ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『異端はただの少数派?』 コリントの信徒への手紙二11:1〜15

聖書研究祈祷会 2021年4月28日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の53番「神のみ言葉は」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆復活と希望をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今週から、教会に集まる全ての集会を休止し、配信等による在宅礼拝や在宅聖研に切り替わりました。どうか今、家に閉じこもる一人一人の心を慰め、身体を癒し、再び外へ出るときの力を養ってください。

◆私たちの神様。集まれなくて、喋れなくて、歌えなくて、食べられなくて、疲弊している人たちがいます。どうか今、以前とは違う形でも、身体的なつながりや顔と顔を合わせた交わりができるように、新しい知恵を与えてください。

◆私たちの神様。感染症にかかった人、濃厚接触者になった人、クラスターが発生したところを助けてください。どうか今、速やかな治療と回復がもたらされ、悪質な批判や非難から守ってください。

◆人と人とを結び合わせる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙二11:1〜15(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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sammisreachersによるPixabayからの画像

メッセージ

キリスト教会に足を踏み入れると、しばしば「異端」という言葉を耳にします。あまり良い響きじゃありません。おそらく「異端」と言われる方、「異端」と口にする方、どちらも健全なイメージを持たれないでしょう。前者については「正統じゃないおかしな連中」、後者については「少数派を非難する排他的な連中」として映るからです。

 

キリスト教会の負の歴史にも、熱狂的なグループが過激化し、社会問題まで発展した出来事や、魔女狩りや異端審問によって、乱暴な手段で異なる立場が排斥された出来事がありました。一つや二つではなく、繰り返し、こういう出来事が起きました。たぶん、遠目に見ていた人はこう思ったはずです。

 

「あの界隈には触れない方がいい」「どっちも関わるとヤバそうだ」と……現代でも、比較的リベラルな教会では、「異端」とか「正統」という言葉をなるべく使わないようにして互いを攻撃しないよう、変な争いを見せないよう、気を遣うところが増えています。どっちが正しい、どっちが間違っている、なんて不毛な争いではなく、仲良くやろうと。

 

でも、聖書の中には、こういった「異端」と「正統」の争いが度々出てきます。しかも、けっこう激しくやりあう記述が出てきます。もちろん、聖書を書き残した人たちの言葉ですから、一方的です。たまたま、日曜日のメッセージや聖書研究の箇所に当たると、牧師も頭を抱えます。

 

「あいつらは偽物だ」「サタンと同じ」「ロクな死に方をしないだろう」……キリスト教を世界に広めた、あのパウロの手紙にさえ、こういう内容がしょっちゅう出てきます。もちろん、多少表現を丸くしていますが、現代の私たちから見たら、かなり排他的・閉鎖的に映る言葉が残されている。

 

そうまでして「正統」を自称する人たちはなぜ「異端」を非難したんでしょうか? 単に、自分たちと違うから、気に入らない立場だから、繰り返し声を荒げたんでしょうか? 同じキリスト教会として、多少考えが違っても、仲良くやることはできないんでしょうか? このことを考えるとき、いくつか注意したいことがあるんです。

 

それは、「異端」も「正統」も時代と共に揺れ動く立場であること、「異端問題」を即、「マイノリティー問題」として片づけてはならないことです。最初に、異端とは何かをはっきりさせるなら、「そのグループ全体の共通理解から外れたもの」です。

 

キリスト教には、正教会、カトリック、プロテスタント、聖公会など様々なグループがありますが、これらを互いに「異端」とすることは、現代では公式にはありません。単に立場が違ったら「異端」となるのではなく、立場の違うグループ同士が共有している共通理解からも外れたものが、「異端」と呼ばれます。

 

たとえば、同じキリストの弟子であるパウロとペトロも、宣教方針の違いから袂を分かつことになりますが、お互いに「偽使徒」と呼び合うことはありませんでした。「イエス・キリストは神の子で、自分たちのために十字架にかかって死に、三日目に甦ってくださった」という大切な共通理解が一致していたからです。

 

もし、「異端」と呼ばれるとすれば、この共通理解から外れた教え、「イエスは神の子なんかじゃない!」とか、「救われるのはユダヤ人だけ!」とか、パウロもペトロも、両者が容認できないような教えでした。しかし、先ほど読んだ聖書箇所にも、パウロたちが宣べ伝えたのとは「異なるイエス」を宣べ伝える者たちがいたことが書かれています。

 

初代教会の時代から、「それはイエス様の言いたかったことじゃない」「それは神様の目指していることじゃない」という教えが、けっこう広まっていたんです。もちろん、イエス様の言いたかったことって、ずっとそばにいた弟子たちでさえ、なかなか理解できませんでした。本当はこう言いたかったのかも……と後から考えることもありました。

 

だから、時代と共にキリスト教会全体の共通理解も、少しずつ変わるところもありました。「異端」と呼ばれていたグループが、教会として認められていくこともありました。たとえるなら、ローカル・ルールが存在する競技をオリンピックで行うときの「ルール違反」と似ているかもしれません。

 

ある時代には、世界共通のルールとして認められず、「違反」とされていたプレーが、後の時代に認められる。もともと「異端」と呼ばれていたグループが、後の時代にキリスト教として認められていく様子は、そのような共通理解の変化だと思えばいいでしょう。だから、異端かどうかの判断が、そんなに大きく、一気に変わることは普通ありません。

