ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信仰によって、できたの?』 ヘブライ人への手紙11:17〜31

日曜礼拝 2021年10月3日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる集会を休止し、配信等による在宅礼拝を行っています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。)

 

招 詞

ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ書43:1)

 

讃美歌

旧讃美歌365番「わが主イェスよ」を歌います。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆全ての人の隣に立たれる、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、在宅礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。岐阜県の病床使用率も20%を切り、ステージ2以下となりました。来週から、いよいよ会衆が集まる礼拝を再開します。どうか今、礼拝へ行くのを心待ちにしてきた、みんなの健康と体調を整え、みんなの安全を守ってください。

◆私たちの神様。今日は世界聖餐日と世界宣教の日でもあります。残念ながら、みんなと一緒に、聖餐式はまだできませんが、各家庭でパンと水を用意して、神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。どうか今、私たちをあなたの食卓へ招いてください。

◆私たちの神様。学校、家庭、近所、職場、様々な場所で多くの問題が生まれています。どうしたらいいか分からないことも多々あります。どうか今、私たちの隣に、前に、後ろに立って、孤立と断絶から救ってください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヘブライ人への手紙11:17〜31(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編31:22〜25(新共同訳交読詩編より抜粋)

交読詩編付きの『讃美歌21』をお持ちの方は、後ろの方に載っています。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(お立ちください)

 

讃美歌

讃美歌21の370番「おもいもことばも」を歌います。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

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Free-PhotosによるPixabayからの画像

メッセージ

信仰によって、普通ならできないことが行われた……そんなエピソードの羅列が、ヘブライ人への手紙に出てきます。信仰によって、アブラハムは息子イサクを献げようとし、信仰によって、モーセはイスラエル人をエジプトの地から脱出させ、信仰によって、娼婦ラハブはイスラエルの偵察を匿った……信仰があれば、何でもできる。

 

こんな言葉を聞かされて、皆さんは「信仰ってすごい!」「信仰を持ちたい!」と思うでしょうか? むしろ、がっくり来ないでしょうか? 私にはそんなことできない、そんなすごい信仰持てやしない、ギャップがありすぎて自分事とは思えない……それどころか、別の疑問も出てきます。これらのエピソードは、本当に「信仰的」と言えるのか?

 

普通なら、息子を殺して神に献げるなんて行為、親にできるとは思えません。でも、アブラハムは信仰によって、「息子は生き返らせてもらえる」と信じて殺そうとします。はっきり言って異様です。たとえ、甦らせてもらえるとして、「痛い」「怖い」と叫ぶ我が子の体に、刃物を突き立てられるでしょうか? そんなこと神が求めると思うでしょうか?

 

「あなたの愛する独り子イサクを」「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」……その命令に、一切疑問を挟まなかったアブラハム……神がそれを求めていると、信じてやまなかった彼……結局、天の使いに止められるまで、神は息子の命を求めていると思い込んでいた彼は、神のことをちゃんと分かっていませんでした。彼は何を信じていたんでしょう?

 

普通なら、王女の子どもとして生きるか、奴隷の子どもとして生きるか、どっちか選べと言われたら、後者はなかなか選べません。でも、モーセは信仰によって、ファラオの王女の子ではなく、神の民と共に虐待される方を選びます。ところが、よくよく読み返してみれば、この選択が、信仰とは、あまり関係なかったことが分かります。

 

モーセが王女の子として居られなくなったのは、奴隷を虐めていたエジプト人を殺したからです。殺人がばれて、王に追われる身となったから、彼はエジプトを去ったんです。さらに、信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、イスラエル人をエジプトから脱出させたとありますが、実際にはめちゃくちゃ恐れていました。

 

「今、行きなさい」という神の命令を何度も拒み、自分じゃない者を遣わしてくれと頼み込み、それでも折れない神に観念して、仕方なくモーセは民を導きました。民の方も、信仰によって「陸地を渡るように海を渡った」とありますが、彼らは直前まで不満を言い続けていました。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか」と。

 

イスラエル人が、モーセの言葉を信頼して、神の力を頼りにして、祈り求めたことなんて、出エジプトの物語ではほとんどありません。だいたい不満を言うか、反抗するか、攻撃するかです。にもかかわらず、神様は何度も彼らの窮地を救い、自分を信じるように呼びかけ続けます。しかし、彼らは答えません。彼らは何を頼りにしていたんでしょう?

