在宅礼拝 2021年2月28日
『"霊"に対する冒涜?』小規模礼拝Bグループ 2021年2月28日
案 内
華陽教会では、現在の医療提供体制を踏まえて、第一・三日曜日と第二・四日曜日に、会衆が半分ずつ、数カ所に分かれて集まる小規模礼拝を再開しています。共に今、教会にいる人も、自宅にいる人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
なお本日は、学生YMCA全国夏期ゼミナールに参加している方々が、配信を通して、一緒に華陽教会の礼拝に参加しています。初めて礼拝に触れる人も多いので、1月に行うオープン礼拝と同様、前奏から後奏まで、礼拝の要素を一つ一つ説明しながら進めていき、使徒信条と主の祈りも、今回は口語訳を用いたいと思います。
前 奏
最初に、前奏を聞いて心を静めましょう。前奏は、礼拝の開始を告げる音楽です。オルガンの音に耳を澄ませ、礼拝を始める準備をします。
消 灯
本日は、受難節第2週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を2本倒し、キリストが受けられた苦しみと十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。
招 詞
そのとき/歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。(イザヤ書35:6)
招詞(招きの言葉)は、礼拝に集まった人たちへ、神の招きを告げる聖句です。その日の教会暦やメッセージに即したもの、あるいは、聖書日課で指定されている聖書箇所から選ばれます。
讃美歌
(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌300番「みそらのかなたに」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
最初の讃美歌は、神の招きに対する応答の賛美です。多くの讃美歌で、最後につけられている「アーメン」という言葉は「本当にそうです」「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語です。体がしんどくない方は、どうぞお立ちください。
お祈り
ご着席ください。(小窓を閉めて)共に祈りを合わせましょう。
最初の祈りは、聖書から神の言葉を聞く準備をします。罪の告白をして、神様に憐れみを求め、罪の赦しを聞いて、神の栄光をたたえ、聖霊の導きを求めます。お祈りの姿勢は、手と手を合わせる形でも、指を交差する形でも、自由にしていただいて大丈夫です。
呼びかけ
愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ感謝します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
罪の告白
和解の源である私たちの神様。私たちはこの一週間、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。
憐れみの賛歌
力の源である私たちの神様。私たちはこの一週間、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、変化と回復をもたらしてください。
赦しの言葉
贖いの源である私たちの神様、あなたは心から悔い改め、あなたに振り向く全ての人を赦してくださいます。どうか今、ここに連なる一人一人をあなたが憐れみ、全ての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてください。
頌 栄
希望の源である私たちの神様、あなたは後悔する者に癒しを、責める者に希望を与えてくださいます。本来なら、恵みを受け取れない者が喜べるように、変化と回復をもたらします。どうか今、天の上にも地の上にも、あなたの栄光が現されますように。
聖霊の導きを求める祈り
正義の源である私たちの神様。あなたは心に平安をもたらし、大切な言葉を与えてくださいます。どうか今、心を乱す様々な事柄に惑わされず、あなたの声を聞かせてください。これからのち、新しい人として主に仕え、あなたの栄光を現すことができますように。
結 び
人と人との間におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。
聖書朗読は、神の語りかけを聞くときです。主に、聖書日課で指定されている【旧約】【使徒書】【福音書】の中から選ばれます。本日は、マタイによる福音書12:22〜32を朗読します。
マタイによる福音書12:22〜32(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。 |
交読文
(会堂の窓を開放して)詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編130:1〜8(新共同訳交読詩編より抜粋)
交読文は、聖書の言葉を聞いた会衆が、祈りへ導かれるように、詩編の言葉を読み交わしていくものです。交読詩編付きの『讃美歌21』をお持ちの方は、後ろの方に載っています。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。どうぞお立ちください。
