ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『本当は怖い主の祈り』 ルカによる福音書11:1〜4

聖書研究祈祷会 2021年5月26日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の62番「天にいますわたしたちの父」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆聖霊の送り主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて在宅聖研を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆愛と平和の主である私たちの神様。岐阜市の病床使用率も100%近くとなり、市内独自の緊急事態宣言が出されました。どうか今、医療従事者や介護福祉士、社会福祉士や葬儀社の安全を守り、患者・利用者の健康を支えてください。

◆癒しと回復の主である私たちの神様。今度の日曜日には、薬物依存症のリハビリ施設である岐阜ダルクから、2名の方に奨励をしていただきます。どうか今、新しい生き方を始める道が、ここから広がっていきますように。

◆復活と希望の主である私たちの神様。先週、華陽教会で信仰生活を守ってきた仲間の一人が、あなたのもとへ召されました。どうか今、残された人たちに、この先必要な癒しと力がもたらされ、希望を掴むことができますように。

◆私たちを送り出される、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書11:1〜4(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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James ChanによるPixabayからの画像

メッセージ

今月は「祈り」というテーマを中心に聖書研究をしてきましたが、最後となった今回はキリスト教会の礼拝に来たら必ず耳にする「主の祈り」について考えたいと思います。主の祈りというのは文字通り、主イエス・キリストが「祈るときには、こう言いなさい」と弟子たちに教えた唯一の祈りです。

 

先ほど読んだルカによる福音書11章と、マタイによる福音書6章に、その原型が出てきます。ルカによる福音書の方がシンプルなので、現在、多くの教会で祈られている主の祈りは、マタイによる福音書の方が近く感じるでしょう。

 

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 

これを聞いて、いやいや、自分の知っている主の祈りとは全然違う……と言う人もいるかもしれません。日本では華陽教会を含め、多くの教会で文語訳、昔の言葉で整えられた主の祈りが、用いられているからです。毎週、この聖書研究祈祷会でも、「天にまします我らの父よ……」から始まって、「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」で終わる主の祈りで締め括られています。

 

教会へ通うようになって、主の祈りをはじめて空で言えるようになったとき、思わず嬉しくなった人もいるでしょう。普段、日常では使わない言葉、礼拝の中でしか用いない言葉、それが自分自身に身に付くことは、信仰共同体の一員に近づいた、加わったことを感じさせてくれるからです。

 

ありきたりな言葉で祈るより、格調高い、伝統的な言葉で祈る方が、特別なものを身につけた感じがしますよね。私も正直、主の祈りは、言葉もリズムも雰囲気も、今使っている文語訳が一番好きです。

 

でも、主の祈りってもともとは「祈り方の基本」として、弟子たちに教えられたものでした。イエス様に「どう祈ったらいいか教えてください」と尋ねる弟子たちに、「こう言いなさい」「こう祈りなさい」と答えてくれたイエス様。イエス様と出会った人、教会へ初めて来た人に「祈るときにはこう祈るんだ」と教えてくれる<基本の祈り>。

 

その基本の祈りが、今、聞く人に「祈り方を教えるもの」となっているか? どんな意味か伝わっているか? 聖書の言葉は口語訳なのに、祈り方の基本を伝える祈りは文語訳……そんなアンバランスに陥ってないか? イエス様の教えたこと、行ったことを証する、伝えるはずの教会員と、ちょっと立ち止まって考えたいと思うんです。

 

そもそも、主の祈りを祈るとき、皆さんは自分がどういうことを祈っているか、どんな願いを口にしているか、考えたことはあるでしょうか? よく考えると、けっこう衝撃的な願いを口にしています。「天にまします我らの父よ。ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ……」

 

天の国、神の国におられる私たちの父、神様に、あなたのお名前を崇めさせてくださいと願う。ここまでは良い。でも、次の願いはやばいです。「み国を来たらせたまえ」「天の国、神の国を来たらせたまえ」……普通、神の国、天の国に迎えられることを願う人たちは、「自分たちがそこへ行けますように」って願いますよね?

 

でも、イエス様が教えた基本の祈りは、私たちが天の国へ行くんじゃなくて「天の国がこっちへ来るように」って願うんです。神様に、あなたがおられる天の国、神の国ごと、私たちの方へ来てくださいって求めている。王様に向かって、「私を城に迎えてください」と言うんじゃなくて、「王様のいる城ごと私の方へ来てください」って申し出る。

 

めちゃくちゃ怖い祈りですよね? こんなこと言ったら、神様怒り出しません?……でも、神の子であるイエス様が、自分の父なる神に向かって、「こう祈りなさい」と教えてきます。大それた願いに見えるけど「私の方へ来て」「私のいる場所に介入して」「ここを神の国にして」って求めることを、神様は望んでいるんだと。

