日曜礼拝 2022年1月30日
案 内
華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝に切り替えています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(コリントの信徒への手紙一6:19〜20)
讃美歌
マスクをしたままで、旧讃美歌457番「たのしきこえを」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
お祈り
(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。
◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。この一週間も、聞くべきこと、語るべきこと、行うべきことを、蔑ろにしてしまった私たちをお赦しください。どうか今、私たちが傷つけた人、傷つけられた自分自身に、変化と回復をもたらしてください。
◆私たちの神様。あなたは、本来なら恵みを受け取れない者が、恵みを受け取れるように新しい気づきと力を与えます。全ての者を罪から清め、永遠の命をもたらします。どうか今、その良い知らせを、一人一人に信じさせてください。
◆私たちの神様。天の上にも地の上にも、あなたの栄光が現されますように。どうか今、心を乱す様々な事柄に惑わされず、あなたの声を聞けせてください。これからのち、私たち自身も、あなたの愛と平和を伝えることができますように。
◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。歴代誌下32:24〜26、マルコによる福音書1:40〜45(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。交読詩編も同様に後からカットしています。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編51:12〜21(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です) |
讃美歌
マスクをしたままで、讃美歌21の463番「わが行くみち」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
メッセージ
聖書には、心から信じて神に祈り、病を癒してもらったり、家族を助けてもらったり、敵から解放された人たちが出てきます。信じる者は救われる……従う者は助けられる……まさに、そんなエピソードですが、どういうわけか「よかった、よかった」というふうには、なかなかスッキリ読めません。
最初に読んだ歴代誌のエピソードでは、病にかかったヒゼキヤ王が、せっかく、神様に癒してもらったのに、ふさわしく応えることができず、神の怒りを招いたことが、サラッと書いてありました。これだけだったら、ただの教訓的なお話ですが、厄介なことに、神を怒らせたはずのヒゼキヤは、生きてる間に、思い上がった報いを受けません。
普通はここで天罰が降るか、いただいた恵みを取り上げられるか、何らかの裁きが期待されるでしょう。でも神様は、ヒゼキヤがもう一度へりくだると怒りを収め、その時代には裁きを下さなくなります。うまいこと罰を逃れたヒゼキヤは、住民からの敬意を失うこともなく、在位期間を全うします。
後から読んだマルコによる福音書のエピソードでは、さらに厄介なことになっています。イエス様を心から信じて、病を癒してもらった人物が、「だれにも、何も話さないように」と言い付けられた約束を破り、あっさり人々へ言いふらしてします。そのおかげで、病人を助けたイエス様は、公然と町へ入ることが、できなくなってしまいました。
まさに、恩を仇で返すような出来事です。助けてくれた相手の言葉を聞かないで、かえって迷惑をかけてしまう。しかも、相手は神の子です。普通はここで、イエス様から怒られて、癒された体が、再び病に犯される展開が予想されます。でも、イエス様は、自分が町の外へ退くだけで、彼に対して咎めることもしませんでした。
スッキリしませんよね。信仰に厚く、神に忠実な人間が、「願ったとおりに癒された」「助けられた」で終わるなら、どんなに分かりやすいことでしょう? でも、現実には、あのとき心から信じた人が、言うことを聞いた人たちが、助かった直後に思い上がって、神様に背いた態度を取る、イエス様に従わなくなってしまう……そんな話になっています。
何が嫌かって、これが私たちの姿と重なってしまうところです。神様を信じて、洗礼を受けて、色々支えられたのに、しばらく経てば感謝を忘れ、神様が悲しむことをする……あんなに「助けて」と言ったのに、あんなに毎日祈ったのに、問題が過ぎ去ると、1回か2回感謝して、懲りずに元へ戻ってしまう。それを繰り返している自分。
正直に告白すると、ヒゼキヤの態度は私の態度ですし、皮膚病を癒された人は私の姿でもあります。彼らがどうなるかは、私がどうなるかとも直結しています。おそらく、これを聞いている人の中にも、彼らがその後どうなったのか、最終的に赦されたのか、気になっている人がいるでしょう。
残念ながら、聖書は彼らの「その後」について、あまり注意を払いません。罰を受けたとも、赦されたとも書かれていません。ただ、その時代には、神の怒りに襲われなかったこと、噂が広がっていったことだけ書かれています。めでたし、めでたし……で終わっていいのか、ちょっと迷ってしまいます。
さらに迷うのは、思い上がったヒゼキヤの態度も、従わなかった病人の態度も、実は、彼らが良かれと思ってとった行動から来ているだろうということです。ヒゼキヤが病を癒された後、「思い上がってしまった態度」については、列王記下20章後半に、詳しい内容が出てきます。
それは、自分を見舞いにきたバビロンからの使者に対し、国中の宝物庫にある銀や金、香料や武器など、一切のものを見せて回った……という行為です。確かに、単なる自慢として、国の財産を見せたなら、高慢な態度と言えるでしょうが、おそらく、ヒゼキヤにとっては、それだけの恵みを与えてくれる、神の偉大さを伝える行為でもあったでしょう。