メッセージ
ご着席ください。(小窓を閉めて)メッセージを聞きましょう。『霊に対する冒涜?』(柳本伸良牧師)
メッセージは、朗読された聖書の言葉を時代背景や原語を踏まえて説明し、現代の会衆に語られていることを伝える時間です。「説教」や「宣教」とも呼ばれます。本日は、先ほど読んだマタイによる福音書からメッセージをさせていただきます。
“霊”に対する冒涜……なかなかのパワーワードが出てきました。何かしらの宗教に関わる人にとって「冒涜」という言葉が持つ破壊力には、けっこうドキドキさせられます。「あなたは神を冒涜している」「あなたはキリストを冒涜している」「あなたは“霊”を冒涜している」……これらはほぼ、「あなたは私たちの仲間じゃない」に等しい言葉です。
もっと言えば、「お前は敵だ」という意味になる。信仰者の国や地域によっては、死刑宣告に値します。「あいつは神を冒涜した」と訴えられたら、地の果てまでも追いかけられ、「報い」と称して殺される。そういう事件やニュース、未だに世界で耳にします。あるいは、共同体から追い出される、村八分にされてしまう……だいたいが悲惨な結末です。
残念ながら、現代に至るまで、私たちキリスト教会でも「冒涜」という言葉が便利に、暴力的に、使われてきました。あるときは、異なる信仰の持ち主に対し、あるときは、異なる教派の人間に対し、あるときは、こちらの信仰を受け入れない者に対し、安易に「冒涜」という言葉が使われました。「私たちはあなたを認めない」という意味で。
ようするに、自分が認めたくないものに対し、神様を持ち出して拒絶する、攻撃する、厄介な言葉でもあるんです。テレビやドラマでも、自分の立場を守るため、悪い聖職者が誰かを「冒涜者」として攻撃するシーン、よく目にしますよね? 2千年前から、そのパターンは変わっていません。
神の子であるイエス様さえ、何も悪いことをしていないのに、祭司長や長老たちから、「あいつは神を冒涜した」という罪で訴えられ、十字架につけられて殺された……だからこそ、私たちは、誰かを「冒涜者」にする人間を警戒します。他の立場を認めない、排他的、閉鎖的な人間でないか注意します。
ところが、先ほど読まれた聖書箇所では、あのイエス様自身が、ある人々を「冒涜者」として訴えていました。しかも、相当攻撃的な発言です。「“霊”に対する冒涜は赦されない」「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」……もし、救い主イエス・キリストの言葉と知らなかったら、過激でやばい宗教家だと思うでしょう。
聖霊を冒涜したら、この世でも、やがて来たる「神の国」「天の国」でも赦されない。普段、優しくて穏やかなイメージのイエス様に、こんなこと言ってほしくありません。これまでの聖書学者や研究者にならって、「この部分はイエス様の言葉に、後から付け加えられた文章だ」と言って、それ以上の解釈を止めたくなります。
でも、気になるのは、イエス様の発言が、対立する者への批判・排除に留まらないことです。そもそもこの話は、目が見えず、口の利けなかった人間が、イエス様に癒されたことが発端でした。彼は悪霊に取りつかれていたようですが、イエス様のところへ連れてこられると、あっさり目が見えるようになり、ものも言えるようになります。
周りにいた人々は、「この方こそ、神様に約束された救い主かも」と期待しますが、イエス様をよく思っていなかったファリサイ派の人たちは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言い始めます。彼らにとって、イエス様が悪霊を追い出す正当な力を持っているなんて、あり得ないことでした。
神から与えられた掟を文字通り、字義通りに守らなければ裁かれる……そう教えてきた自分たちに反し、イエスという男は、仕事をしてはならない安息日に病人を癒やし、罪人と食事をし、娼婦を助け、掟の守り方が違うサマリア人や異邦人とも接している。そんな人間が、悪霊を追い出す力を神から授けられているわけがない!
たとえるなら、聖書に「罪」だと書いてあるのに、同性愛の生き方を認める人間が、神から召命を受けているはずがない! あいつの言葉で「救われた」という人がいても、それはサタンが教会を汚す働きで、その先には滅びが待っている!……というような攻撃と似ています。イエス様って、かつての聖職者からすれば、とんでもない人だったんです。
目が見えず、口の利けない人が癒された……でも、その明るい出来事は、彼らの目には見えません。排除され、忌み嫌われ、否定されてきた人が癒された……でも、その暖かい回復は、彼らの目には映りません。そこにある救いを喜ぶ言葉は口に出せず、呪詛のような呟きしか出せません。「ここに救いはない」「ここに喜びはない」
そんな彼らに対し、イエス様は静かに反論します。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」……ここにある救いを否定するなら、ここにある喜びを受けとめないなら、あなたたちの間にある回復も否定されるじゃないか? どうして、この人の回復を一緒に喜ぶことができないのか?
