ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『悲しみの彼方に』(北川博司牧師)ヨハネによる福音書19:23〜27

日曜礼拝 2021年10月17日(岐阜地区交換講壇)


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案 内

華陽教会では、マスク、消毒、換気、加湿、三密回避の座席調整をした上で、会衆が集まる礼拝を再開しています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。)

 

招 詞

わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。(詩編124:8)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌365番「わが主イェスよ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆全ての人の隣に立たれる、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝が開けたことを感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を聞こうとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は延期していた「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇です。どうか今、華陽教会に来られた北川博司先生、在日大韓基督教会岐阜教会へ行かれた鈴木重正先生、蘇原教会へ行かれた柳本伸良先生、それぞれの働きを守り、導いてください。

◆私たちの神様。長年、岐阜地区と飛騨高山教会で牧師の務めを担ってきた大塚信明先生に、あなたの祝福がありますように。どうか今、隠退された先生と、ご家族の生活が守られ、後任の北川博司先生の働きも、ますます豊かに用いられますように。

◆私たちの神様。8月の大雨で、駐車場の砂利、生垣、防草シートが崩落してしまった、田瀬教会の修繕が、速やかに解決しますように。どうか今、献金が順調に集まって、無理なく教会運営ができるように、必要な助けを与えてください。

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書19:23〜27(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編36:2〜10(新共同訳交読詩編より抜粋)

交読詩編付きの『讃美歌21』をお持ちの方は、後ろの方に載っています。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(お立ちください)

神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。

 彼の前に、神への恐れはない。

自分の目に自分を偽っているから

 自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。

彼の口が語ることは悪事、欺き。

 決して目覚めようとも、善を行おうともしない。

床の上でも悪事を謀り/常にその身を不正な道に置き

 悪を退けようとしない。

主よ、あなたの慈しみは天に

 あなたの真実は大空に満ちている。

恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。

 主よ、あなたは人をも獣をも救われる。

神よ、慈しみはいかに貴いことか。

 あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ

あなたの家に滴る恵みに潤い

 あなたの甘美な流れに渇きを癒す。

命の泉はあなたにあり

 あなたの光に、わたしたちは光を見る。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の419番「さあ、共に生きよう」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

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Victoria_BorodinovaによるPixabayからの画像

メッセージ

*本日は「岐阜地区を覚える月間」交換講壇として、飛騨高山教会の北川博司牧師にメッセージをしていただきます。

 

人間はあらゆるものを恐れつつ生きています。それらの恐れの中でも、最も大きな恐れは、自らの弱さや貧しさです。人間はその心の中に弱さや貧しさを抱え、どうしても克服できないで、抱え続けていかなればならない負の部分を持っているのです。

 

私たちは日々、様々な出来事と出会い、いろんな人との出会いを経験しつつ、生きていますが、様々な出会いも出来事もすべて、私たちの心を通して、受け止められ、理解されます。すなわち、どのような出来事や出会いも、私たちの心を通らなければならないのです。

 

同じ出来事に二人の人間が出会った時、一方にとっては、拒否反応がすぐに出てしまい、到底受け止めることができなかったとしても、他方に取っては、たやすく受け止めることができ、その出来事を通して、大切なことに気づかされるということがあります。つまり、私たちの心の中に何があるか、心に何を抱えているかによって、出来事も出会いの意味も、全く変わってしまうのです。

 

自分の弱さや貧しさに対して、自ら気づき、それを受け入れなければならないと、しばし言われます。しかし、これは難しいことです。なかなか自分の弱さや貧しさ、欠点を素直に受け入れることができないからです。自分の弱さを隠したいがゆえに、つい他者の弱さを非難してしまいます。こんなことを繰り返すうちに、私たちの弱さは、心の奥底に次第に隠れ、潜んでしまうのです。

 

イエスは、ピラトが「ナザレのイエス、ユダヤの王」と書いた罪状書きが掛けられた十字架の上につけられていました。十字架につけられながら、彼は、何を思い、何を考え、何を求めたのでしょうか。聖書は、何人もの信仰者によって記されているがゆえに、同じ十字架のイエスの出来事についての描写であっても、記者によって異なっています。今日は、ヨハネ福音書に記されている、十字架のイエスの姿に注目したいと思います。

