ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『最後の審判はどうなるの?』 マタイによる福音書25:31〜46

聖書研究祈祷会 2021年12月8日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会も、配信と並行して開いています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の572番「主をあがめよ」を歌いましょう。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆この世界を創造され、完成される神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。キリストの誕生を祝う準備をしながら、再臨のときを待ち望む、アドヴェント第2週目に入りました。どうか今、先週準備できなかったものを、今週少しずつ整えていくことができるよう、導いてください。

◆私たちの神様。今日は「最後の審判」について、聖書を読みながら考えます。教会において、最も注意が必要で、最も扱いにくいテーマでもあります。どうか今、私たちが健全な、誠実な姿勢を持てるよう、聖霊によって導いてください。

◆私たちの神様。来週は、華陽教会の教会学校でクリスマス礼拝が行われます。昨年同様午後からではなく、午前中の短い時間になりましたが、みんなでイエス様の誕生を祝います。どうか今、子どもたちがあなたの恵みを受け取れるよう導いてください。

◆人と人との間に立たれる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書25:31〜46(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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Adina VoicuによるPixabayからの画像

メッセージ

キリスト教徒であろうとなかろうと「最後の審判」と聞いたら、恐ろしいイメージを浮かべる人が、大半だと思います。世の終わり、終末の日に、神の子イエス・キリストが、再びこの世に訪れる。その日、死者は甦り、生きている者も死んでいた者も、イエス様の前に連れてこられ、神の国へ迎えられる者と、滅ぼされる者とに分けられる。

 

羊飼いが羊と山羊を分けるように、神の子が「善人」と「悪人」を選り分ける。片方に救いを宣言し、片方に罰を突きつける。生きている間、誰にどんなことをしてきたか、どんな思いを抱いてきたか、全てが見られ、把握され、一人一人の生き方に応じて裁かれる……誰だって恐ろしくなるでしょう。

 

マタイによる福音書25章の後半に、その様子が記されています。ある人々は、「正しい者」として集められ、神の国を受け継ぐことが宣言される。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と。

 

けれども、彼らは心当たりがないと口にします。王座についたイエス様へ「いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか……」と問いかけます。あなたにそんなことをしてあげた覚えはありません、と。

 

すると、イエス様は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えます。最も小さい者、弱っている者、困っている者に対する態度は、神の子に対する態度と等しく受け取られる。あなたが誰かにしてくれたことを、イエス様は全て見ておられ、自分にしてくれたこととして受け取っている。

 

一方、ある人々は、「正しくない者」として集められ、神の国から締め出されると宣言される。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」と。

 

しかし、彼らも心当たりがないと口にします。「いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と訴えます。あなたがそんな目に遭っているところを、素通りした覚えはありません、と。

 

すると、イエス様は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と答えて、永遠の罰を言い渡します。これって、かなり厳しいですよね? 何か犯罪を犯したとか、暴力をふるったとかじゃなくて、「何もしなかったこと」が裁かれる。誰かを無視して通り過ぎると、イエス様を無視したように受け取られる。

 

しかも、こちらに心当たりのない、遠に忘れた「親切」や「無視」さえ、イエス様は見ておられ、覚えておられ、「あのときこうしてくれた」「こうしてくれなかった」と主張する。他人に見せたことがない自分、一部の人しか知らない自分も、この方は全てご存知で、言い訳も、ごまかしも通用しない……こう聞くと、どうしても不安になってきます。

 

神様に監視され、見張られる気分になってきます。あのとき、あの人を無視したことも、あの人にしてあげなかったことも、イエス様に追求される。あのとき、あの人に見せた態度も、あの人にやってしまったことも、終末の日に告発される。自分は何を訴えられるだろうか? 罪を精算できるだろうか? 親や子どもや孫たちも、何か告発されてしまうだろうか?

 

本来、「最後の審判」は、不義や不正をほっておかない、正しい生き方へ必ず報いる、神の正義と慈しみが中心的なテーマです。しかし、中世には「救済の日」を待ち望む、肯定的なイメージよりも、「断罪の日」を恐れさせる、否定的なイメージが強調され、絵画や文学、メッセージに反映されていきました。

 

今も、自分のしたこと、やらなかったことを容赦なく訴え、告発してくる神のイメージが、何となく心のどこかにあるでしょう。「断罪されたくなかったら、イエス様を信じて洗礼を受け、奉仕と献金に励みなさい」とか、「たくさんの人へ伝道して、地獄を免れさせ、自分自身も罪を精算していこう」とか、脅迫的な思いに囚われるかもしれません。

 

しかし、イエス様が選り分ける人々について、もう一度、注意して見てみましょう。特に、「永遠の火に入れ」と言われた、飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢にいたりする人を見て、お世話をしなかった者たちの姿……これって、私たちもよく知っている人物と重なります。それは誰だと思うでしょうか?