 

一方で、ものすごく素朴な願い、悪く言うと、俗っぽい願いも基本の祈りに入っています。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」「今日のご飯を私にください」子どもでも祈れる内容ですよね? 「あなたの迷惑にならないように」とか「ご飯がなくても我慢できるように」とか、行儀のいい願いじゃありません。「助けて」「ご飯ちょうだい」「今必要なものを……」というシンプルな願い。

 

神様は、そういう素直な願い、飾らない願いも待っている……これが基本の祈りに入っていると、ちょっと安心しますよね? でも、厄介なことに、私たちが心から願うことが困難なことも、主の祈りには入っています。「我らに罪を犯すものを/我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから」

 

主の祈りの訳によっては、「わたしたちも人を赦します」という言葉になっています。この部分、けっこう祈れない人が多いんじゃないかと思います。主の祈りを口にするとき、ここだけは口パクになってしまう。ちょっと、あの人のことは赦せないなぁ……赦そうなんて思えないなぁ……と固まってしまう。

 

もし、「わたしも人を赦します」なんて言ったら、神様に嘘をついているような……それが守れなかったら、自分も赦されないような……恐ろしい感覚になってしまう。告白すると、私も一時期、「我らに罪を犯すものを/我らが赦すごとく」という言葉は、なかなか口にできませんでした。

 

だって、実際赦せていませんからね……これが基本の祈り、祈り方の基本に入っているって、相当ハードルが高いです。よくよく意味を考えたら、こんなこと怖くて祈れない。だけど、イエス様は「こう祈りなさい」と言ってくる。「この祈りをみんなで祈りなさい」と言ってくる。

 

そう、主の祈りは、教会に集まった、信仰を支え合う仲間たちみんなで、心を合わせて祈るように整えられました。どう祈ったらいいか分からないとき、みんなでこうやって祈るように。あなたの前に、隣に、後ろにいる人と、こうやって神様へ祈るように……主の祈りは、あなた一人の祈りではなく、イエス様と、弟子たちと一緒に祈る祈りです。

 

確かに、赦せない人がいます。まだ、赦す準備ができてない、赦し合う段階になってない相手がいます。あなたに赦せない人がいることは、間違ってないし、自然なことです。でも神様は、あなたが誰かを赦せないとき、あなたの代わりに、相手をとりなす者をそばに置きます。

 

あなたのことを赦せない人がいるときも、その人の代わりに、あなたが赦されるよう祈ってくれる者を遣わします。自分を犯罪者として、十字架につけた人たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないです」と神に願ったイエス様が、主の祈りを祈るとき、あなたの隣におられるんです。

 

祈り方の基本である主の祈りは、本来、私たちの口から祈れないような願いをさせます。願っていいのか不安になるような大それたこと、行儀が良いとはちょっと言えない俗っぽいこと、自分一人では心から口にできない願いととりなし……それらを、可能にしてしまうのが、神の国の到来を願って、みんなで祈る主の祈りです。

 

どう祈ったらいいか分からないあなたに、祈る言葉が出てこない私に、キリストはこの祈りを教えました。さて、私たちは同じように、祈る言葉を持たない人へ、この祈りをどうやって伝えていきましょう? どうやって継承していきましょう? イエス様に教えられ、救われて、証する者となった皆さん。改めて、本当は怖い主の祈りと向き合いながら、この祈りが持つ、「気づき」と「力」と「良い知らせ」を世に証していきましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(大阪府茨木市の茨木教会)のために、薬物依存症の人たちのために、アルコール依存症の人たちのために、性依存症の人たちのために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆大阪府茨木市の茨木教会のために祈ります。それぞれの形で、礼拝をささげる人たちの健康と安全が守られますように。教会に連なる一人一人が、家族に、隣人に、地域に、あなたの愛と平和を知らせることができますように。

◆薬物依存症の人たちのために祈ります。様々なきっかけで、薬物から離れられなくなった人に、あなたの慈しみがありますように。適切な治療と助けてくれる仲間が与えられますように。

◆アルコール依存症の人たちのために祈ります。やめたいと思うことを症状が許さない人、やめたいけれど脳が言うことを聞かない人が、お酒から解放されますように。助けが必要なことを知り、周りの家族や友人も守られますように。

◆性依存症の人たちのために祈ります。不安や罪悪感を持ちながら、今の状況から抜け出せない人たちに、あなたの御手が差し伸べられますように。助けを求められる場所に気づき、誇りと自信が回復されますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「祈れないときに」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを 我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、ライブ配信の奉仕者2名、配信参加者の4名、計6名が出席されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会の再開は、非常事態宣言の解除を目安に、2週間毎に検討し、教会員への連絡網とホームページ等でお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。