ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

2022年 礼拝研修会「①各讃美歌の使用と目的」「②聖餐式と愛餐式」

礼拝研修会 2022年1月23日


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はじめに

この記事は、2022年1月23日(日)の在宅礼拝が終わった後、YouTubeの配信を使ってオンラインで行った日本基督教団華陽教会の礼拝研修会の原稿です。

 

華陽教会では、例年、1月のどこかで「前奏」から「後奏」まで、一つ一つの要素を説明しながら礼拝の意味について振り返る『オープン礼拝』を行った後、午後から『礼拝研修会』を持っています。今年は、新型コロナ感染症第6波に伴い、昨年同様、教会に集まっての研修会は休止することになりました。

 

その代わり、YouTubeの配信を通して、コロナ禍で在宅礼拝になってから使用するようになった讃美歌や、会衆と共に聖餐式ができない月に行われるようになった愛餐式について、改めて共有する時間を作ろうと思います。

 

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Khoa LêによるPixabayからの画像

『讃美歌』『讃美歌21』『オンライン賛美歌』の使用と目的

まずは現在、華陽教会で使われている3つの讃美歌、『54年版讃美歌』『讃美歌21』『オンライン讃美歌』の使用と目的について振り返ろうと思います。

 

讃美歌

華陽教会では、毎週日曜日の礼拝で、最初に歌う賛美歌に『54年版讃美歌』(普段は『旧讃美歌』と呼んでいます)を使っています。これは、礼拝の開始を告げる「前奏」に続いて、神の招きを告げる聖句「招詞」が読まれた後に歌われる賛美に位置します。この部分の賛美歌は、「神の招きに対する応答」として歌われます。

 

そのため、奏楽者を中心とする礼拝委員会で、2ヶ月毎に教会暦のテーマに沿ったものが選ばれます。『旧讃美歌』は、日本で古くから歌われている賛美歌が多数収録されているので、よく知られた歌や懐かしい歌が多いです。礼拝の最初の部分で、みんなが歌いやすい馴染みのある賛美歌を歌って、神の招きにあずかりやすくしています。

 

また、『旧讃美歌』に収められた賛美歌は、ほとんど著作権の保護期間が切れているかJASRAC管理の内国作品となっています。そのため、YouTubeのライブ配信にも、アーカイブ動画にも、手続きなしで流せる作品が多くあります。直接礼拝に参加できない人やリアルタイムで配信を見られない人も、カット編集していない賛美歌を一緒に歌えるように、なるべくそういったものを選んでいます。

 

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讃美歌21

『讃美歌21』は、華陽教会がメインで使用している讃美歌です。主に、聖書と交読詩編を読んだ後、メッセージの前に歌われる賛美歌か、メッセージの後に歌われる賛美歌、あるいは、祝福の前に歌う「派遣」や「頌栄」にあたる部分で使われています。メッセージの前後にあたる賛美歌は、担当する牧師が選んでいます。

 

メッセージの前には、「神の言葉を受け取る準備」にふさわしい賛美歌が、メッセージの後には、「神の言葉を締めくくる」のにふさわしい賛美歌が選ばれます。そのため、だいたいは聖書箇所に即したものか、メッセージのテーマと一致する賛美歌を用いることが多いです。「派遣」や「頌栄」の部分の賛美歌は、教会暦に応じて礼拝委員会で選びます。

 

『讃美歌21』には、『旧讃美歌』ではあまり収録されていなかった新しい賛美歌や、アジア・アフリカ圏の賛美歌が多数収録されており、目次を見ても分かるように、礼拝の諸要素に適合する歌が、だいたい揃っています。

 

ただし、著作権保護期間の切れてない、新しい賛美歌が多いので、配信に流せないものやライブ配信後にアーカイブからカット編集しなければならないものも入っています。コロナ禍による特例で、日本基督教団出版局が著作権を管理している楽曲については、一定期間手続きなしで使えますが、通常は1週間から10日ほど前に申請手続きを行います。

 

オンライン賛美歌

オンライン賛美歌は、コロナ禍に入ってから、配信等による在宅礼拝に切り替わったタイミングで、徐々に使用するようになった賛美歌です。日本基督教団鈴蘭台教会で牧師をしている柳本和良先生(名前を見たら分かるかと思いますが、私の弟です)が作った賛美歌で、メッセージ後の「神の言葉を締めくくる」賛美か、祝福の前に「派遣」や「頌栄」として歌われる賛美に使っています。