ちょうど私たちが、新しくできた礼拝堂や、祈って得られたパイプオルガンを、みんなに見せて案内するように、単なる自慢のつもりでは、なかったんじゃないかと思います。預言者イザヤに責められるまで、ヒゼキヤは、それが悪いことだなんて、全く気づいていない様子でした。
重い皮膚病を癒された人も、イエス様から「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言われますが、祭司のもとへ行くことなく、「イエス様が癒してくれた!」と周りに言い広めていきます。一見、治された直後に約束を破るなんて!……と感じますが、案外自然なことかもしれません。
考えてみれば、祭司って、イエス様と対立していた敵ですし、自分が清めのための犠牲をささげたら、その一部が彼らの懐に入ります。そんなことするくらいなら、イエス様が自分にしてくれた偉大な業を直接みんなに伝える方が、よっぽど貢献できるじゃないか!……そう、思い上がったのかもしれません。そこまで共感できない話じゃないですよね?
私たちだって、自分が祈って癒されたら、神様に助けてもらえたら、喜んで、そのことを人に伝えたくなります。「神様に祈れば癒されるよ!」「イエス様を信じれば解決するよ!」「私はこうやって救われた!」……そんなふうに言って、たくさん人を集め、教会へ連れてきて、信者を増やしたくなります。
でも、どうやらイエス様は、そうやって「奇跡」が強調されて、信じる者が増えることを望んでいないようでした。むしろ、家から、町から、社会から、追いやられていた者たちが、困っていた者たちが、みんなのもとへ帰って行って、また一緒に生活するようになることで、神様の愛と平和が伝わることを、求めていたようでした。
ひょっとしたら私たちは、最も信仰が燃え上がっているときでさえ、かなり「ズレて」いるのかもしれません。神様のために、イエス様のために、行動しようとするときこそ、思い上がっているのかもしれません。「信じたけれど、従わない」姿を、知らず知らずのうちにさらしているかもしれません。
でも、神様はそんな私たちへ「従わなかった」「背いた者」と烙印を押す方ではありません。思い上がったヒゼキヤは、その過ちを後世に伝えられますが、「神に従った者」として先祖と共に葬られます。重い皮膚病を癒された人は、言い付けに従わなかったことを記されますが、イエス様の教えと業を広めた者として記憶されます。
神様は、正しくなれない私たち、正しく居られない私たちを、どこまでも信じて付き合い続け、ご自分の業に加わらせてくださいます。信じたけれど、従わなかった私も、あなたも、神様は「従う者」として用い続けます。本当に、私たちがそのように変えられるまで、この方は見捨てることがありません。
だから、行って、人々に証明しましょう。自分の体で神の栄光を現しましょう。富や健康を、見せびらかすような伝道ではなく、自分自身の生き方で神を伝える伝道へ、共に遣わされて行きましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌6番「戻らないせかいで」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の裏面をご覧ください)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)
紹 介
本日も、初めて配信を見に来た方、久しぶりに配信を見られた方と、一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。互いに顔を合わせることはできませんが、礼拝を通してつながっている一人一人に、神様の祝福がありますように。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。
司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。
司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。
主の祈り
共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。
献金の祈り(例)
変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。今から後、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。
讃美歌
頌栄29番「天のみ民も」を歌いましょう。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。(『讃美歌21』93-6 ⑥)
祝 福
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(『讃美歌21』93-7 ⑥ 創世記28:15より)
報 告
本日も、配信を通して日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、ライブ配信の奉仕者6名、同時に視聴された25名、計31名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。
また、オンラインで行った礼拝研修会には、ライブ配信の奉仕者6名、同時に視聴された8名、計14名の方が参加されました。引き続き、華陽教会のYouTubeチャンネルから見られるようになっています。
来週も、配信等による在宅礼拝を行います。教会に集まる礼拝の再開は2週間ごとに検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ、各SNSの公式アカウントでお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。