ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信仰的な姿勢?』 マタイによる福音書7:1〜6、テモテへの手紙一2:1〜10

小規模礼拝 2021年7月4日


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案 内

華陽教会では、今週から第一・三日曜日と第二・四日曜日に会衆が半分ずつ、数カ所に分かれて集まる小規模礼拝を行っています。共に今、教会にいる人も自宅にいる人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。(歴代誌下6:21)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌87-B「めぐみのひかりは」を歌います。諸事情でマスクを外している方は歌うのをご遠慮いただき、心で賛美をささげましょう。(お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆信仰と希望をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆癒しと回復をもたらす私たちの神様。ようやく半分ずつですが、教会に集まる礼拝を再開することができました。どうか今、心と体が弱っている人、衰えている人を助け、今ここにいる人と一緒に、新しい力を与えてください。

◆赦しと和解をもたらす私たちの神様。この一週間も、人に怒りをぶつけたり、ぶつけられたりしてきました。分かり合うことを諦めてしまった相手がいます。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、私自身が受けた傷も、回復させてください。

◆正義と公正をもたらす私たちの神様。ミャンマーで起きているクーデター、台湾で起きている人権侵害、香港で起きている各種の弾圧を覚えます。どうか今、私たちの家族や友人、知り合いの命を守り、正義と平和が実現するよう導いてください。

◆私たちに愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書7:1〜6、テモテへの手紙一2:1〜10(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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メッセージ

「男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること」「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべき」……何だか堅苦しい言葉が出てきました。この手紙は、教会の組織化が進んだ2世紀頃に書かれた手紙で、初代教会の宣教者パウロを手本とし、テモテをはじめとする教会指導者を模範とするよう、強く勧める内容です。

 

いわゆる「市民的キリスト教」と言われるような生活態度や善行の概念が出てくる手紙で、敬虔で、思慮深く、静かな生活を送るよう強調されています。ようするに、教会が批判されないように、世の中に受け入れてもらえるように、優等生になりなさい……と聞こえるような教えです。

 

今回も「祈りに関する教え」と「男女の立場」について、ちょっと引っかかる言葉で書かれていました。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」……当時の王や高官と言えば、キリスト教徒を厳しく取り締まっていたローマ皇帝や地方総督を指していることは明白です。

 

つまり、自分たちの支配者・敵対者のためにも祈りなさい……と教えられているわけです。ちょっと言葉を換えてみましょう。「総理やすべての議員のためにも祈りなさい」……現代の日本では、教会が国家に迫害されてはいませんが、それでも抵抗がある人は多いでしょう。

 

為政者のために祈るって、為政者に味方している気分になるからです。むしろ、権力者に対しては、抗議や批判をする方が健全に思えるときもあります。彼らのために祈るという選択は、強者にすり寄って目をつけられないよう、ずるいことをしている気分になります。教会が国家に戦争協力をした歴史もあるなら尚更です。

 

しかし、この手紙では「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため」に、為政者のためにも祈ることは「良いこと」だと書かれています。それが、信仰的な姿勢だと……「本当かな?」「いいのかな?」と、現代の私たちには疑問が生まれてきますよね? 味方したくない議員のために、どう祈るのがいいんだろう?

 

続けて、引っかかるのは男女の立場に関する教えです。手紙の著者は、男性の信徒に対しては、「怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること」という一言で済ませていますが、女性の信徒に対しては、様々な注文をつけています。

 

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべき」「髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません」「善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです」……この他にも、女性が人に教えたり、男性の上に立つことを許さない教えや、「女性は子を産むことによって救われる」という炎上しそうな言葉が続きます。どう考えても男尊女卑、男性中心主義の声。

 

これが、牧会書簡の勧める「信仰的な姿勢」です。現代の私たちには、やっぱり疑問が生まれてきます。「それって信仰的なのか?」「それは正当化できるのか?」……皮肉にも、聖書日課で同じ日に選ばれているイエス様の言葉が、手紙の著者にも向けられているように感じます。

 

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」一応、パウロが書いたという体裁を取った手紙に対して、ちょっと言い過ぎに聞こえるでしょうか?

 

でも私は、同じ日に、手紙の著者が諸教会へ教えたことと、イエス様が弟子たちに教えたことを、複合的に見ていくのは、とても大切なことだと思うんです。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」……信仰的な姿勢について、あなたが持っている秤は、裁いてはならないものを裁いてないか? 裁くべきものを裁けない秤になっていないか?

 

華陽教会では、ちょうど2ヶ月にわたって教会に集まれない日が続きました。礼拝のライブ配信の奉仕者以外は、動画や原稿を見ながら在宅礼拝をしていました。その間、かつて自分が誰かに対し「信仰的な姿勢でない」と思っていたのと同じ状況に、身を置いた人もいるでしょう。

 

子育てで礼拝に出られない人、介護で家を空けられない人、日曜日も仕事をしなければならない人……散らかった家の中で、テレビや家族の声がする部屋で、口にできない賛美や祈りを心の中で唱えている。本来なら、決まった場所で、決まった時間に、決まった形で、神に感謝をささげることが、信仰的な姿勢だと思っているのに、それができない。

 

動画は時々見られなくなり、止まったり消えたりしてしまう。気がつけば、髭を伸ばしたまま、髪を梳かさないまま、ろくに着替えもしないで日曜日の朝を過ごしていた。そんな日も、何回かあったかもしれません。いつだったか、教会に行かない家族に対して、知人に対して、注意してきた自分の言葉が跳ね返る。