 

新しい賛美歌なので、歌い慣れてない人も多いため、基本的には1ヶ月毎に礼拝委員会で検討して、教会暦やその月のメッセージにふさわしい歌を選んでいます。オンライン賛美歌を使用するようになったきっかけは、感染症拡大のため、配信を通して自宅から礼拝に参加する人たちが、歌うことのできる賛美歌を確保するためです。

 

というのも、著作権保護期間の切れていない賛美歌や、日本基督教団出版局、および、JASRAC管理の内国作品以外の楽曲は、許諾申請手続きが困難だったり、使用料を支払う必要が出てくるため、普段の礼拝に使用できないことがたくさんあります。

 

また、著作権保護期間の切れている賛美歌が多い『54年版讃美歌』も、YouTubeに搭載されたAIにより、CDに収録された楽曲をそのまま教会で流していると勘違いされ、著作権侵害の申し立てを受けることがあります。よく歌われる有名な賛美歌ほど、CDやレコードに収録されていることが多いため、泣く泣く後からカットしている賛美歌もあります。

 

最近は、子育てや介護の関係で、リアルタイムの配信に参加できない人も増えているので、できる限り、ライブ配信が終わった後も、アーカイブ動画に歌える賛美歌を残しておきたいと願っています。しかし、配信に残せる賛美歌には限りがあります。そこで、礼拝で使用する目的なら手続きなしで使えるように……と作られたのがオンライン賛美歌です。

 

オンライン賛美歌は、柳本和良先生が、2011年の東日本大震災以降、コツコツ作ってきた賛美歌で、信仰的なつまずきや疑問、悩みや課題を分かち合える歌が多く入っています。配信で楽譜の掲載も許可されているため、始めて動画を見る人にも分かりやすく、水曜日の聖書研究祈祷会や教会学校こども礼拝でも使わせていただいています。

 

賛美歌を選ぶ理由と準備

以上、紹介したように、華陽教会ではそれぞれの讃美歌を、教会暦やメッセージのテーマ、使用する目的を考えて、牧師や奏楽者を中心とする礼拝委員会で検討しながら選んでいます。YouTubeで礼拝を配信するために、著作権も事前に調べて準備しています。好きな賛美歌を適当に選んで用意するわけではありません。

 

奏楽者の方も、前奏や後奏に使う賛美歌をギリギリまで悩んだり、祈りながら準備しています。それらのことを踏まえながら、会衆の皆さんから「この賛美歌も使えないか?」「こういう時期に、こういうテーマでこの歌を歌えないか?」という提案があれば、他の歌集の歌であっても、一緒に検討したいと思っています。

 

ただし、賛美歌なら何でも使えるというわけではなく、中には、キリスト教を装った破壊的カルトや、議論ある団体から発行されている歌集もあります。著作権フリーになっていても、使用する教会が増えることで、出版元のカルト的な団体の信頼を高めてしまう危険もあります。

 

これは、聖書翻訳についても同様で、著作権フリーだからと言って、全てが安心して使えるわけではありません。基本的には、教団出版局など、どういう背景のところが、どういう目的で作ったものか、明らかなものを使用するのが適切です。何か、気になる賛美歌があったときは、まずは、牧師や礼拝委員の方々へご相談ください。

 

賛美歌を歌う会衆の準備

ここまでは、メッセージを担当する牧師や奏楽者を中心とする礼拝委員会の視点から、どの賛美歌を、どんな目的で使用しているのか話してきました。ここからは、会衆である皆さんの視点から、賛美歌の使用と目的について、確認したいと思います。

 

毎年、オープン礼拝や礼拝研修会があるときは、繰り返しお話ししていますが、賛美歌は、「神の招き」「神の言葉」に対する会衆の応答です。皆さんが、神を呼び求める声であり、祈りであり、姿勢であって、神の恵みに対する感謝のささげものでもあります。自分たちが満足することを目的にしているわけじゃありません。

 

ときどき、馴染みのある歌、気に入った歌だけを、自分たちのために歌っている……という状況に陥ってないか、気をつけてほしいと思います。歌うのが難しい曲が選ばれたときも、今、その歌を通して、どんな姿勢をみんなで現そうとしているのか、一緒に考えてほしいんです。

