ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『どんなふうに復活するの?』 コリントの信徒への手紙一15:35〜52

日曜礼拝 2021年8月29日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる集会を休止し、配信等による在宅礼拝を行っています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(マタイによる福音書13:52b)

 

讃美歌

旧讃美歌87-B「めぐみのひかりは」を歌います。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝が始められたことを感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。この一週間も、あちこちでクラスターが発生し、対策の有無にかかわらず、感染を避けられなかった人たちを覚えます。どうか今、症状が速やかに改善し、生活を取り戻すことができるように、必要な助けをもたらしてください。

◆私たちの神様。この一週間も、検査や医療、介護や福祉に携わり、消耗している人たちを覚えて祈ります。どうか今、現場で奔走している人たちの健康と安全が守られて、一刻も早く、ゆとりと休息ができるように導いてください。

◆私たちの神様。家庭や学校や職場で、様々な困難に直面した人たちを覚えます。どうか今、人とつながりにくい状況でも、あなたのもたらす隣人と助けが得られるように、慰めと、励ましと、知恵と、気づきを与えてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙一15:35〜52(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編104:24〜35(新共同訳交読詩編より抜粋)

交読詩編付きの『讃美歌21』をお持ちの方は、後ろの方に載っています。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(お立ちください)

 

讃美歌

讃美歌21の474番「わが身の望みは」を歌います。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

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congerdesignによるPixabayからの画像

メッセージ

神の存在も信じてるし、キリストの教えも共感するけど、復活だけは信じられない……というコメントが、度々私にも届きます。人は死んだら終わり、永遠の眠りにつくか、あるいは肉体から抜けて魂となり、天国という別の世界へ移住する……それだったら分かるけど、世の終わりに、新しい体で復活するというのは、どうもよく分からない。

 

実は、洗礼を受けたキリスト教徒でも、復活については、比喩のように捉えている人が多いかもしれません。さっきも言ったように、死んだあと、肉体から魂が抜けて天国へ行くことが、「復活」という言葉で表されているんだと、ぼんやりイメージしてる人、華陽教会でも、けっこう多いと思います。

 

ですが、イエス様が弟子たちに教え、私たちも毎週祈っている、祈り方の基本、『主の祈り』では、「天国へいけますように」ではなく、「天国が来ますように」というふうに祈ります。また、イエス様は宣教を始める際に、こう言いました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15より)。

 

私たちが神の国へ行くんじゃなくて、神の国が私たちの方へやって来る。神の国、天の国は、人間の体から魂が抜けて、私たちが「行く」「到達する」ところではなく、向こうから、私たちの方へ「近づいて来る」「訪れる」ものなんです。だから、その準備をしなさい、目を覚ましていなさい、迎えられる用意をしなさいと、イエス様は繰り返し語ります。

 

そう、キリスト教における神の国は、「死んだら行くところ」じゃないんです。そのとき私たちが生きているか、死んでいるかは分からないけど、向こうからやって来るものなんです。復活というのは、神の国が私たちの方へやって来たとき、既に死んでいた人たちも起こされて、私たちも「朽ちない新しい体」にされて、神様に迎えられることなんです。

 

これって、「人間の体から魂が抜けて、天国へ行く」よりも、ずっと信じにくいことです。だって、死んで墓に納められた人が、朽ちてボロボロになった体が、焼かれて灰になった骨が、神様に起こされて、新しい体に変化して、生き返るって言うんですから、もうホラーの世界です。

 

現代の私たちが「そんなの信じられない」となるように、2〜3世紀ごろ、イエス様を信じていた人の間でも、「復活なんて信じられない」という人が出てきました。至極、真っ当な感覚だと思います。肉体なんか捨て、魂が、霊だけが、神の国へ行く、と言われた方がイメージしやすいし、受け入れやすいと思われたでしょう。

 

ところが、世界宣教を始めたパウロは、死者の復活を信じない人たちに、しつこく、しつこく語ります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(コリント一15:13、14より)……かなり厳しい物言いですよね?

 

なぜ、死者の復活がないと、私たちの宣教は無駄になるんでしょう? なぜ、復活のない信仰は無駄だと言われるんでしょう? それは、神によるありえない変化、ありえない介入を、「なくていいもの」にするからです。

 

死んだあと肉体から魂が抜けて、私たちの方が天国へ行く……というのは、確かにあり得そうで、イメージしやすく、希望が持てます。でも、「天国へ行く」という私自身の行為がなければ、神の国へ入れません。じゃあ、私たちは死んだあと、自分で天国へ行けるんでしょうか? 自分で天国に入れるんでしょうか?