 

「礼拝が第一」「教会が第一」……私たちと同じように教会へ行くことが、同じ時間に礼拝へ出ることが、同じ姿勢で聖書を聞くことが、信仰的な姿勢です……無意識にそんなメッセージを私たちは発していたかもしれません。それは、教会に人を招く以上に、教会から人を置いていく態度だったかもしれません。

 

今、同じようにできない人が、どうすれば神の言葉を、「良い知らせ」を聞くことができるのか? どうすれば、一緒に聖書の話を聞けるのか? 全ての人のために祈って、考えて、とりなすことは、信仰者の責務でした。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と聞きながら、そのために私たちは、自分がいる場所から動こうとも、変えようともしていなかったかもしれません。

 

在宅礼拝の間、今までは「信仰的な姿勢じゃない」と思っていた方法で聖書のメッセージを聞いた人、「不信仰だと怒られてしまう」と思っていた在り方で信仰生活を続けた人、その中には、かつて自分が裁いてしまった人の現実に、怠惰と思っていた人の気持ちに、触れた人たちもいるでしょう。

 

礼拝に気持ちがついてこない、日曜日に切り替えられない、休んでいたいと思ってしまう……そんな状況にいる人たちを「裁く」気持ちから「共感する」気持ちへ変わった人もいるでしょう。今だからこそ、今まで置いてきた人たちと、無視してしまった人たちと、神の御前へ、一緒に出ることができるような気がします。

 

さあ、神の民となるべき人たちが、私たちの間にいます。教会に来ている人も、配信を見ている人も、その様子を異なる時間、異なる場所から覗いている人たちも、実は、神によって見えない教会に集められています。共に、新しい時が来るように、心をひらく時が来るように、めぐみの賜物を等しく分ける時が来るように、祈りと賛美を合わせましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の501番「主よ、私たちは祈ります」を歌います。諸事情でマスクを外している方は歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

 

司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

食卓を囲めない日の祈り

本日は、飲食による感染リスクを避けるため、パンとぶどう液をいただく聖餐式を休止し「食卓を囲めない日の祈り」を行います。共に「命のパン」「命の水」である神の言葉を受け取りましょう。

 

招 き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6:35)」「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ6:57)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)」

 

主は、荒れ野で悪魔の誘惑を受け、空腹の中「石がパンになるよう命じたらどうだ」と言われたとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ4:4)」と答えました。そうして悪魔は離れ去り、主はガリラヤに帰られて、人々に神の言葉を与えました。

 

今、様々な事情で食卓を囲めない私たちに、主は「命のパン」「命の水」である神の言葉を与えます。食事が喉を通らず水も飲めない人々に、みんなと一緒に食事を味わえない人々に、神様は新しい糧をもたらします。

 

共に、聖書を通して与えられた「神の恵み」「神の祝福」を分かち合う、見えない食卓を囲みましょう。

 

感謝の祈り

恵みと祝福の源である私たちの神様、あなたは私たちの欠乏を満たす「命のパン」「命の水」をお与えになります。孤独に共感を、対立に連帯を、恐怖に信頼をもたらします。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、共に渇き、共に飢え、共に痛みを負われました。

 

ご自分が渇いているときに、孤立した女性に水を求め、新しいつながりを与えました。ご自分が飢えているときに、神の言葉に信頼し、人々に希望を示しました。パンがなく、水がなく、共に食卓を囲めないとき、あなたの言葉一つ一つは、私たちに見えない糧をもたらします。

 

どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和がこの世界を満たしますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神の祝福を宣言しましょう。

皆さんの隣に、前に、後ろにいる人、あるいは離れている人へ、イエス様から与えられた良い知らせを伝えましょう。

 

司式者:主は言われます。

一 同:「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(ルカ23:43)」

司式者:私たちも知らせましょう。

一 同:「主があなたと共におられます」

 

司式者:主は言われます。

一 同:「あなたがたに平和があるように(ヨハネ20:19)」

司式者:私たちも答えましょう。

一 同:「わたしの主、わたしの神よ(ヨハネ20:28)」

 

応答の祈り

感謝の応答として、共に祈りをささげましょう。

 

信仰と希望と愛をもたらす私たちの神様、今ここで、食卓を囲めない日に、「命のパン」「命の水」であるあなたの言葉を分かち合えたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者がもたらされます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を共に分け合う者として、送り出してください。

 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。持ち合わせのない方は、受付でもらった献金袋をそのままお入れください。配信を見ている教会員の方は、また後日、来られたときにおささげください。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌いましょう。諸事情でマスクを外している方は歌うのをご遠慮いただき、心で賛美をささげましょう。(お立ちください)

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

派 遣

願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。(テモテへの手紙一2:1b)

祝 福

平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟(姉妹)たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソの信徒への手紙6:23〜24)

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり感謝致します。先週の在宅礼拝は、ライブ配信の奉仕者13名、同時に視聴された13名、計26名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

今週から第一・三日曜日のAグループと第二・四日曜日のBグループに分かれて、会衆が半分ずつ集まる「小規模礼拝」を再開しています。初めて教会に来る人は、人数調整のため電話かメールでお問い合わせください。一度に大勢でなければ基本的に参加できます。

 

礼拝後、残ってお話される方は混雑を避けるため、ロビーではなく礼拝堂で、十分な間隔をとってお話しください。牧師も入り口ではなく礼拝堂にいるので、お話のある方はこちらでお願いします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。