 

もっとゆっくり歌いたい、もっと早く歌いたい……という気持ちのときも、奏楽者が、なぜ、このテンポでリードしているのか、なぜ、この曲調で弾いているのか、歌詞を味わいながら考えてほしいんです。自分が歌いやすいように、歌って満足するのが賛美歌ではありません。慣れない歌い方でも、失敗しがちでも、集まったみんなで、精一杯、神様にささげる賛美に、神の栄光は現れます。

 

そして、歌詞や曲調に込められた意味を考えながら、賛美をささげようとすれば、自ずと色んなことに気がついてきます。たとえば、賛美歌の最後には、ほとんど必ず「アーメン」という言葉をつけますが、「アーメン」で終わるのが、不自然なときもたまにあります。

 

「アーメン」は多くの方がご存知のとおり、「本当です」とか「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語で、もともと、賛美歌の最後に、必ずつけると決まっていたものではありません。日本では 1931 年版と 1954 年版の『讃美歌』で、全ての歌詞に「アーメン」が記載されたことにより、習慣的に「アーメン」をつけるようになりました。

 

しかし本来は、その賛美歌の歌われる位置や用途、歌詞の内容によって、「つけるか」「つけないか」を決めるものです。『讃美歌21』では、混乱を避けるため、便宜上、ほとんどの歌詞に「アーメン」の歌詞を載せていますが、必要に応じて使い分けるよう勧められています。

 

特に、コロナ禍で時間を短縮して礼拝を行う場合、全ての歌詞を歌わずに、1番と3番だけ……というふうに、省略して歌うこともありました。そういうとき、「この礼拝で、この時間に、この歌詞とこの歌詞で歌うなら、最後に『アーメン』とつけるのはおかしい」という場合も出てきます。

 

たとえば、「神よ、あなたは来てくださいますか?」という疑問で終わる歌詞なのに、「本当です」とか「本当にそうなりますように」という「アーメン」が最後についたら、どういう姿勢?……となりますよね。

 

つけたり、つけなかったりじゃ、ややこしいから……という理由で、全部の賛美歌に一律「アーメン」とつけるのではなく、どのように歌うのが、「感謝の応答」としてふさわしいか、神を呼び求める姿勢にふさわしいか、一緒に考えながら、これからも歌っていきたいと思います。

 

「聖餐式」と「愛餐式」

次に、華陽教会で行われている月一回の「聖餐式」と、在宅礼拝期間中に配信を通して行われている「愛餐式」について、信徒の皆さんには繰り返しになりますが、改めて共有したいと思います。

 

聖餐式とは?

まず、パンとぶどう液をいただく「聖餐式」は何のための式かと言うと、これは「キリスト者であり続けるための式」です。よく、洗礼を受けて教会員になった人の「ご褒美」と勘違いしている人がいますが、それは違います。聖餐式は、信仰告白をした人が繰り返しあずかるように命じられた「務め」であり、「恵み」です。

 

信仰的につまずいたから、神様を疑ってしまったから、今日は聖餐を受けるのを控えます……という態度は、間違いです。むしろ、信仰者であり続けることが困難に感じたときこそ、聖餐を受けて、イエス・キリストが共にいることを覚えます。

 

この食事は、キリストが十字架につけられる前夜、これから自分を見捨てる人たちと最後にとった食事であり、キリストが復活した後、自分に出会っても気づかない弟子たちと一緒にとった食事です。イエス様の弟子であり続けるのが困難なときこそ、イエス様はこの食卓へ一緒に着くのを求めています。

 

だから、信仰を告白した方は、あなたに命じられた務めとして、できる限り、聖餐式に参加できるときはあずかってください。また、聖餐式は、キリストの十字架と復活を思い起こすという意味だけでなく、将来行われる、神の国の祝宴を先取りした食卓でもあります。自分を見捨てる弟子たちに、神の国で再び飲もうと言われたイエス様を思い起こし、私たちも、その食卓へ招かれていることを思い出します。

 

これらは、個人的な体験として行われる儀式ではなく、信仰共同体の体験として、繰り返される儀式です。誰が一番偉いか、誰がイエス様を裏切るか、疑ったり、争ったりする仲間たちが、イエス様を中心に一つとされたことを思い出す儀式です。ですから、「あなたは受けるべきじゃない」とか「私は一人で受けたい」とか言うのではなく、信仰者同士、互いにとりなし合いながら、パンとぶどう液を受け取ることが勧められます。

 

そして、聖餐式は、キリストが行うよう命じた、教会が行う「聖礼典」の一つで、基本的には牧師が執行します。離れたところにいる人たちと、画面越しで、顔の見えないまま、配信を通して執行できるかは議論があり、私も慎重派です。少なくとも、華陽教会でやるには、まだその準備が整っていないと思っています。そこで、現在は、対面で集まれるときのみ聖餐式を行っています。

 

愛餐式とは?

