。「四旬節」とも呼ばれるのは、イエス様の復活を記念するイースターまでの日曜を除く40日(計46日間)を意味するからです。

 

ある人の受けた苦しみを40日も思い起こすって、けっこうしんどいですよね? 特に今、新型コロナの影響で、普段通り学校にも仕事にも行けない、遊んだり集まったりが自由にできない私たちにとって、さらに誰かの苦しみを覚えることは、ちょっとキャパシティーオーバーです。

 

しかも、この時期は、自分自身が犯した過ちとも向き合うように強調されます。神の子が鞭打たれ、釘付けされ、十字架にかかって死んだのは、あなた自身が、自分の力で処理できない、どうにもできない罪のために滅んでしまわないように、その罪がゆるされるためでもあった……そのことを思い出すためです。

 

自分じゃどうにもできない罪……心当たりはあるでしょうか? 殺人とか暴行とか、重い犯罪を考える人もいるでしょう。とりかえしのつかない罪、自分じゃ償いきれない罪。誰かの人生を壊してしまった、大切なものを奪ってしまった、友達を裏切り見捨ててしまった、家族を犠牲にしてしまった。今からじゃ取り戻せない時間。

 

そう、法律に定められた犯罪に限らず、私たちが自分じゃどうにもできない罪って、けっこう溢れているんです。身近に思い当たるでしょう。自分が壊した関係性、無視して悪化させたもの、味方になれなかった過去……今からどんなに謝っても、元には戻りようがない。生きていて、そういった過ちを犯さずに済むことは、まずありません。

 

あるとき、ハッとします。私が奪ったもの、壊したもの、崩したものは、どうしたって私の力じゃ取り戻せない。イエス様を見殺しにした、見捨てて逃げた弟子たちや、祭司長たちに扇動されて、「十字架につけろ!」と叫んだ一人のように、あのときの行動は変えられない。今も謝りに行けない、墓の前へ行けない、あの人の正しさを訴えられない。

 

私にも、仲直りできないまま天に召された恩師がいます。今も許す気になれない断絶した人間がいます。自分の思いどおりに行動して、傷つけてしまったあの日のことを、謝りに行けない相手がいます。イエス様は、そんな私のどうにもできない罪のためにも、十字架にかかってくださった……なるほど、これは思い出さなきゃいけない。でも、やっぱりしんどいです。

 

この時期に「罪」「罪」って言うのはもうやめてくれ! と思う人もいるでしょう。悪いのは分かっている、自分の弱さも感じている。でも、今は慰めをくれ、励ましをくれ、床に伏せたまま起き上がれない私自身に力をくれ……切実な訴えです。間違っていません。これ以上責められても、責め続けても、状況は何も動かない。

 

「主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられる……」これが全てだと思いたいですよね。「大丈夫」「心配ないよ」で終わってほしいですよね。一方で、自分が一番引っかかっている罪に対して、過ちに対して、何も触れずに語られても、本当に「ゆるされた」なんて思えません。

 

「大丈夫だよ」と言いながら、私が犯した過ちに、あの日のことに、絶対触れてこない神。「愛している」と言いながら、裏切ったこと、無視したことを一切咎めてこない神。その言葉を心から信頼できる日は、いつやってくるんでしょうか? 私自身に和解が、平和がもたらされたと思える日は、本当にやってくるんでしょうか?

 

神様はよく知っています。傷ついた者を癒すには、傷口に触れる必要があることを。壊れたものを回復するには、削ったり、積み上げたり、変化する痛みが必要であることを。私たちが触れないでほしい部分に、それでも触れて、「大丈夫だよ」という言葉を真実にするため。

 

「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け」……容赦ない介入が始まりました。自分の招いた結果によって、ボロボロになった私たちへ「泣き悲しめ」という言葉が語られます。断食を布告せよ、祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き、主に仕える者は嘆くがよい。

 

いなごの襲来による大災害の中で語られたとされる言葉。シビアですよね。でも、同時に人々の傷ついた姿を神様はよく知っています。「衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け」……かつてイスラエルでは、罪を犯した人間が灰を被り、衣を裂いて、神様に悔い改めの姿勢を表しました。

 

しかし、いなごの襲来を招いた人々は、多くのものを食い尽くされ、灰を被るにも、衣を裂こうにも、そんな余裕はもうありません。裂く布なんてありません。衣を破る気力もありません。あるのは、自分自身が招いた結果に引き裂かれている心だけ……しかし、神様はその心を、悔い改めのしるしとして受け取ります。

 

泣き悲しめ……私はあなたの罪を知っている。あなたの過ちを知っている。あなたのしてきたことを無視しない。見なかったことにはしておかない。必ずあなたを立ち直らせ、あなたを心から喜ばせ、あなたの口から賛美を紡ぐ。あなたに本当の和解をもたらし、本当の安心をもたらそう。私があなたを愛し、ゆるしたことを知らせよう。

 

だから、自分の罪を見つめましょう。あなたが慰めを受けるために、あなたが励ましを得るために、神様が向き合わせるものを見つめなさい。あなたを裁くためではなく、あなたを回復するために、他人のフリをした弟子を見つめ、裏切った友に声をかけた、あのイエス・キリストを思い出しなさい。

 

触れてほしいけれど、触れてほしくないところに、この方は手を伸ばします。自分自身の手と脇腹についた傷へ、私たちを触らせるように、この方は回復を信じさせるためなら、なんだってする方なんです。レント(受難節)は、本来見つめられない自分の影を、イエス様と一緒に見るときです。そこに光が照らされて、あなたが顔を上げるために。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(兵庫県神戸市の神戸北教会)のために、滞日・在日外国人のために、被差別部落出身者のために、性的少数者のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆兵庫県神戸市の神戸北教会のために祈ります。遠方から来られる信徒や、みんなを迎える2人の牧師に、あなたのお守りと祝福がありますように。子どもも大人も、共に礼拝をささげ、教会の働きが豊かに用いられますように。

◆滞日・在日外国人のために祈ります。日本に働きに来ている方、勉強に来ている方の生活と安全が守られますように。数世代に渡って、日本で暮らしてきた在日の方々も、差別や抑圧から解放され、豊かな生き方ができますように。

◆被差別部落出身者のために祈ります。今もなお、根強い差別の影響で、暮らしの改善が進まない地域、見えない抑圧を受ける地域に、あなたの癒しがありますように。傷ついた人が回復し、若い人、子どもたちの将来が明るくなりますように。

◆性的少数者のために祈ります。そばにいるのに「いないこと」にされ、常に自分自身を隠し、嘘をついているような気分になるとき、あなたが最大の理解者であることを思い出させてください。どうぞ、あなたの愛する人に、私を隣人として送り出してください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを 我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して在宅聖研にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研は、私と奏楽者の2名、同時に視聴されていた2名、計4名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日まで配信等による在宅聖研を行います。会衆が集まる集会の再開は、今度の聖研後に、教会員への連絡網とホームページのお知らせでお伝えします。再開後も、配信は続けていく予定です。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。