ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『結局死ぬじゃん』 ヨハネによる福音書11:17〜27

日曜礼拝 2021年4月25日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、本日の礼拝を45分から30分に短縮し、次週5月2日から、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝に切り替えます。共に今、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(コリントの信徒への手紙一12:13)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌291番「主にまかせよ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆復活と希望をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まれたことを感謝いたします。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆癒しと回復をもたらす私たちの神様。岐阜県の病床使用率もステージ3となり、再び非常事態宣言が出されました。華陽教会も来週から、在宅礼拝に切り替えます。どうか今、家に閉じこもる私たちに、聖霊の風を送ってください。

◆赦しと和解をもたらす私たちの神様。国と国、家と家、人と人との間で様々な争いが起きています。長期にわたって改善されない関係があります。どうか今、私たちが囚われているものから解放し、誠実な一歩を踏み出させてください。

◆正義と公正をもたらす私たちの神様。貧困・差別・暴力から、疫病・災害・人災から、一人一人が守られるよう、共通の目的を持たせてください。強引な一致ではなく、丁寧な連帯によって、あなたの愛と平和の業に送り出してください。

◆私たちを結び合わせる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書11:17〜27(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像

メッセージ

2千年前、イエスという人物が十字架にかかって、3日目に甦った。死者の中から生き返って、弟子たちの前で天に昇った。もはや死は終わりではなく、絶対的な力じゃない。信じる者には永遠の命が与えられ、神の国へ受け入れられる……キリストの復活を記念するイースターには、だいたいこういう話が語られます。

 

でも、信仰者が他の人と同じように、事故や病気や災害によって、普通に亡くなっていくのを見て、こう思った人も少なくないでしょう。結局死ぬじゃん……聖書の中には、たくさんの奇跡が出てきます。イエス様によって悪霊を追い出された人、病気を癒された人、目が見えるようにされた人、そして、復活させられた人。

 

先ほど読んだ聖書箇所には、以前、イエス様を家に招待して、食事の世話をした2人の姉妹、マルタとマリアの兄弟ラザロが亡くなったと書かれていました。墓に葬られてから既に4日が経っていた。心肺停止から96時間……もはや蘇生は見込めません。墓を開ければ、腐敗した匂いが漂ってくる。そんな状況です。

 

ところが、兄弟ラザロは甦った。塞がれていた墓をこじ開け、イエス様が「出て来なさい」と大声で呼ぶと、彼は命じられたとおり、手足に布を巻かれたまま、よろよろとみんなの前へ現れた。大切な人が甦った、衝撃的なシーンです。直前まで悲しんでいた人たちも、驚きながら兄弟を抱きしめる、感動的な展開が続くはず。

 

ところが、このあと聖書には、みんなが喜んでラザロを抱きしめるシーンは出てきません。「ラザロが生き返ったぞ!」と賑やかにお祝いする様子も出てきません。びっくりするほど淡々とした、イエス様の言葉で締め括られる。「ほどいてやって、行かせなさい」……愛する者が生き返ったときの反応としては、イエス様も周りも静かすぎる。

 

どうしたらいいか分からない空気に、本当に喜んでいいのか、戸惑っている人たちの顔が浮かんできます。何日も前に死んだラザロが生き返った。病気で亡くなった兄弟が息を吹き返した。おめでたいことだ。でも、私の兄が死んだときは、イエス様は来なかった。父が、母が、妹が死んだときは、甦らせてもらえなかった。なぜ?

 

マルタとマリアの家で、兄弟ラザロが生き返っても、私の家族は甦らない。私自身が死んだときも、そこにイエス様は訪れない。おじさんが、おばさんが、息子が亡くなったとき、この方が現れなかったように。私が埋葬されるときも、「出て来なさい」と呼んでくれることはない。結局死ぬし、結局終わる。

 

生き返ったラザロもどうだったんでしょう? 手足を布で巻かれ、顔を覆いで包まれて、ホラー映画に出てくるミイラのように墓から現れた彼のことを、人々はどう受けとめたのか? みんなに暖かく迎えてもらえたか、それとも奇異な目で見られたか……彼がこのあと、穏やかな日常を過ごせたとは思えません。

 

12章には、イエス様と敵対する人たちが、イエス様に甦らされたラザロのことも、殺そうと謀ったことが記されています。病気で苦しんだあと、今度は命を狙われることになった。この計画が遂行されたかは聖書に残っていませんが、もしかしたら、本当に殺されたかもしれません。復活したけど、また殺される。結局死ぬじゃん……。

 

イエス様自身が復活する前、こんなふうに、イエス様の手で甦った人たちは、結局もう一度死ぬことになりました。今まさに葬られようとしていた寡婦の一人息子も、この前母親の願いで起こされた少女も、手遅れになったヤイロの娘も、イエス様によって生き返ったけど、その後、永遠に生きたわけではありません。

 

復活後、祭司長から命を狙われたラザロのように、みんな、死の恐怖から逃れたわけではありませんでした。あの時、あの場所で、この人が生き返ったことは、今の、これからの、私の命とは関係ない。あの子も、私も、結局死ぬ。感染症の脅威が再び増して、また家に閉じこもらなければならなくなった私たちに、イースターの出来事は、どんな希望を与えるのか?