さらに、イエス様はこう続けます。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」……これってすごい言葉ですよね。自分を悪霊の手先だと非難する人たちに、「神の国はあなたたちのところに来ている」と言う。
私なら「あんたらなんかに神の国は来ない!」と言いそうなものなのに、イエス様は「あなたたちのところに来ている」と言う。じゃあ、イエス様に働く聖霊を「悪霊」呼ばわりした彼らが、「後の世」「神の国」で赦されないとはどういうことか? 神の国から拒絶される、神の救いにあずかれない……とは、ちょっと違う気がします。
むしろ、確かに来ている神の国、神の救いを味わえない、受けとめようとしない態度こそ、「赦されない」という状況に、当てはまるかもしれません。ここに救われた人がいるのに、それを一緒に喜べない。傷ついた者の回復を、非難の材料にしてしまう。確かにそれは、罪赦された人の喜びから、希望から、遠く離れた姿です。
イエス様、本当ですか? こんなところに、こんな人たちに、こんな私に……本当に救いがあるんですか? そう逆らおうとする私たちに、イエス様はとことん付き合います。人の子に、私に、言い逆らう者は赦される……そう言って、逆らい続ける私たちに、どこまでも手を伸ばします。
聖霊の働きを、否定できなくなる日まで……確かにそこに、あなたに、私自身に、聖霊が働きかけていたと信じるその日がやって来るまで、両手を伸ばし続けます。新型コロナで集まれたり、集まれなかったりを繰り返し、救いや喜びを感じにくくなった私たちにも、今日、イエス様は語られます。
来ている、神の国は、あなたたちのところに……少人数であろうと、画面の前であろうと、神の国はあなたのもとに来ています。周りに認められず、排除されている人間にも、神の救いは現れます。私たちにショックと驚きをもたらしながら…/あなたの目が開かれて、喜びを見出せない現実に、救いと回復が見えますように。
讃美歌
(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の531番「主イェスこそわが望み」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
メッセージ後の讃美歌は、神の言葉を締めくくるのにふさわしい歌を歌います。本日は、イエス・キリストへの信頼を示す賛美を歌います。どうぞお立ちください。
使徒信条
感謝の応答として使徒信条を告白しましょう。讃美歌21の93-4Bをお開きください。
使徒信条は、神の言葉に共鳴して、教会の信仰を告白するキリスト教会共通の信条です。信仰者が何を信じているのか表す便利な要約となっており、一人一人が自分の口で、神様とイエス様と聖霊について、集まった人に伝える時間でもあります。
普段は、華陽教会でも文語の使徒信条を使っていますが、今日は配信を通して学生の方が大勢見ていらっしゃるので、私たちが何を信じているのか伝えられるように、口語の言葉で告白したいと思います。使徒信条93-4B。
わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。
紹 介
ご着席ください。華陽教会では、教会の信仰を告白した後、その日初めて礼拝に招かれた人を紹介し、神の祝福を願います。紹介を遠慮したい人は、受付で記入する新来者カードで辞退することができます。また、配信に名前と顔が乗らないように、ここでは「何人の方が初めて来てくれました」という報告だけをしています。
本日は、学生YMCA全国夏期ゼミナールに参加している学生とスタッフの方々が、配信を通して礼拝に参加してくださいました。また、7週間ぶりに教会の皆さんと集まることができました。マイク越しになりますが、歓迎の拍手を送りましょう。
とりなし
神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。お手元にあるとりなしの祈りの用紙をご覧ください。
とりなしの祈りは、自分自身がイエス様のとりなしによって助けられていることを覚え、今度はこちらから、周りのため、世界のために、神様にとりなす祈りです。お祈り毎に沈黙を挟むので、配信を見ている方も、それぞれ思い浮かぶ人のためにお祈りください。
司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。
司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。
主の祈り
共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。
主の祈りは、神の国で、イエス様と共に食卓に着く日を待ち望み、キリストの十字架と復活を思い起こす「聖餐式」(パンとぶどう液をいただく式)の準備をする祈りです。イエス様が「祈り方の基本」として弟子たちに教えたものであり、現代でも、どう祈ったらいいか分からない人へ、最初に教えられる祈りでもあります。
普段は文語訳を使っていますが、本日は、初めて礼拝を見る学生の方々にも「祈り方の基本」が伝わるように、「日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳」を使いたいと思います。会堂の皆さんは、礼拝プログラムの裏をご覧ください。主の祈り。
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている教会員は、また後日、集まるときにおささげください。
献金は、神の恵みに対する感謝の応答です。自分の生き方を神にささげるしるしとして、献げ物を行います。集められた献金は、教会の維持や運営、牧師の給与、地区・教区・教団の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われています。金額に定めはありませんが、どうしても目安が欲しい方は「自分と誰かが一緒にご飯を食べられるくらい」で考えるといいでしょう。献金の後、係の方が祈りをささげます。
讃美歌
(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を3回繰り返して歌います。賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。
最後の讃美歌は、会衆が神の栄光をたたえて、礼拝から送り出されていく歌です。神の栄光をたたえる「頌栄」の讃美歌が選ばれる他、祝福との関連で派遣をテーマにしたものが選ばれます。今日は、皆さんを心の内から後押しされるイエス様の歌を歌います。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派遣の言葉と祝福は、神の言葉を受けた一人一人が、新しい生き方へ出ていけるように、神の祝福を宣言する言葉です。私の場合は、皆さんを下から掬い上げ、押し出されていく神の祝福を表すために、両手を差し出す形で宣言しています。どうぞ、顔を上げ、心を高くして、一緒に神の祝福を受けましょう。
派 遣
しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(マタイによる福音書12:28)
祝 福
願わくは主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。
願わくは主がみ顔をもって/あなた(がた)を照らし、あなた(がた)を恵まれるように。
願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)
報 告
本日も、配信を通して在宅礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、私と奉仕者、役員の5名、同時に視聴されていた24名、計29名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週は、小規模礼拝Bグループの礼拝です。三密回避のため、人数調整をしているので、「初めて礼拝に参加したい」という方は、ホームページの「問い合わせフォーム」か、電話にてご相談ください。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。