 

23節です。十字架につけられたイエスの服を、兵士たちが分け合い、また、くじ引きで誰のものにするかを決めたことが記されています。十字架で処刑される囚人の服を執行人の間で分けるのは日常的なことでした。十字架につけられたイエスは、自分の真下で服を分け合う兵士の姿を目の当たりにしたのです。

 

そして、他の福音書には記されていませんが、ヨハネ福音書では、十字架のそばに立っていた人がいたと伝えています。25節に、十字架のそばに立っていたのはイエスの母と母の姉妹、そして、クロパの妻マリアとマグダラのマリアでした。すなわち、イエスに愛され、支えられてきた、様々な背景を持つ女性たちが、十字架のもとに立っていたのです。その中には、自分の腹を痛めてイエスを産んだ母マリアがいました。

 

罪を犯していないわが子が、権力者たちの陰謀によって、十字架につけられてしまった。体には釘が打たれ、十字架に磔にされ、血が流れている。マリアはイエスを産んだ母だからこそ、わが子の処刑の場に立ち、その姿を見つめ、その苦しみを直視しようとしたのです。マリアはわが子であるイエスの痛みに真正面から触れたのです。

 

十字架につけられ、殺され、生涯を閉じようとしているわが子を目の当たりにして、マリアの心は刺し貫かれました。そのようなマリアに対して、イエスは呼びかけたのです。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。十字架の上からイエスは、マリアに向かって「婦人よ」と呼びかけたのです。「母よ」ではなく、「婦人よ」でした。わが子は最後に、母に対して距離を感じさせるような、呼びかけをしたのです。

 

イエスの最後の言葉は、マリアの心をさらにえぐったことでしょう。イエスはわが子ではないのか、他人なのか。「婦人よ」とのイエスの呼びかけは、マリアの思いを打ち砕きました。もちろんマリアはイエスの母でした。イエスの母はマリアただ一人です。しかし、それがイエスではないのです。神様の前に一人の人間として死んでいく。母と子どもという関係を超えて、神様の前に一人の人間として、神様のもとに帰っていく。それが人間の死なのです。

 

イエスは、自分の母を「婦人よ」と呼びました。しかし、それだけではありませんでした。続く言葉は、「御覧なさい。あなたの子です。」という言葉で、イエスの弟子を指しながら、語られたのです。そして、弟子には「見なさい。あなたの母です。」と語られました。十字架のもとに立ったマリアとイエスの弟子、十字架のもとに立った者たちは家族とされます。神様の思いを受け入れる者とされ、家族とされるのです。

 

マリアの人生は苦悩の連続でした。イエスはわが子であってわが子ではない。神が遣わされた子である。母としての葛藤は、何度繰り返されたことでしょう。彼女自身が、自分は一体何者であるのか、人生の中で果たす役割が何であるかを受け入れるには、長い時間がかかったことでしょう。そこには、自分自身との闘いが繰り返され、打ちのめされ、傷ついてきたことでしょう。思いがけない出来事と出会い、思いがけない人との出会いの一つひとつを受け止めながら、イエスの十字架のもとに来たのです。

 

そこで、自分の思いを打ち碎かれ、イエスの母としてイエスを抱きかかえることを諦めざるを得なかった彼女自身も、弱さと罪を抱え、傷を抱えている人間であり、神様が遣わされたイエスによって、解放されなければならない、背負われなければならない、赦されなければならない人間であったのです。

 

イエスの死後、イエスの弟子はマリアを自分の家に引き取りました。この二人を結びつけたのは十字架でした。二人の間には十字架が存在し、十字架という、愛するイエスの命が受けた痛みがありました。この痛みこそが、この二人も、赦しを必要としている存在であり、人を赦していかなければならない存在であることを示したのです。

 

十字架のイエスのもとでは、どんな人間も赦されることが必要です。どんな人間も、人を赦すことが求められているのです。イエスの母であっても、イエスの弟子であっても同じです。赦されることと、赦すことがなくては、生きていけない一人の人間なのです。

