ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『死体にしておこう』 イザヤ書12:1〜6、マタイによる福音書28:11〜15

日曜礼拝 2021年4月11日


www.youtube.com

 

案 内

華陽教会では現在の医療提供体制を踏まえて、第一・三日曜日と第二・四日曜日に会衆が半分ずつ、数カ所に分かれて集まる小規模礼拝を行っています。共に今、教会にいる人も自宅にいる人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。(ヨハネの黙示録1:17b〜18)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌291番「主にまかせよ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆復活と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は、4回に分けられたイースター礼拝の2回目です。あなたの独り子が、死を越えて会いにきてくださったことを覚えます。どうか今、距離や時間や立場を越えて、再会しようとする者同士をとりなしてください。

◆私たちの神様。東京、大阪、愛知に続いて、岐阜も新型コロナの感染者が再び増加し続けています。どうか今、感染した人々が癒され、家族や関係者が守られ、互いに思いやって、この時を過ぎ越すことができるよう導いてください。

◆私たちの神様。日本だけでなく世界各地で、疫病や災害や人権侵害に襲われている人たちがいます。どうか今、積み重ねられた努力と知見と祈りによって、これらの問題が解決するよう、私たち自身も用いてください。

◆人と人とをつなぎ合わせる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。イザヤ書12:1〜6、マタイによる福音書28:11〜15(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

f:id:bokushiblog:20210410174119j:plain

Albrecht FietzによるPixabayからの画像

メッセージ

「死んだ者が復活する」という知らせは、必ずしも、みんながみんな、喜ぶ知らせじゃありません。愛する者が生き返ったなら良いですが、敵対する者が生き返ったなら悪い知らせです……いえ、自分にとって、愛する者でさえ、「復活した」という知らせを、本当に喜べるかは分かりません。

 

皆さんの愛する人、親しい人、既にこの世を去った人が「実は生きていた」と聞かされたら……「復活したのを見た人がいる」と言われたら……そのとき感じるのは、喜びでしょうか? 戸惑いでしょうか? 不安でしょうか? 案外その知らせを「信じたくない」「聞きたくない」と拒んでしまうかもしれません。

 

2018年4月、私がこの教会に赴任して最初のイースターがあった月に、たいへんお世話になった神学部の先生が亡くなりました。私はその葬儀に行けませんでした。単に教会を空けられなかったというより、非常に気まずかったからです。あることで、私はその先生に腹を立て、ずっと連絡を取らないまま、息を引き取るまで、再会を避けて過ごしていました。

 

入院していた先生から、最期に届いたメッセージも、私にしてはかなり冷たく、短く返信を送りました。もともと仲が良くて、尊敬していて、たくさん相談してきた相手と、和解もしないで別れました。葬儀の後、何度か開かれた記念会も、友人から、先輩から、後輩から誘われましたが、最初のうちは断っていました。

 

行って、先生の姿が私の中に甦るのが嫌だったんです。喧嘩したままなのに、納得できてないのに、良い思い出を語られるのが嫌だったんです。俯いている私に、「こんなこともあったな」「あんなこともあったな」って近づいてくるのが嫌だった。先輩が、後輩が、友人が、思い出を語り合っているときに、一人、ギクシャクするのが嫌だった。

 

「死体にしておこう」……そう思いました。自分の中で、眠ったままにしておこう。今はまだ、先生に甦られては困る。たとえ再会しても、仲直りできる自信はない。色んな思い出に蓋をしました。頭に出てこないようにしました。先生に励まされ、支えられ、教えられてきた友人たちが、その記念会に集まるとき、私は中に入らず外にいました。

 

ちょうど、イエス様の墓に封印をし、出てこないよう見張っていた番兵たちのように、私は先生に会うのを拒みました。早く3日間が過ぎてほしいと思いました。しばらくすれば、墓は静かになるだろう。亡くなった先生のもとに集まる人も減るだろう。その姿が生き生きと甦ることもないだろう。私は蓋をしたのだから。

