ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神の命じる戦争って?』 サムエル記上15:1〜6

聖書研究祈祷会 2021年8月11日


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案 内

華陽教会では、感染症拡大を防ぐため、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の間隔調整をした上で、聖書研究祈祷会も配信しながら行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の559番「見よ、世はすべて」を歌いましょう。諸事情でマスクを外している方は歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて水曜日の聖書研究祈祷会に集まれたことを感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外であなたの言葉を受けようとしている人も導いてください。

◆私たちの神様。今度の日曜日には、いよいよ華陽教会で洗礼式が行われます。この日のために、祈り、準備し、学んできた志願者の方に、あなたの祝福がありますように。どうか今、迎える私たちも整えられ、あなたに招かれた喜びを豊かに分かち合えますように。

◆私たちの神様。破壊的カルトやマルチ商法、陰謀論や擬似科学によって、家族や友人と関係が壊れてしまった人に、あなたの慰めがありますように。どうか今、回復のために必要な仲間と知恵が与えられ、孤独と対立から解放されますように。

◆私たちの神様。心の病や発達障害、多様な性のあり方によって、周りとの違いや無理解から、生きにくさを抱える人がいます。どうか今、一人一人を理解し認める存在と、一緒に悩み、考え、歩んでくれる存在が、傍に与えられますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。サムエル記上15:1〜6(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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メッセージ

「聖戦」という言葉を聞いたことがある人は、少なくないと思います。聖なる戦争、神が命じる正しい戦争、平和を勝ち取るための戦争……聖書の中では「神の名において行われる積極的な戦争」を意味しますが、「神の承認を受けた戦い」として、しばしば恣意的に持ち出されます。

 

たとえば、11世紀の教皇グレゴリウス7世は、聖戦を、教皇の権威で定めることができるとし、後の十字軍のイデオロギーを生み出しました[1]。神の命じる「聖戦」として始まった十字軍は、聖地エルサレムをイスラム諸国から奪還することを目標にしていましたが、実態は、領土獲得の征服行為、略奪行為でした。

 

また、軍国主義に妥協した、戦前の日本カトリック司教団も、太平洋戦争をアジア解放のための聖戦とみるイデオロギーを肯定しました[2]。2000年には、ローマ教皇が過去1000年にわたるキリスト教の犯した過ちを謝罪する声明を出しましたが、その中にはもちろん、十字軍などを支持してきた聖戦論も含まれます[3]

 

一方、2000年以降も、アメリカのブッシュ大統領が、自分たちの軍事行動を「十字軍」になぞらえ、プロテスタントの一部で、対テロ戦争が「聖戦」のように語られたことがありました。つまり、「神が認める戦争」「神が命じる戦争」を持ち出して、軍事行動を支持する態度は、現代までずっと続いてきたわけです。

 

そして、「聖戦」として始められた戦争は、いずれも深刻な被害を出し、虐殺や報復を繰り返し、平和をもたらしたことは、一度としてありませんでした。おそらく、現代多くの人は、こういった戦争が正しいとは思わないでしょう。私も、肯定できる戦争があるとは思えません。しかし、聖戦論のもととなった、幾つかの規定やエピソードが、聖書に書かれていることも事実です。

 

たとえば、先ほど読んだエピソード。イスラエルで最初に立てられた王サウルが、アマレク人を全滅させるよう命じられた話。神様は、祭司サムエルを通してこう言います。「イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」

 

アマレク人は、パレスチナ南方の砂漠地帯に生活していた遊牧民で、イスラエルにとっては、古くから宿敵に当たる民族でした[4]。とはいえ、この命令は異常です。アマレクに属する者は、戦闘員、非戦闘員に関わらず、男も女も、子どもも乳飲み子も、家畜までも容赦してはならない、と言われます。誰がどう見てもジェノサイド、理不尽な殺戮ですよね?

 

しかも、その理由は、イスラエルがエジプトから上って来る道で、彼らが妨害してきたこと。これ、サウルが王になる何代も前の話です。まだ、イスラエルに王国ができるどころか、王の前に、士師が治めていたときより前の話。かつて、イスラエルを妨害した人たちなんて、もうみんな死んでいます。なぜ、今になって「報復しろ」と言われるのか?

 

普通なら、神様に「どうしてですか?」と尋ねるところですよね。なぜ、ずっと昔の憎しみを、関係ない人にぶつけるのか? なぜ、女や子ども、乳飲み子まで滅ぼすのか? かつて、「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるのですか?」と訴えたアブラハムのように、問うべきでしょう。「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか?」

 

ところが、サウルにこう伝えたサムエルも、命じられたサウル自身も、この異様な命令に、何の疑問も口にせず、兵を招集し始めます。彼らは、神の言うことならば、何でも素直に聞く人間で、巻き込まれる女性や子どもに、情けをかけない人なんでしょうか? その割に、不思議な行動が見られます。

 

サウルは、アマレクの町まで来ると、攻め入る前に、そこにいたカイン人へ言いました。「あなたたちはアマレク人のもとを立ち退き、避難してください。イスラエルの人々がエジプトから上って来たとき、親切にしてくださったあなたたちを、アマレク人の巻き添えにしたくありません。」

 

巻き添えになる人をほっとけない……そんな気持ちはあるわけです。でも、なぜ、アマレクの女性や子どもたちには、その同情を向けないで、カイン人だけ助けたんでしょう? よっぽど、カイン人には優しくしてもらったんでしょうか? ところが、エジプトから上って来たとき、カイン人がイスラエル人へ親切にしてくれた、というエピソードは、実はどこにも出てきません。