 

この世に特別な人間などいません。すべての人間が、十字架のイエスのもとで理解しあうこと、赦しあうことが求められているのです。どのような人間も、十字架のイエスのそばに立つとき、神様の前で赦されなければならない、他者を赦していかなければならない、一人の人間とされるのです。

 

イエスはマリアだけに、また弟子だけに呼びかけてはいません。「御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と、呼びかけています。誰もが弱さと罪を抱え、傷を抱える人間であり、神様が遣わされたイエスによって、解放されなければならない、背負われなければならない、赦されなければならない一人ひとりの人間として名を呼ばれ、共に生きていく家族であるように、呼びかけられているのです。

 

イエスの十字架は、私たちの想像することができないような悲惨な場面であったことでしょう。母マリアも一人では、十字架のそばに立つことはできなかったことでしょう。しかし、共に立つ者がいたからこそ、立つことができたのです。

 

私は、中学校に入学して間もなく、病気で母が神様のみもとに召されました。私は母が危篤だという、父からの電話を受け、その事実を受け入れることができず、兄に伝えられないままに、入院先の病院に行けず、その死の場に立ち会うことができませんでした。母は乳癌が肺に転移し、酸素テントの中で苦しみながらも、私たち子どもの顔を最後にもう一度、見たかったことでしょう。でも、それはかなうことがなかったのです。

 

私の母が亡くなりました。私たちの母が神様のみもとに召されました。しかし、それ以上に、母は神様の前で一人の人間として、神様の命として、死んでいったのです。私たちの母といえども、母の命を創り、赦し、愛した、神様の方が私たちよりも近いのです。

 

弱さと貧しさを抱え、傷を抱える人間である以上、母も神様によって、解放されなければならない、背負われなければならない、赦されなければならない存存だったのです。やはり最も近くにあって、母の痛みに触れ続けていたのは、私たち家族ではなく、神様であったのです。人間を背負う神であったのです。

 

「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした」。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(25節)。

 

イエスの十字架のそばには、兵士たちが立ち、イエスの母を初め女性たちが立っています。兵士たちは、何の罪悪感もなく、刑を執行する者であり、死刑囚の服を分け合う者たちです。他方、イエスの母らはイエスの苦悩を直視しています。十字架のそばに立っても、他者の痛みを感じない者と他者の痛みを感じる者とがいるのです。しかし、どちらも、神様の前で人間なのです。神様に愛されなければ、赦されなければ、背負われなければならない人間なのです。

 

悲しみの中で、自らの弱さと貧しさを抱え続け、その傷に痛む私たち一人ひとりを、十字架のイエスは彼方から、同じ愛のまなざしで見つめています。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

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使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

紹 介

(ご着席ください)本日は( )名の方が、初めて教会に来てくださいました。配信に乗らないように、ご了承いただけた方のみ、礼拝後に紹介します。初めて教会に来た方、配信に来た方、久しぶりに来た方に、神様の祝福がありますように。

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。クリアファイルに挟まれた、とりなしの祈りをご覧ください。配信を見ている方は映し出したものをご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている教会員は、また後日、来られたときにおささげください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の1節を歌いましょう。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、頌栄24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

派 遣

平和のうちにこの世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。(『讃美歌21』93-6⑥)

祝 福

願わくは主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。願わくは主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)を恵まれるように。願わくは主が御顔をあなたに向け/あなたに平安を賜るように。(『讃美歌21』93-7③)

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり感謝致します。先週の日曜礼拝は、教会に集まった24名、同時に視聴された18名、計42名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

本来なら、交換講壇に来てくださった北川博司先生を囲んで、昼食を持ちたいところですが、感染症対策のため中止させていただきます。どうぞ、新しく赴任された北川先生と隠退された大塚先生、飛騨高山教会の方々、岐阜地区の諸教会を覚えてお祈りください。

 

なお、礼拝後、残ってお話される方は、混雑を避けるため、ロビーではなく礼拝堂で、十分な間隔をとってお話しください。また日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。