 

ところが、先生の姿は頻繁に甦りました。彼女に教えられた友人たちが、後輩たちが、LINEで、Facebookで、その日の説教で、生き生きと先生のことを語るんです。墓の石は容易にわきへ転がされ、蓋をしていた私を震えさせました。こっちが気まずい別れをしたなんて、みんな知りませんから、次々と私の目に耳に入ってくるんです。

 

嫌でも、死ぬ前に教えられたことが甦りました。実践神学で語られたこと、牧会実習で言われたこと、放課後の相談で答えてくれたこと……それらは今、私の中で甦ると、困ることばかりでした。私自身が死人のようになっていたからです。

 

先生との喧嘩を言い訳に、やらなくなったことが山ほどあった。LGBTのことも、差別のことも、傷ついた人たちのことも、教会で誰かと対立しないように、伝道師時代から、言及するのを避けていた。もともとは自分の大好きな人たちが「罪人」の烙印を押されないように、先生の授業を取って、先生に相談して、先生と一緒に考えていたのに。

 

そもそも、先生に腹を立てた理由が、周りに理解者がいない状況で、いきなり、ある集会に行って(はっきり言うと、「同性愛は罪だ」と言う集会に行って)、そこで一人で戦ってくるようお願いされたからでした。突然、持ち物もなしに「あの町へ行け」と言われた弟子たちみたいに戸惑いました。一緒に行ってくれないんですか? そばで助けてくれないんですか? 僕だけで行かせるんですか?

 

もっと直接ぶつかっていたら、たぶん、不安も葛藤も最後まで聞いて、突き放すようなことはしなかったと思います。でも、私は自分から先生との連絡を切りました。短く「無理です」と送って、以後メッセージを送らなくなりました。やがて、先生は亡くなって、私の中にあった使命や召命は、土の中に埋もれていきました。

 

そんなとき、墓から出てきたイエス様のように、先生の姿も甦ってきました。記念会は、こちらの想像を越えて何度も行われ、ついに私も断れなくなりました。行って、みんなの語る思い出の中で、先生と対面することになりました。はっきり言って、それは恐ろしいことでした。

 

みんなが「先生と過ごした最期」について話すとき、私は自分が何をしたか、何を捨てたか、突きつけられました。表面上は普通にしていましたが、内心は死人のようになっていました。周りのように生き生きと思い出を語ることはできませんでした。

 

イエス様の復活を目の当たりにして、番兵たちが、死体を盗まれたことにしたのも分かります。甦ったイエス様を死体にしておこうとしたのも分かります。記念会から帰ってきた私が、また先生の墓に蓋をして、その姿を見ないように、その声を聞かないように、抵抗したのも許してほしい。

 

だけど、そうは問屋が卸さないんですよ。番兵たちは、祭司長に言われたとおり、「弟子たちがイエスの死体を盗んだ」と噂を流しますが、2000年経った今、この噂よりはるかに広まっているのは、イエス様が復活したという知らせです。あちこちで人々に再会したという知らせです。死体のままにしておくことは、できなかったんです。

 

かつて、イエス様を信じ、新しい命を吹き込まれた先生も、死体のままにしておくことはできませんでした。私が礼拝メッセージをブログで発信するようになって、キリスト教とLGBTについて、記事を挙げるようになったことを、何人かの方は知っているでしょう。あれは、先生から受けた授業と、愛する友人たちが私の中に積み重ねてきた言葉です。

 

3年前、先生の言葉から逃げ出して、自分の使命も放り出して、教会で語らなかった言葉。まあ今も、どんな反応が来るか怖いから、なかなか語れていないんですが……死人のままでいることをやめるように、先生に命を吹き込んだ方が、私に甦らせた方が、今も呼びかけてくるんです。「行きなさい」「そこでわたしに会うことになる」

 

