ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『下品だとか淫らとか』 出エジプト記20:3〜7、

日曜礼拝 2021年9月19日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる集会を休止し、配信等による在宅礼拝を行っています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(マタイによる福音書19:17)

 

讃美歌

旧讃美歌365番「わが主イェスよ」を歌います。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆全ての人の隣に立たれる、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて在宅礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの友なる神様。この一週間、一人で悩んできた者、苦しんできた者、相談できなかった者に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、言葉にならない怒りも嘆きもあなたが受けとめ、必要な助けとつながりを与えてください。

◆私たちの母なる神様。この一週間、理解されなかった者、我慢し続けてきた者、自分を責めてきた者に、あなたの憐れみがありますように。どうか今、周りに必要な変化をもたらし、みんなが生きやすくなるよう、助けてください。

◆私たちの父なる神様。この一週間、嫌われてきた者、避けられてきた者、憎まれてきた者に、あなたの慰めがありますように。どうか今、互いを知るためのきっかけと、互いに報いるための気づきと優しさを与えてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。出エジプト記20:3〜7、エフェソの信徒への手紙5:1〜5(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編119:33〜40(新共同訳交読詩編より抜粋)

交読詩編付きの『讃美歌21』をお持ちの方は、後ろの方に載っています。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(お立ちください)

 

讃美歌

讃美歌21の66番「父と子と聖霊の」を歌います。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

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Free-PhotosによるPixabayからの画像

メッセージ

メッセージのタイトルを聞いて、いったい今日はどんな話をするんだろうと、ドキドキした人もいるでしょう。私もドキドキしています。なにせ、聖書日課で当たった箇所は、数ある戒めの中でも「性的不道徳」に関するところで、取り扱いに注意が必要なテーマだからです。

 

キリスト教において、「性的な乱れ」「性的不品行」は、よく「偶像礼拝」や「偶像崇拝」と結びついて語られます。それは、神以外のものを拝むこと、異教の神を礼拝することが「淫行」や「姦淫」にたとえられて、断罪された歴史があるからです。実際、ホセア書では、偶像礼拝をやめない民が「淫行にふけっている」と表現されています。

 

また、異教の国そのものが「性的に乱れている」「卑猥なことをしている」というイメージで語られてきた歴史もあります。つまり、淫らで、卑猥で、下品な者という表現は、キリスト教と対立する者、神から離れている者を指す、強烈なアイコンだったわけです。だからこそ、教会は性的不道徳に敏感です。

 

神様を信じて生きることは、淫らなことや、卑猥なことや、下品なことから離れて、新しい生き方をすることだと考えられます。いわゆる「清く」「正しく」「美しく」という言葉が当てはまる、品行方正な在り方が、キリスト者の在り方だと捉えられています。最初に読んだ、エフェソの信徒への手紙にも、口酸っぱく書かれていました。

 

「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません」「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません」

 

最後の言葉は、だいぶ手厳しい言い方です。でも、共感する人は多いと思います。なぜなら、「淫らな者」「貪欲な者」とは、私たちが思い浮かべる悪党のイメージと、よくマッチするからです。粗野で、乱暴で、貪り尽くし、不特定多数の者と寝る……真面目に生きている人からすれば、分かりやすい「敵」ですよね? 叩きたくなる存在ですよね?

 

そして、自分たちはそういう「悪」じゃない、淫らで汚れた者じゃない、真っ当で常識的な人間だとアピールしたくなりますよね? 最も手軽なアピールは、適当な存在を糾弾することです。親しくない者や、よく知らない相手を非難することです。「性的に乱れている」と思われがちな若者や、よく分からないセクシャリティの人間へ説教することです。

 

でも、「真っ当な信仰者」から説教されるのは、たいてい子どもや若者や性的少数者など立場の弱い人たちです。中高生キャンプに性教育が盛り込まれても、信徒大会で性教育をやることはそうありません。性差別やセクハラなどの淫らなこと、卑猥なこと、下品なことをしている加害者は、圧倒的に大人ですが、他人事にして「性の乱れ」を嘆きます。

 

そして、「ふさわしい交際」や「ふさわしい結婚」を語り始める。多くの破壊的カルトで行われてきた婚姻コントロール、集団が認めた相手としか結婚させない、交際させない、それによって、信者獲得と管理を行いやすくしてしまう……という非常に貪欲な姿勢に染まってないか、私たちは改めて自分に問わねばなりません。 

 

エフェソの信徒たちに宛てられた手紙にも、教会の「外へ」ではなく、教会の「中へ」よくわきまえるよう語られています。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」……あなたがたの「外に」ではなく「間に」それらが存在する。

 

子どもを産めるか知らない夫婦に「子どもはまだ?」と聞いてくる。女性の牧師に「なぜスカートを履かないの?」と言ってくる。知り合って間もない若者へ、貪欲に恋人はできたか尋ねてくる。愚かなこと、淫らなこと、汚れたことと意識しないで、やってしまっていることが、私たちにはたくさんあります。

 

旧約聖書を見ていると、この警告は昔から繰り返されてきたことが分かります。かつてイスラエルの人々は、異教の国々の人たちを性的に乱れていると語りましたが、自分たちも神様から「淫行にふけっている」と非難されました。お前たちの「外に」ではなく、お前たちの「間で」それは起きていると語られました。

 

形式的に犠牲をささげても、私はそれを喜ばない。聖書の記述をただ守っても、私は別に嬉しくない。お前たちの間に、正義と公正がなければ、謙虚と思いやりがなければ、愛と悔い改めがなければ、その献げ物に、その礼拝に、どんな意味があるだろう?……そんなふうに嘆いている、神様の言葉が出てきます。

 

偶像礼拝とは、都合よく神様を見て、都合よく自分を見せることです。神様が、どこまで自分のことを見逃して、自分の言うことを支持してくれるか、自ら設定することです。無意識に私たちはやっています。自分の淫らなところ、愚かなところに気づかず、自分を清く見せるため、裁く相手を定めます。この人を裁く自分は正しいと考えます。

 

でも、「みだらな者」「汚れた者」「貪欲な者」って誰なんでしょう? 私たちの外にいる叩きやすい相手なんでしょうか? それとも、私たちの間にいる、私たち自身なんでしょうか? 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」「あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1、2b)

 

讃美歌

オンライン賛美歌25番「住む家のないわたしたちに」(©️柳本和良)を歌います。同居している方がいるところは、念のためマスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

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使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

 

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。配信を見ている教会員の方は、郵送する献金袋に入れて、後日来られたときにおささげいただくか、振替口座からおささげください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の4節を歌いましょう。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、頌栄25番「父・子・聖霊に」を歌いましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

派 遣

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソの信徒への手紙5:1)

祝 福

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。(テサロニケの信徒への手紙一5:23)

 

報 告

本日も配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり感謝致します。先週の日曜礼拝は、ライブ配信の奉仕者6名、同時に視聴された18名、計24名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週26日は、配信等による在宅礼拝が終わった後、今年度と昨年度、芽含幼稚園に就任された、新任の先生の就任式を行います。就任式は、教会役員と理事のみ集まり、華陽教会の関係者へ限定公開で配信する予定です。水曜日にURLを載せた文書を発行します。

 

なお、配信等による在宅礼拝は、9月30日まで続ける予定です。会衆が集まる礼拝の再開は2週間毎に検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ等でお伝えします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。