ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『いずれまた聞かせてもらおう』 使徒言行録17:22〜34

在宅礼拝 2021年6月6日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝に切り替えています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(エゼキエル書18:31)

 

讃美歌

旧讃美歌179番「よろこびあふるる」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆信仰と希望と愛をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて在宅礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆癒しと回復をもたらす私たちの神様。岐阜県では、新たなクラスターやインド株の感染も発生していますが、ワクチン摂取も少しずつ進んでいます。どうか今、速やかに予防と治療ができるよう、各地の体制を整えてください。

◆赦しと和解をもたらす私たちの神様。この一週間も、様々な場面で誰かを傷つけ、弱らせ、無視してしまったことをお赦しください。どうか今、自分と誰かの間にできた不破や確執を取り除き、誠実な和解へと導いてください。

◆正義と公正をもたらす私たちの神様。日本で、台湾で、香港で、北朝鮮で、人間らしく生きるための自治や権利を脅かされている人がいます。どうか今、政治に携わる一人一人の良心と勇気が強められ、自由と安全を手にできますように。

◆私たちを送り出される、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録17:22〜34(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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Dias12によるPixabayからの画像

メッセージ

私がまだ牧師になる前、神学生をしていた頃、「キリスト教を信じてなくても、聞く人たちに受け入れられるメッセージは何だろう?」と模索していた時期がありました。聖書の話をよく知らなくても納得してもらえる、キリストの復活や奇跡が信じられずとも理解できる……そんなふうに、万人の心に受け入れられるメッセージを探していました。

 

なぜなら、自分の信じていることを普通に語っても、信じてもらえないと思っていたからです。イエス・キリストは神の子で、私たちを罪から救うためにやってきた。信じる者が永遠の命を受けられるように、十字架にかかって三日目に復活し、天に昇って見えなくなった。終わりの日には、私たちを死者の中から復活させ、神の国へ招いてくださる。

 

言葉にしたら分かるように、こんなの初対面で言っても信じてもらえるわけがない……というか、自分でも、何で信じているのか説明できない。毎週、皆さんと告白している使徒信条にも、私たちキリスト教徒の信じている内容が端的に表されてますが、まあ、内容としてはやばいです。「裁き」「聖霊」「赦し」「甦り」……ただでさえ、文語で分かりにくい文章だし、聞いてすぐ理解できる、納得できる言葉じゃないですよね。

 

だから、そういう分かりにくい要素を取り去って、みんなに共感されやすい「愛」とか「希望」とか「報い」とか、優しい言葉で語ってみようと思ったんです。でも、それをやろうとしてできたのは、巷にあふれる自己啓発やスピリチュアルと変わらないメッセージでした。

 

「良いことをすれば良いことが返ってくる」「悪いことも、考え次第で良い結果を導ける」「自分自身を愛すれば、人からも愛される」「信じて実行すれば叶えられる」……今だったら、そのシンプルな言葉の危うさを指摘したり、警鐘を鳴らす内容しか、抽出できなかったんです。

 

実際には、良いことをしても酷い目に遭い、悪いことに耐えられず、自分を愛する余裕もない、裏切られた人たちがたくさん聖書に出てくるんですが、そんなの説明していたら受け入れてもらうのが大変です。どういうこと? 意味分からない! 何で神様そんなことするの? それって信じる意味あるの?……って。

 

伝道を成功させるなら、たくさんの人に受け入れてもらうなら、本当に私たちが信じていることを隠して、つまずきやすい聖書の話なんて伏せて、みんなが感動しやすい言葉を並べ、とにかく「いいね」と思ってもらい、洗礼を受けさせちゃった方が楽でしょう。実際、聖書の話をよく知らないまま、すぐ洗礼を受けさせちゃうところもあります。

 

「神様好き」「イエス様好き」って言わせたら、勝ちって思っているところもあります。でも正直、イエス様の意味分かんないところや、神様の受け入れ難い厳しさって、聖書を読んでいたら、自然につまずくとこだと思うんです。あるいは、「裁きが怖い」「滅びたくない」と思わせて、とにかく洗礼を受けさせたらセーフって考えるとこもあります。でもそれって、恐怖を煽る陰謀論や霊感商法と同じやり方だと思うんです。

 

パウロのメッセージを見ていると、このはざまで揺れていることを感じます。先ほど読んだ聖書箇所に出てくる舞台はアテネです。ご存知の通り、イスラエルから見れば異教の地、しかも、プラトンやソクラテスの出身地……当時最高の文化的中心地で、教養レベルも高い街です。牧師や神父が、佛教大学でキリストの話をするくらい緊張する場所。

 

パウロは最初、彼らに分かる言葉で、彼らに届く表現で「あなたたちが祭壇に『知られざる神』と刻んだ方こそ、自分が知らせたい神なんだ」と語ります。分かりやすい、受け入れやすい出だしです。興味を持った人たちもたくさんいました。そのままアテネの人に受け入れやすい言葉だけ選んでいれば、大勢の人がついてきてくれたでしょう。

 

ところが、パウロは「それを言ったら信じてくれない」と思われる、致命的な話をしてしまいます。神がキリストを死者の中から復活させたと言うんです。こんなの信じてない人からすれば「何それ?」という内容です。ある者はあざ笑い、ある者はこう言います。「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」