 

でもやっぱり、本来、多様性が認められるべき社会で「異端」とか言って少数派を追い出すのは乱暴じゃないか? と思われるかもしれません。確かに、キリスト教会が異端を排斥していく歴史には、「気に入らない少数派を排除する」という暴力的な側面もあったことは否めません。

 

パウロが、異なる教えを語る人たちを「ずる賢い働き手」「サタンに仕える者たち」と感情的に訴える様子も、あまり褒められたものではありません。現代でも、自分たちと異なる教派、教団に対して、そんなふうに「異端」という言葉を濫用するのは、明らかに問題があるでしょう。

 

しかし、教会が「異端」に注意してきた背景には、それらのグループによる熱狂化や過激化を防ぐ目的もありました。先ほど、異端をオリンピックのルール違反でたとえましたが、たとえば、サッカー部を名乗る団体の中で「全員ハンドしてもいい」というルールを教えていたら、純粋にサッカーを楽しむ人たちの間では、だいぶ問題に感じますよね?

 

「○○はイエスの生まれ変わりだ」と言って全く別の宗教にしちゃう教えがこのタイプの異端です。まあ、これくらいなら「サッカー部とは別の名前でやってください」という話になりますが、これが「積極的にファールして点を取れ」と教えるようになったら、プレーヤーに実害が出てきます。「伝道のためなら嘘や欺きも赦される」といった教えがこのタイプの異端です。被害が出ないよう注意する必要が出てきます。

 

一方で、女性のサッカー部が認められなかった時代に、部の看板を掲げ続け、後から認められるようになったとすれば、これは健全な議論による共通理解の変化です。もともとは異端とされていたところが、後から正統な教派に数えられるようになるのがこのタイプ。一口に異端と言っても、こんなふうに全部を一括りにはできないということを覚えておいてください。

 

パウロが「偽使徒」と呼ぶ人たちも、どうやら自分たちが報酬を得るための教え、支配的な関係を築くための教えを宣べ伝えていたみたいです。単に「マジョリティーの正統派がマイノリティーの少数派を排斥する」という構図で異端問題を捉え、少数派を一様に擁護すると、さらに少数である、その指導者・そのグループの被害者が隠されてしまうこともあります。

 

そして、共通理解から外れたことを教えながら、「既存のグループを装っている」なら、それも不誠実です。これは程度にもよりますが、「全員ハンドしてもいい」と教えるサッカー部が、サッカー部を名乗り続けることが誠実かどうかを考えてみれば、分かることだと思います。本当にサッカーを楽しみたくて、サッカーが上手くなりたくて入ってきた人を騙してしまう結果になるからです。

 

キリスト教でも、正統的な教会を装って、「イエスの救いは完全じゃない」とか「リーダーの言葉は聖書と同じくらい価値がある」というグループがいたら、本当に聖書に興味があって、イエス様のことを知りたくて入ってきた人を騙してしまう結果になります。パウロが彼らのことを「キリストの使徒を装っているのです」と断罪するのも、そういった不誠実な行為が念頭にあるのでしょう。

 

もし、そうではなく、既存のグループを装わず、自分たちの主張をはっきり言って、健全な議論を続けていくところなら、新たな分派や教派として認められたり、社会と共存していくことができるでしょう。反対に、義に仕える者を装って、自分たちの支配や報酬のために活動を続けるなら、人権侵害や社会問題をもたらす破壊的カルトになるでしょう。

 

ぜひ、「異端」について考えるときには、一様に問題を単純化するのではなく、そう呼ばれているところ、あるいは、そう呼んでいるところ、それぞれにどんな背景があるのかを冷静に見ていただければと思います。4月は「信仰」と「聖書」をテーマに話してきましたが、これからも、私たちが聖書から読み取るメッセージについて、吟味をしつつ、豊かな恵みを受け取っていきたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(大阪府大阪市の大阪西淀川教会)のために、障がいのある人のために、衰えを感じる人のために、治療・療養中の人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆大阪府大阪市の大阪西淀川教会のために祈ります。新型コロナウイルスの感染拡大が一日も早く収束し、教会の人たちがまた集まれるようになりますように。代務者が守られ、新しい牧師の着任が導かれますように。

◆障がいのある人のために祈ります。心や体や発達の仕方に困難を覚えている人に、あなたのお支えがありますように。特に、コロナ禍で環境の変化に振り回されている人が、一刻も早く健やかな生活を送れますように。

◆衰えを感じる人のために祈ります。病気や怪我や年齢のために、衰えを感じている人にあなたの励ましがありますように。できないことが増えるとき、新たな発見と喜びにも出会えるように、一人一人を助けてください。

◆治療・療養中の人のために祈ります。手術や薬や療養によって、体を癒している人に、速やかな回復がありますように。特に、なかなか治療へ至れない人が、必要なケアを受けられるように、あなたの御手を差し伸べてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「信じたくても」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを 我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、配信3名、出席4名、計7名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会の再開は、非常事態宣言の解除を目安に、2週間毎に検討し、教会員への連絡網とホームページ等でお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。