 

天国にいる仲間へ合わせる顔がない……という人たちが、一定数いるでしょう。神の国に入った人たちと、一緒に並ぶのが怖い人もいるでしょう。たとえ、「どうぞ」と招かれていても、あの輪の中に、あのグループに入れない、という人もいるでしょう。自分で天の国に入るって、めちゃくちゃ怖いことなんです。

 

「そこに入ることが赦された」という確信、「ふさわしくない自分とは、もう違う」というしるし……それがないと、私たちはどんなに入りたい空間でも、入ることができません。裏切った人、見捨てた人、無視した人、傷つけた人、あるいは嫉妬した人、憧れた人、尊敬する人と同じように、自分が受け入れられることを、信じることができません。

 

私が神の国へ入るには、あの人と一緒の世界に入るには、自分には成し得なかった、ありえない変化が必要です。和解できなかった、優しくなれなかった、勇気を持てなかった自分が、それらを求める神様の国に、イエス様の家に迎えられる……私が自分で達成できない、大きな変化が必要です。

 

キリストがもたらす死者の復活は、私たちに必要な変化を与えます。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活」する。「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活」する。「蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」……復活は、イエス様が私たちに介入される出来事です。

 

神の国に自分で入れず、戸惑い、うろたえ、恐れている私たちに、できないことをできるように、新しく変えてしまう出来事です。かつて、死んでから3日経ち、呼んでも起きるはずのなかった兄弟ラザロは、イエス様に呼ばれて起き上がり、従えなかったはずの声に、従うようになりました。

 

かつて、埋葬される直前であった、未亡人の一人息子は、目を覚まして話せるはずがなかったのに、イエス様に手を取って起こされ、棺から出て、話せるようになりました。かつて、イエス様を見殺しにした弟子たちは、二度と、ついていくことができなくなったはずなのに、復活したイエス様に再び呼ばれ、新しい関係を築くことができました。

 

私たちが復活するとき、イエス様は、かつて、ご自分が死者を起こされたときのように、自ら復活された日のように、墓から出てこられない人を出てこられる体にし、顔を合わせられなくなった人たちを、顔を合わせる関係に変え、自分と一緒に神の国で食卓につく、新しい命を実らせます。私自身が、無理だと思っている変化さえ、もたらすんです。

 

神様を信じ、イエス様を信じるとは、自分自身さえ期待できないような、信じられないような出来事を、起こしてしまう存在を信頼する……という出来事です。あなたは今、自分が土に埋められたら、そのまま芽を出すことのない、朽ちていくだけの人間に思えているかもしれません。でも神様は、あなたをこの地に蒔いたときから、あなたの体が、霊の体に、朽ちない体に復活するように、聖霊という水を注ぎ続けているんです。

 

復活したイエス様と出会い、信じることができなかったトマスは、信じる者となりました。復活したイエス様と出会い、従えなかったペトロは、従う者となりました。復活したイエス様と出会い、悲しんでいたマリアたちは、喜ぶ者となりました。今、死者の復活を信じられない者、罪の赦しを確信できない者も、この方は、種から命が芽生えるように、信仰と希望をもたらします。

 

だから、自分の力で納得できない、受け入れられない、理解できないときも、恐れる必要はありません。神様に、イエス様に、拒否されることを怖がる必要はありません。あなたが新しい命の芽を出すその日まで、この方はしつこく、しつこく声をかけ、水を与え、養い続けてくださる方、あなたを愛する方だからです。

 

讃美歌

オンライン賛美歌8番「何も変わらないと(B)」(©️柳本和良)を歌います。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

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使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。配信を見ている教会員の方は、郵送する献金袋に入れて、後日来られたときにおささげいただくか、振替口座からおささげください。

 

献金の祈り(例)

変化と回復をもたらす私たちの神様、 あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。 今からのち、私自身の生き方が変えられるしるしとして、 ここにささげた供え物を受け入れてください。 主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、献金の讃美歌65-1番「今そなえる」を歌いましょう。著作権保護のため、配信の方では一時音声をカットします。

 

讃美歌

マスクをしたままで、頌栄25番「父・子・聖霊に」を歌いましょう。諸事情でマスクを外している方は歌うのをご遠慮いただき、心で賛美をささげましょう。(お立ちください)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する(コリントの信徒への手紙一15:42より)

 

祝 福

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。(ヘブライ人への手紙13:20〜21)

 

報 告

本日も配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり感謝致します。先週の日曜礼拝は、ライブ配信の奉仕者8名、同時に視聴された22名、計30名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週も配信等による在宅礼拝を行います。会衆が集まる礼拝の再開は2週間毎に検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ等でお伝えします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。