 

やんわりと「今は聞きたくない」と言われた。ちょっと忙しいから、また後でね……私には重要なことじゃないようだから、暇なときに聞かせてくれ……現代でも、神様の話、イエス様の話をしようとしたら、同じような反応が返ってくるでしょう。困惑した表情を浮かべながら、「また今度ね」「いつか聞かせて」「私が聞く気になったとき」

 

そう、どう考えてもこれを持ち出せば、裁きや復活の話をすれば、人が離れていくのは目に見えてます。最初はとても上手かった。アテネの人たちが、様々な神を祀っているのを攻撃せず、「あなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と言い、世界とその中の万物とを作られた神について語り始めた。

 

「神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」これらの言葉に共感した人、心を打たれた人もいたでしょう。「我らは神の中に生き、動き、存在する」「我らもその子孫である」と、彼らの間で親しまれてる詩人の言葉も引用して、優しく強く語りました。

 

でもパウロは、神がキリストを死者の中から復活させた話を持ち出して、一気に引かれてしまいます。イデアとか、「よく生きる」とか、キリスト教の中からアテネの人に受け入れられそうなところだけ抽出して語ればよかったのに、正面から、自分たちの持つ異質な信仰を提示します。私はこれを信じている。あなたもどうか聞いてほしい。

 

多くの人は去りました。興味を持って聞いていた人も、途端に離れていきました。パウロはその人たちを引き留めて、無理やり話を聞かせようとはしませんでした。静かに、地道に、丁寧に、行く先々で語りました。そんな彼について行って、信仰に入った人も何人かはいました。名前が記されているのは2人だけ。他の人も、二桁はいかないでしょう。

 

やがて、彼はアテネを離れ、コリントの町へ旅立ちます。アテネではほとんどの人がパウロの言葉につまずいて、聞く気を無くして、信仰から離れてしまいました。「いずれまた聞かせてもらおう」と言った人たちは、チャンスを逃し、あざ笑ったまま、神様を、イエス様を、受け入れることはなかったんでしょうか? この伝道は失敗したんでしょうか?

 

実は、この寂しい旅立ちは、パウロだけのものではありませんでした。彼の人生を180度変えたイエス様も、行く先々で人々につまずかれ、言うことを理解されず、あざ笑われました。信じる人もいましたが、信じない人もかなりいたことが書かれています。そもそも、弟子たちでさえ、最初はイエス様の言うことを信じなかったんです。

 

イエス様の命令を愚かに思ったペトロ、イエス様の出身を軽んじたナタナエル、イエス様の死と復活を信じなかった12弟子、そして、イエス様を信じる者を捕える側にいたパウロ……「いずれまた聞かせてもらおう」という態度を取ってきたのは、今、イエス様を信じ、イエス様に従っている弟子たちでした。

 

彼らは、信じる気のなかった自分が、受け入れるつもりのなかった自分が、イエス様を受け入れ、十字架を理解し、復活を信じている……という奇妙な体験を持っていました。イエス様の言葉を拒み、無視し、裏切った自分たちに「いずれまた」あの方の声を聞く日が来るなんてあり得なかったのに、死によって「いつか」はなくなったはずなのに、イエス様は手遅れの自分たちにまた語ってきました。死を超え、壁を超えて、入ってきた。

 

だから、再びキリストの弟子となった者たちは、かつての自分たちと同様、イエス様の話を拒み、無視し、「いずれまた聞かせてもらおう」と言われることが分かっていても、行く先々で証をします。たとえ今、自分の語る言葉が入らなくても、信じているものが伝わらなくても、私を信じさせたあの方が、必ずこの人に訪れる。「いずれまた」「いつかまた」は、この人たちにもやって来る。

 

私たちはつまずきながら、イエス様と出会っていきます。誰かが聖書の話を拒むとき、納得できず疑うとき、それは今、この人にイエス様が出会っているしるしです。あなたはキリストを信頼し、静かに、地道に、誠実に、自分の信じていることを語ります。言葉で、行動で、生き方で語ります。

 

あなたの前で、この人が信じなくても……あなたの望む場所で、あなたの望むタイミングで、あなたの望む方法で、この人が信仰に入らなくても、イエス様は、時間も場所も死も超えて、あなたの語った人を導きます。どうか、その道を信頼して歩んでください。「いずれまた」「いつかまた」を、たくさん聞いてきた弟子たちが、失望せず、行く先々で語ったように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知りますように。

 

讃美歌

讃美歌21の442番「はかりも知れない」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

 

司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

愛 餐

本日は、信仰を告白した人があずかる聖餐式に代わって、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

分かち合い

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、このパンと水は、信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。配信を見ておられる教会員の方は、郵送する献金袋に入れて、また後日来られたときにおささげください。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「あなたが共にいること」(©️柳本和良)を歌いましょう。(お立ちください)

 

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げよ。(イザヤ書6:8より)

 

祝 福

神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。(詩編67:2〜3)

 

報 告

本日も配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり感謝致します。先週の在宅礼拝は、ライブ配信の奉仕者10名、同時に視聴された23名、計33名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週も、配信等による在宅礼拝を行います。教会に集まる礼拝の再開は2週間ごとに検討し、決定次第、教会員への連絡網とFacebook、ホームページ等でお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。