一方、「愛餐式」というのは、「集まった人たちと神の祝福を分かち合う食事」です。信仰を告白した人も、告白していない人も、共に分かち合う恵みとして、「パンと水」「パン菓子やお茶」などをいただきます。

 

これは、キリストが山の上で5千人に分けられた、パンと魚の食事を根拠に整えられているもので、イエス様の弟子になった人も、ただ集まっただけの人も、一緒に分かち合った食事が元になっています。

 

華陽教会では、さらに、キリストがサマリアの女性に与えると言った「命の水」、キリストが群衆に与えると語った「命のパン」の聖書箇所から、神の祝福を分かち合う食事の式文を考えています。愛餐式も、聖餐式と同様、個人的な儀式ではなく、聖書の言葉を共に聞く者たちの儀式なので、なるべく家族や同居している人たちと一緒に行うことが望ましいです。

 

キリストが行うよう命じた聖礼典ではありませんが、華陽教会のルーツであるメソジスト教会が、各家庭で積極的に行っていたものでした。必ずしも牧師が執行しなければならないものではありませんが、集まった人たちが、一緒に聖書を聞いてから行うことが本来の形です。ですから、自宅でやる場合も、礼拝の中で行うか、聖書日課で定められた聖書箇所などを読んでから行うことが望ましいです。

 

もともと、各家庭で行われていた性格のものから、配信を通して、それぞれの自宅でこの食事を分かち合うことができるようにしています。愛餐式は、集まった人たちが信仰に導かれ、いずれは、一緒に聖餐を受けることを願い、共にあずかる食事でもあります。聖餐式ができない間、在宅礼拝期間中は、離れた人たちと一緒に、再び聖餐ができる日を願いながら、配信を通して、各家庭から愛餐式に参加していただいています。

 

また、中部学院大学の聖歌隊や新来者がたくさん来られるクリスマス、教会員の家族や遺族が集まる召天者記念礼拝など、信仰を告白した人と告白していない人が、一同に介する機会のときは、役員会で検討し、愛餐式を会衆礼拝の中で行うこともあります。

 

実際、去年の12月は、第一日曜日に聖餐式を行い、クリスマス礼拝で愛餐式を行わせていただきました。教会員が、帰省してきた家族と一緒に来られることが多い、1月1日の元旦礼拝にも、感染症対策を徹底した上で愛餐式を行っています。

 

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まとめ

このように、華陽教会では、コロナ禍によって、配信等による在宅礼拝が何度か繰り返される中で、その都度、使用と目的について検討しながら、新しい賛美歌や愛餐式を取り入れて来ました。緊急の事態でもあったので、繰り返し共有されても、いまいち飲み込まないまま受け入れて来た方もいたかもしれません。

 

今回、改めて、教会がどのように礼拝の仕方を検討し、模索し、実践してきたのかを考えながら、私たちのこれからの礼拝をより豊かにしていければ幸いです。オンライン研修会のアーカイブは、この後も残しておく予定なので、質問のある方はコメント欄でも、直接牧師に電話やメールをしていただいてもOKです。

 

また、再び今日からしばらくの間、会衆が集まる礼拝を休止することになりましたが、この間もそれぞれの自宅、施設から行われる礼拝が、神様に支えられて、一人一人の信仰生活が守られるようにお祈りしています。

 

お祈り

日々、歩みを共にしてくださる、私たちの神様。

今日は、急遽、在宅礼拝へ以降することになりましたが、

こうして最後まで、礼拝と研修会を導いてくださり、感謝致します。

まだまだ、どうすることが最適なのか、模索し続ける日々ですが、

あなたとのつながりを強く持ち続けることができますように。

そして、教会に連なる一人一人の交わりも、

引き続き、新しくされていきますように。

人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。