ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信仰のみってどういうこと?』 ローマの信徒への手紙3:21〜26

聖書研究祈祷会 2021年10月13日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会も、配信と並行して開いています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の378番「栄光は主にあれ」を歌いましょう。諸事情で、マスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆全ての人の隣に立たれる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会が開けたことを感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。

◆私たちの神様。いよいよ、今週から、教会に集まる礼拝を再開することができました。ここまで、あなたが整えてくださり、感謝致します。どうか今、再び集まる人たちの健康と安全が守られ、家から祈りを合わせる人たちと心を一つにできますように。

◆私たちの神様。来週は、7月から延期していた「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇が行われます。どうか今、田瀬、付知、坂下、蘇原、中濃、高山、各務原の教会と、UCCP、在日大韓基督教会、それぞれの教会と支え合い、助け合えるように導いてください。

◆私たちの神様。コロナ禍で生活のリズムが変わったり、心身が衰えたりして、再び外へ出てくることや、前の生活に戻ることが困難になった人たちもいます。どうか今、焦らずゆっくり自分のペースを整えて、一人一人の回復が進みますように。

◆信仰と希望と愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ローマの信徒への手紙3:21〜26(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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Harry StraussによるPixabayからの画像

メッセージ

神様を信じている人は、おそらく一度は、こんなことを考えたことがあると思います。私が救われるにはどうしたら良いか? 神に救われる条件は何なのか? 悪いことをしてしまったり、誰かを傷つけてしまったり、取り返しのつかない失敗をする……そんな私が救われるには、どんな条件が必要なのか?

 

一番イメージしやすいのは、善行を積むことです。悪いことをしてしまったなら、それを償うだけの良い行いを積んでいく。神様に赦してもらえるように、「悪人」から「善人」へと、評価し直してもらえるように、人を助け、優しくし、間違わないように生きていく。「守るべき教え」「従うべきルール」を守り、素行不良でないことを示す。

 

ただし、守るべき教えに従うというのは、あくまで「ゼロ」を「マイナス」にしないことで、「マイナス」を「ゼロ」にしたり、「プラス」にしたりできるものではありません。法律を犯したら「マイナス」になって前科がつきますが、法律を守っても「プラス」になって報酬がもらえるわけではありません。

 

「マイナス」になった人は、それ以降ルールを守るだけでなく、損害賠償を払ったり、刑に服したりして、償いを終えるまで縛られます。もし損害賠償を払わなければ、刑に服すことを拒否すれば、さらに重い罰が加えられるかもしれません。何とか解放されたいし救われたいので、多くの人は早く条件を達成したいと願うでしょう。

 

また、できるだけ「マイナス」にならないよう、ルールを破らずに過ごしたいとも思うでしょう。問題は、人が定めたルールと違って、神様の教えは「違反しない方が難しい」ということです。これに悩まされたのが、のちの宗教改革者ルターでした。彼は、とても真面目な性格でした。神様の教えをきちんと守ろうとしていました。

 

そして、「最も大きな罪は何だろう?」と考えました。イエス様は、ある律法学者から、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」と問われたとき、次の掟を答えています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)

 

だとすれば、最も大きな罪とは「神である主を、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、愛さなかったことではなかろうか?」……ルターはこう考えて、自らの罪の責任について、ますます心を悩ませていきました*1。「あの時も神を忘れてしまった」「あの時も自分を優先してしまった」そんな告解が積み重なっていきました。

 

しかし、どれだけ教会指導者に罪を告白しても、自分に処罰を求めても、彼の心は晴れませんでした。どうしても「自分の罪は赦された」と感じることができなかったんです。彼ほど真面目でなくても「赦された」という確信を持つことは非常に困難です。たとえ、法律上の罪は犯していなくても、約束を破ったり、信頼を失ったり、もはや回復できないように思われる、傷や損害をもたらしたことがある人は、その感覚が分かるでしょう。

 

何をやったら赦されるんだろう? 私に癒せないもの、私に回復できないものの代わりに、どれだけのものを助けたら、良いことをしたら、私が犯した罪は赦されるんだろうか?……答えは見えています。たぶん、どれだけ頑張っても、何をやっても、自分が傷つけたものや、損なったものについて、「赦された」と感じることはできません。

 

だって、自分が壊したもの、傷つけたものは治せていないんですから。過去を変えることも、痛みを消すこともできないんですから……5年以上前に、東日本大震災の復興のためと偽って、募金詐欺をした方と出会いました。その方は、既に刑期を終えて、賠償金も支払い終えていました。もう法律上は解放された存在です。

 