 

実は、イエス様に従っている弟子たちの姿です。イエス様が捕えられ、牢に入れられている間、訪ねてきた弟子はいませんでした。自分たちも捕まることを恐れて、逃げていたからです。イエス様が鞭打たれ、弱っている間、手当てをするために駆け寄った弟子はいませんでした。自分たちも仲間と思われ、傷つけられることを恐れたからです。

 

イエス様が裸にされ、十字架につけられたとき、何か羽織らせに行く弟子はいませんでした。イエス様が十字架の上で「渇く」と言われ、力を失っていたとき、何か飲ませようとする弟子はいませんでした。イエス様の遺体が下ろされ、埋葬されるときも、手伝いに来た弟子はいませんでした。みんなイエス様の最期を見届けることさえできませんでした。イエス様以外の誰かにではなく、イエス様本人に対して、そういう態度を取りました。

 

ペトロも、ヨハネも、ヤコブも、トマスも、みんなそうです。彼らはまさに、イエス様が、飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかった者でした。世の終わり、終末の日に、神の国から締め出され、永遠の火に投げ込まれるはずの者でした。

 

しかし、イエス様はもう裁きが決定している、手遅れと思われる弟子たちに、自分を裏切り、見捨ててしまったという、決定的な罪を犯した人々に、もう一度再会されました。それは、この方が再び訪れる審判の日を先取りする光景でした。そう、戸に鍵をかけて自分を締め出した彼らの家の中へ現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言された日。

 

イエス様は、彼らに再び訪れたとき、「あなたはわたしを放置した」「わたしを無視して逃げ出した」と追求するのではなく、「わたしに従いなさい」ともう一度呼びかけます。自分を「知らない」と3回言ってしまったペトロに、自分のことを「愛している」と3回告白させています。彼らを罰するためではなく、彼らを回復するために訪れます。

 

最後の審判とは、「もう手遅れ」に見える人たちが、変わることも改めることも、不可能に見える人たちが、イエス様の前に集められ、信じるように呼びかけられ、「正しい者」に変えられて、回復される正義の日です。確かにその日、裁きは行われます。間違ったものを、間違ったままにしておけない、正しさを求める声を無視できない神が、変化と回復をもたらします。

 

しかしそれは、あなたが恐れ、怖がっている日ではありません。あなたが真に求め、心から望んでいる日なんです。どうか、脅迫的な思いに支配されるのではなく、神の正義と慈しみに身を委ね、信頼して、誠実に、この日を待ち望みたいと思います。あなたの全てを知っている方は、あなたをどこまでも救おうと、呼びかけ続ける方だからです。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(愛知県名古屋市の広路教会)のために、お金に困っている人のために、人手に困っている人のために、味方がいない人のために祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆愛知県名古屋市の広路教会のために祈ります。若い世代の人たちへ、神様の恵みと助けがあって、信仰が広がっていきますように。様々な制約を受けた礼拝が、一日も早く回復されますように。

◆お金に困っている人のために祈ります。仕事が減ったり無くなった人、働くことが困難な人、出費が重なってしまった人、それぞれに、あなたの憐れみがありますように。どうか今、一人一人に必要な糧が与えられますように。

◆人手に困っている人のために祈ります。様々な現場で、十分な人手を得られず、負担が偏っている人たちに、あなたのお守りがありますように。一刻も早く、待遇が改善され、必要な助けが得られますように。

◆味方がいない人のために祈ります。頼る相手が見つからない人、協力が得られない人にあなたの慈しみがありますように。孤立した状況にいる人へ、味方になってくれる人が、あなたからもたらされますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌11番「どうか平和の主が」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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*楽譜は著作者の許諾を得て掲載しています。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった3名、同時に視聴された6名、計9名が参加されました。後から配信を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信はここまでですが、この後2時半まで、希望する参加者が質問したり、祈ってほしいことを分かち合える時間を持ちたいと思います。時間のある方はぜひ、ご参加ください。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。