 

普通なら、自分の町を襲いにきたイスラエル人を匿って、国に対する反逆行為をするなんて、一介の娼婦にできることとは思えません。でも、ラハブは信仰によって、イスラエル人の偵察を匿い、自分と家族の保護を求めます。彼女の神に対する恐れは、確かに信仰的な言葉で語られます。しかし、根っこにあるのは全滅への恐怖です。

 

自分たちだけでも助かりたい、何とか死と略奪を回避したい……彼女は、この辺りの住民が、神に守られたイスラエル人に怖気付き、もはや誰も立ち向かおうとは思ってないのを知っています。しかし、町全体に投降を呼びかけることも、住民のみんなを助けてくれと、とりなすこともできません。自分と身内を守ることに必死です。

 

また、イスラエル人がエリコの町を占領した出来事は信仰的なエピソードとして語られますが、実際には、先住民に対する侵略行為です。この辺りの住民は、下手をすれば、イスラエル人以上に、心から神を恐れていましたが、ラハブの身内以外、みんな殺されてしまいます。この出来事は「神を恐れる住民」が「神の民」に殺された話でもあるんです。

 

ラハブの家に匿ってもらったイスラエル人の偵察2人は、引き続き、エリコの町を占領しようと計画を進めていきますが、本来なら、神にとりなしを求める場面でもあります。「神よ、あの町には、他にもあなたを恐れる住民がいます。彼らと共に歩めないでしょうか?」……そのように、とりなそうとする者は、イスラエルの中にいませんでした。

 

「信仰によって」子どもが殺されかけ、「信仰によって」殺人犯が民を連れ出し、「信仰によって」神を恐れる住民が虐殺される……「信仰によって、できた」と言ってしまっていいのか、私は甚だ疑問です。加えて、「信仰によって」信頼した、恐れなかった、耐え忍んだという言葉は、実際の彼らの様子とギャップがあります。

 

何度も疑い、恐怖に喘ぎ、我慢できずに不満を言う。信仰的な姿とは、かけ離れている人の様子が、それぞれのエピソードに出てきます。これらの話を「信仰によって、できたこと」として取り上げるのはリスクしかありません。だって、読み返せば分かっちゃうんですから。信仰によってできたと思う大半のことは、できていないか、問題があると。

 

ただ一つ、これらのエピソードに共通するのは、疑い、恐れ、我慢できない私たちに、神様の方が付き合い続けてきたことです。正しく信じられない私たち、誠実にとりなしができない私たちを、神様は期待し続け、とりなす者を送ってくれます。「信仰的」でないにもかかわらず、「信仰によって義とされた者」と呼びかけてくださいます。

 

なぜかは、正直分かりません。私が、あなたが、信仰者と認められる理由なんてありません。少なくとも、私たちが胸をはって「これだ」と言えるものはないんです。にもかかわらず、神様の目から見たら、私たちは尊く、愛しく、期待したい相手なんです。イエス様の最期にも、その様子が現れています。

 

あの日、自分が殺される前、これから裏切る者たちと食事をされたイエス様、あの日、自分が復活したことを信じられず、閉じこもっていた弟子たちと食卓に着かれたイエス様……この方は、何度でも、信仰的でない私たちに信仰をもたらします。信仰によって行動したとは言い難い私たちを、信仰によって歩む者へと引き戻します。

 

今日は、世界聖餐日です。残念ながら、会衆の皆さんと直接集まることができるのは来週からなので、今日は一緒に聖餐式をできませんが、各家庭から、神の祝福を分かち合う食事「愛餐式」を共にしたいと思います。キリストの愛と平和が、力と祝福が、あなたの手を満たしますように。

 

讃美歌

オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌います。同居している方がいるところは、念のためマスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

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使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

愛 餐

本日は、各家庭で礼拝をささげる全ての人と、神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

分かち合い

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、このパンと水は、信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」

 

私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

(*パンをいただく)

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」

 

私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

(*水をいただく)

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2節、3節を歌いましょう。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。配信を見ている教会員の方は、郵送する献金袋に入れて、後日来られたときにおささげいただくか、振替口座からおささげください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の3節を歌いましょう。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、頌栄24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

派 遣

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)

祝 福

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(『讃美歌21』93-7番 ⑤創世記28:15より)

 

報 告

本日も配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり感謝致します。先週の日曜礼拝は、ライブ配信の奉仕者7名、同時に視聴された34名、計41名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

たいへんお待たせしましたが、来週から、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、会衆が集まる礼拝を再開します。水曜日の聖書研究祈祷会も、今週から2階礼拝堂で再開します。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。