何度も言い聞かせるように「刑を終えた」「償いをしてきた」と呟いていました。しかし「赦された」という感覚は、それでもまだ、なかなか持てないようでした。教会に来て、自分は赦された存在なのか、確認しようとしていたのかもしれません。これで償いが済んだと思っていいのか、自信がなかったのかもしれません。

 

どうしたら、私の汚れは落とせるか? 「綺麗な者」「正しい者」になれるのか? みんな、頭を悩ませます。教えを守り、善行を積んで、「マイナス」を「プラス」に変えようと考えます。でも、「神様を愛する」ことでさえ、純粋な気持ちからというより、自分が救われたいから、助かりたいからというエゴが入る。

 

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、全力で神を愛せる人は、一人もいない。正しい者は一人もいない……ルターもそのことに直面します。それはほぼ、死刑宣告のようなものでした。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という聖書の言葉を踏まえるなら、自分に待っているのは永遠の滅びです。

 

ところが、修道院の一室で、ローマの信徒への手紙を読んでいたとき、ルターは「救いとは、自分たちが頑張って獲得するものではなく、ただ神様を信じることで与えられる、神の一方的な恵みなんだ……」と気づかされます。先ほど読んだところにも書いてありました。

 

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」……これは驚きです。人が教えを守ることによって、その正しさが認められるのではありません。

 

神の子であるイエス様を信じることで、正しい者とされるんです。常に神を第一にできない者、度々神を忘れてしまう者、なかなか教えを守れない者でも、イエス・キリストを信じる人は、みんな正しい者とされる……そんな大胆なことが言われています。本当か? と疑う私たちに、手紙はさらに続けています。

 

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」……考えてみれば、イエス様に従っていた弟子たちも、常に従っていたわけではありません。イエス様の教えを理解できず、度々叱られ、仕舞いには見捨ててしまいます。

 

教えを一つも守れていない、イエス様を第一にできていない……そんな彼らも、十字架にかかって、復活したイエス様から、赦され、愛され、神の民として遣わされます。裏切ったこと、見捨てたことの罰を言い渡されることなく、もう一度「わたしに従いなさい」と呼びかけられ、「あなたがたに平和があるように」と送り出されます。

 

私が救われるには、どうしたらいいか?……その答えは、「これをやれ」「あれをやれ」というものではありません。ただ、イエス様を信じる信仰によってのみ、私たちは救われるんです。私の罪は、私が何かを行うことで赦されるのではありません。私の罪が赦されるよう、イエス様が十字架にかかってくれたことを信じなさい。復活したイエス様が、あなたにも「平和があるように」と呼びかけていることを信じなさい。

 

そう言われているんです。この発見は、ルターの回心から500年以上経った今でも、プロテスタント教会の重要な基礎となっています。神を愛せない、第一にできない、ひたすら恐れてばかりいる……そんな人こそ、この福音を、良い知らせを、受け取ってほしいと思います。あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(滋賀県大津市の大溝教会)のために、学生YMCAのために、岐阜ダルクのために、岐阜地区の諸教会のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆滋賀県大津市の大溝教会のために祈ります。月一回の礼拝と日毎の祈りによって、この教会の信徒が支えられますように。また、代務者と近隣の牧師の教会から、一緒に出席される信徒との交わりが豊かにされ、あなたの栄光が現されますように。

◆学生YMCAのために祈ります。全国の学生寮、ボランティア、フィールドワークのサークルで、活動が制限されている人たちに、あなたの慈しみがありますように。それぞれの意義と役割が新たにされ、必要な気づきと発見がありますように。

◆岐阜ダルクのために祈ります。薬物やアルコールをはじめとする様々な依存症から回復するため、学び、集い、支え合っている人たちに、あなたの祝福がありますように。これからも、その活動が豊かにされ、みんなの望む生き方がもたらされますように。

◆岐阜地区の諸教会のために祈ります。8月の豪雨で被害を受けた教会や、コロナ禍で会計が苦しくなっている教会、集まる場所を探している教会に、あなたの恵みがありますように。それぞれの課題に解決の道が与えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌12番「信じたくても」(©️柳本和良)を歌いましょう。諸事情で、マスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、出席3名、配信1名、計4名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

今週から、日曜礼拝も会衆が集まる形で再開しています。聖書研究や礼拝に参加される方は、マスク、消毒、換気、加湿、三密回避の座席調整にご協力いただけるよう、どうぞよろしくお願いします。また日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

*1:G.S・サンシャイン著、出村彰・出村伸 訳『はじめての宗教改革』教文館、2015年、46頁1〜6行参照。