あなたも、この方に会うでしょう。行きたくない場所へ行って、再会することになるでしょう。恐ろしくなって震え上がり、固まってしまうでしょう。しかし、この方は言うんです。「恐れることはない」と……「わたしについて来なさい」と……そして、あなた自身も、あなたを甦らせる生き方へ変えられていきます。さあ、起きなさい。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の327番「すべての民よ、よろこべ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

紹 介

本日は、あちらにいる( )人の方が初めて来てくださいました。ようこそいらっしゃいました。配信後、ご了承いただいた方のみ紹介させていただきます。ぜひ、これからも神様の平和が皆さんと共にありますように。(*拍手)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。お手元にあるとりなしの祈りの用紙をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

食卓を囲めない日の祈り

本日は感染症の流行に伴い、パンとぶどう液をいただく聖餐式を休止し、「食卓を囲めない日の祈り」を行います。共に「命のパン」「命の水」である神の言葉を受け取りましょう。

 

招 き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6:35)」「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ6:57)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)」

 

主は、荒れ野で悪魔の誘惑を受け、空腹の中「石がパンになるよう命じたらどうだ」と言われたとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ4:4)」と答えました。そうして悪魔は離れ去り、主はガリラヤに帰られて、人々に神の言葉を与えました。

 

今、様々な事情で食卓を囲めない私たちに、主は「命のパン」「命の水」である神の言葉を与えます。食事が喉を通らず水も飲めない人々に、みんなと一緒に食事を味わえない人々に、神様は新しい糧をもたらします。

 

共に、聖書を通して与えられた「神の恵み」「神の祝福」を分かち合う、見えない食卓を囲みましょう。

 

感謝の祈り

恵みと祝福の源である私たちの神様、あなたは私たちの欠乏を満たす「命のパン」「命の水」をお与えになります。孤独に共感を、対立に連帯を、恐怖に信頼をもたらします。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、共に渇き、共に飢え、共に痛みを負われました。

 

ご自分が渇いているときに、孤立した女性に水を求め、新しいつながりを与えました。ご自分が飢えているときに、神の言葉に信頼し、人々に希望を示しました。パンがなく、水がなく、共に食卓を囲めないとき、あなたの言葉一つ一つは、私たちに見えない糧をもたらします。

 

どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和がこの世界を満たしますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神の祝福を宣言しましょう。

皆さんの隣に、前に、後ろにいる人、あるいは離れている人へ、イエス様から与えられた良い知らせを伝えましょう。

 

司式者:主は言われます。

一 同:「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(ルカ23:43)」

司式者:私たちも知らせましょう。

一 同:「主があなたと共におられます」

 

司式者:主は言われます。

一 同:「あなたがたに平和があるように(ヨハネ20:19)」

司式者:私たちも答えましょう。

一 同:「わたしの主、わたしの神よ」

 

応答の祈り

感謝の応答として、共に祈りをささげましょう。

 

信仰と希望と愛をもたらす私たちの神様、今ここで、食卓を囲めない日に、「命のパン」「命の水」であるあなたの言葉を分かち合えたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者がもたらされます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を共に分け合う者として、送り出してください。

 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。持ち合わせのない方は、受付でもらった献金袋をそのままお入れください。配信を見ておられる教会の方は、また後日来られたときにおささげください。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌いましょう。(お立ちください)

 

f:id:bokushiblog:20210124023134p:plain

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。(イザヤ書12:6より)

 

祝 福

願わくは主があなた(がた)を祝福し/あなた(がた)を守られるように。

願わくは主がみ顔をもって/あなた(がた)を照らし、あなた(がた)を恵まれるように。

願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。(民数記6:24〜26)

 

報 告

本日も、教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の小規模礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された10名、計26名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週は、小規模礼拝Aグループです。4回に分かれて行う3回目のイースターです。「初めて礼拝に参加したい」「集会に出てみたい」という方は、三密回避の人数調整をしているので、ホームページの「問い合わせフォーム」か、電話にてご相談ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。