 

最も納得がいくのは、天国の希望でしょう。この世の生が終わっても、死後の世界で永遠に生きられる。今はまだ、不条理な現実が続いているけど、天の国、神の国に入れたらもう恐れることはない。「あなたの兄弟は復活する」とイエス様に言われたマルタも、よくわきまえた返事をします。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」

 

ところが、イエス様は賢い返事に困った言葉を返します。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」……福音書の記者は、よくこんなこと書き残したなと思います。皆さんも、「イエス様を信じた人は決して死なない」と言われても、信じられないですよね?

 

現に、私たちの信仰の先人たちは死んでいます。初代教会の人たちも知っていました。ペトロが、パウロが、イエス様の弟子たちが、信じていたのに亡くなったことを。「死ぬことはない」なんて書きながら、自分たちの指導者がどんどん死んでいったことを。誰が見ても分かる、イエス様の言葉と現実のギャップ。それを、敢えてここに残している。

 

「死んでも生きる」とはどういうことか? 「決して死ぬことはない」とはどういうことか? 目の前に先人たちの名を刻まれた墓があるのに、骨を納めた石があるのに、「死んでいった彼らは生きている」なんてどうして言えるのか? 「天国で会える」じゃダメなのか? 「将来、神の国に入れる」じゃいけないのか?

 

マルタも傷ついたかもしれません。「兄弟ラザロが死んだのは、わたしを信じていなかったからだ」と言われたようにも感じるからです。彼が病気になったのは、あなたの家族が死んだのは、十分信じていなかったから。信じていたら、まだ生きている……そういう意味かな? と思わされます。

 

でも、どうやら違うみたいです。「死んでも生きる」と言ったイエス様は、墓に横たわったラザロを大声で呼んで、本当に彼が「死んでも生きていた」ことを証明します。イエス様に呼ばれて起きる者、死んだのではなく眠っている者、決して死なない者であることを見せてきます。

 

イエス様自身、死者と同じところへ行って、彼らを墓から連れ戻す「復活のキリスト」であることを見せました。自ら十字架にかかって、自分の手が届かないところ、声が届かないところなんてない、ということを証明しました。戸に鍵をかけた家の中も、石で塞がれた墓さえも、イエス様は平気でこじ開けさせ、中の人たちを連れ出していく。

 

それが、イースターの出来事です。この方にいつ呼ばれるかは分かりません。たいていは、来てほしいときに姿が見えず、「あのときいてくれたら、死ななかったでしょうに」……とこぼすことになります。でも、4日経ち、3日経ち、もう来ないと思っていたイエス様が突然現れ、あなたの名前、あなたの大切な人の名を叫ばれる。

 

「起きなさい」「出て来なさい」……その日、その時、結局死んだ、もう手遅れだと思われた人たちが、復活し、起き上がり、永遠の命を受けていたことを知るでしょう。まさか自分に、まさかこの人に、というところまで、イエス様が手を伸ばしていたことを知るでしょう。

 

既に亡くなった人、そばにいない人のために、泣いている人は聞きなさい。あなたの大切な人に、この方は手を伸ばされました。あなたの兄弟は、あなたの姉妹は、死んだのではなく眠っています。共に、この方に呼ばれて、起き上がる日を待ち望みましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の330番「キリスト・イェスは」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

紹 介

本日は、あちらにいる( )人の方が初めて来てくださいました。ようこそいらっしゃいました。配信後、ご了承いただいた方のみ紹介させていただきます。ぜひ、これからも神様の平和が皆さんと共にありますように。(*拍手)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。お手元にあるとりなしの祈りの用紙をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。持ち合わせのない方は、受付でもらった献金袋をそのままお入れください。配信を見ておられる教会の方は、また後日来られたときにおささげください。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「わたしの主がとり去られた」(©️柳本和良)を歌いましょう。(お立ちください)

 

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネによる福音書11:25より)

 

祝 福

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(創世記28:15より)

 

報 告

本日も、教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の小規模礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された7名、計23名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週は、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝に切り替わります。会衆礼拝の再開は、2週間毎に役員会で検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページでお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。