 

カイン人とイスラエル人は、特別仲が良かったわけでもない。むしろ、出エジプトより最近、士師が治めていた時代には、カイン人は、イスラエルの敵対勢力と友好関係にありました。アマレク人もカイン人も、異邦人で、イスラエルと敵対したことがある民族なのに、一方は巻き添えにすることを避けられ、一方は容赦なく攻められます。

 

そんな中、ちょっとだけホッとさせられるのは、なんだかんだ言って、やっぱりサウルと兵士たちは、アマレクを滅ぼし尽くしはできなかった……というところです。ああ、彼らにも人の心はあったのか、よかった、よかった……と言いたいところですが、どうやら彼らが滅ぼさなかったのは、上等な家畜や肥えた動物、捕虜にしたアマレクの王だけで、他は「値打ちのないもの」と判断し、滅ぼし尽くしていたようです。

 

一応、彼らは神様へ供える、焼き尽くす献げ物のために、それらを取っておいたようですが、「値打ちのないもの」と判断されたものの中に、他の家畜をはじめ、女や子どもも含まれていたかもしれない……と考えると、この戦争がどれだけ非情なものか分かります。しかも、彼らが献げ物のために残しておいた家畜や動物を見て、神様は「滅ぼせと言ったのに徹底していない」と怒りだします。

 

サウルは王位の剥奪を宣言され、以後、サムエルから無視されるようになりました。このとき、サウルは自分が命じられたとおりしなかったことを悔い改め、自らの過ちを認めて謝りますが、いくら謝っても顧みられることはありません。サウルよりも深刻な過ちを犯した王はたくさんいますが、良かれと思ってした過失が、誰よりも厳しく裁かれます。

 

ここまで来ると、「神の命じる戦争」が色々おかしいと気づいてきますよね? 始められた理由も、滅ぼす対象も、参加する人たちの態度も、それぞれ歪さが見て取れる。実は、聖書に出てくる「神の名による戦争」は、ほとんどが、こういった歪さを抱えています。もとから、両手を挙げて支持できる戦争じゃないんです。

 

「神に命じられた戦争だ!」と無批判に参加する人たちが、その後いったいどうなったか? 彼らに巻き込まれた人たちが、どんな状況に陥ったか? そこに神様が教えてきたような、私たちに求めてきたような、敵を愛し、隣人を愛し、互いをとりなすような民の姿勢は見られたか?

 

むしろ、離れていきましたよね? サウルがアマレク人に、サムエルがアマレクの王にしたことは、やがてイスラエルに返ってきます。報復が繰り返され、領土が荒らされ、最も弱い者たちが犠牲になります。「神の命じる戦争」として出てくる記述は、いずれも私たちに、本当にその戦いへ無批判に身を投じるべきか考えさせます。

 

かつて、敵のためにとりなした者、正しい裁きか問いかけた者、神の真意を尋ねた者が創世記にも出てきました。しかし、だんだんと、それらの勇気あるやりとりは失われ、神に問うこと、訴えることをやめ、ただ、言われたことを無批判に実行する様子が増えていきます。自分の聞いたこと、受け取ったことが、本当に神の求めていることか、問わない態度が深刻な戦争へ繋がっていきます。

 

「和解」と「平和」をテーマに聖書を読んでいるまさに今、このことを改めて考えたいと思います。神に命じられたと、私たちが思ってきたことは、本当にそのまま、神様から命じられたことだったのか? その結果から、その過程から、改めて考え直すヒントを聖書は与えてくれています。共に今、神の言葉と向き合いましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(和歌山県田辺市の田辺教会)のために、政治に携わる人のために、公務に携わる人のために、医療に携わる人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆和歌山県田辺市の田辺教会のために祈ります。コロナ禍のため、広い建物で一緒に礼拝を守っている、南紀の台教会の人々と、健やかな信仰生活を送れますように。それぞれの教会に、専任の牧師が遣わされ、ますます豊かな歩みができますように。

◆政治に携わる人のために祈ります。災害においても、人災においても、疫病においても適切な協議と判断が行われ、誠実に市民と向き合うことができるように、一人一人を導いてください。特に、対立があるところに冷静な視点と思いやりをもたらしてください。

◆公務に携わる人のために祈ります。キャパシティーを超えた現場で働く保健所の職員や対応に行き詰まっている公務員に、あなたの支えがありますように。必要なとき、必要な所へ、人手と予算が与えられ、問題の解決へと向かいますように。

◆医療に携わる人のために祈ります。全国で、心と体の回復に、従事している人たちが、自らの心と体も守られるように導いてください。周りの家族や患者さん、スタッフの方々の安全と健康も守られますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌11番「どうか平和の主が」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

 

報 告

本日も、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、回線不調のため、途中で配信が切れてしまいましたが、教会に集まった3名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信は、ここで一旦終了しますが、時間のある方は、飛沫防止パーテーションのついた2階集会室で、少しの間、質問や感想、祈ってほしいことを共有できる時間を持ちたいと思います。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。

 

[1] 山脇直司、木寺廉太「聖戦」大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 編『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002、2008参照。

[2] 同上、参照。

[3] 同上、参照。

[4] 中村信博「サムエル記上」『新共同訳 旧約聖書略解』日本キリスト教団出版局、2001、2005、339頁上段7〜8行参照。