ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『許さなければいけませんか?』 マタイによる福音書18:21〜35、ヨハネによる福音書20:19〜23

聖書研究祈祷会 2022年2月16日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の442番「はかりも知れない」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の在宅聖研祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。

◆私たちの神様。岐阜県も、まん延防止等重点措置が3月6日まで延長になり、教会の在宅礼拝も、引き続き延長することになりました。どうか今、心と体が病んでいる人、疲れている人、苦しんでいる人を癒し、回復させてください。

◆私たちの神様。教会に来ることができる期間も、様々な事情で他のことを選択せざるを得ない人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、同じ場所、同じ時間、同じ形で礼拝できない人たちに、私たちも近づくことができますように。

◆私たちの神様。平日、人が少ないときに教会へ来ることや、訪問を受けることができない人に、あなたの憐れみがありますように。どうか今、顔と顔を合わせることが困難な人たちに、必要な助けとつながりをもたらしてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書18:21〜35、ヨハネによる福音書20:19〜23(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Małgorzata TomczakによるPixabayからの画像

メッセージ

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」……イエス様の言葉って、なかなか重く響きます。人をゆるさないと、自分もゆるされない。自分がゆるされるには、人をゆるさないといけない……分かりやすいけど、分かりたくない言葉です。

 

特に、相手が反省している様子のないとき、同じことを繰り返しているとき、ゆるしたところで変わらない、悪いことが続くだけだと感じてしまいます。たとえば、嘘をついたり、盗んだり、怪我をさせたりが、7回以上も繰り返される……これってもう、「ゆるしてください」って言われても、ゆるそうとは思えないですよね?

 

さすがに、そこまであからさま例は少ないでしょうが、「とりあえず、謝った人はゆるすように」という態度が、いつまでも続けられないことは、何となく分かるでしょう。どこかで限界が来る、どこかでゆるせなくなる……私たちは、人をゆるさなきゃと思っても、「ここまではゆるすけど、ここから先はゆるさない」という線引きを自然としています。

 

おそらく、何か腹の立つ出来事があったと思われるペトロの台詞、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」という質問も「ここから先はゆるさなくていい」という線引きを知るために投げかけた質問でしょう。ところが、イエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と無茶言います。

 

実質、「何回でもゆるせ」という意味です。これらの教えから、キリスト教では、よく、誰かと喧嘩したとき、誰かに罪を犯されたとき、「ゆるしてあげなきゃ」と教えられます。加害者が謝ったのにゆるさないでいると、被害者なのに責められる、被害者なのに罪人として扱われる……ということが出てきます。

 

さらに、ゆるしても事態が解決しなければ、「相手のことを心からゆるしてないのが原因じゃないか?」とまで言われることが出てきます。もちろん、ゆるしたら全部上手くいくわけじゃありません。イエス様も「ゆるしたら解決する」とは言ってません。でも、「クリスチャンは人をゆるさなきゃいけない」という感覚が、多くの人を支配しています。

 

しかし、よく考えてみると、「七の七十倍まで赦しなさい」と言われたイエス様のたとえ話は、結局のところ、誰かが誰かを七回以上ゆるしてあげた、という話ではありません。むしろ、一回ゆるされた人間が、二回目に呼び出されたときは、ゆるしてもらえなかった話です。

 

裏を返せば、「人をゆるさない人間のことは、自分もゆるさなくていい」というメッセージにも受け取れます。実際、無意識にそうやって捉えている人が多いと思います。だからこそ、加害者が謝っても、ゆるしてあげない被害者を責めるわけです。「あなたが相手をゆるさないなら、わたしもあなたを責めていい、あなたもゆるされない人間だから」

 

なぜ、たとえ話の前に、イエス様が「あなたに言っておく」と念を押して、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのか、分かるような気がします。この言葉がなかったら、私たちはこのたとえ話で「ゆるさなくていい人間」を、見つけて終わってしまうからです。「自分がゆるさなくていい兄弟」を、探して終わってしまうからです。

 

これって、ひどい誘惑です。「ゆるされる人間」と「ゆるされない人間」が、区別できるという感覚……神様がゆるさないなら、自分もゆるさなくていい。自分も神と同じになって、誰かのことを責めていい……そういうふうに思えてしまう。実際、ヨハネによる福音書の終わりには、信仰者にとって決定的な言葉があります。

 

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」……まさに、「赦される者」と「赦されない者」の決定権が、自分たちにあると思わせる言葉です。しかし、注意が必要なのは、このように言われた弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げた、本来「ゆるされない行動」をした直後の人間だったという点です。

 

この時の弟子たちは、たとえ話に出てくる、一万タラントンの借金をした家来と同じ状況です。普通なら、帳消しになることはあり得ない負債を抱えていたのにゆるされた。これから解放され、外に出て、自分に借金のある者と出会っていきます。その人たちを「ゆるす」か「ゆるさない」かが問われています。

 

もし、自分がゆるされたのに、出会った仲間をゆるさなかったらどうなるか? 自分がゆるされたことを忘れて、相手を責め立てていたらどうなるか?……実を言うと、あの命令は、弟子たちに、クリスチャンに、「赦される者」と「赦されない者」を決定する権利が与えられた……という話じゃないんです。もっと緊張感のある言葉です。

 

キリスト教の「人をゆるしなさい」という教えは「ゆるさない者」を責め立てる教えではありません。誰かを「ゆるせない人」のことを、捕まえて首を絞め、「今すぐゆるせ」と迫るものでもありません。それをよしとする教えでは、決してないんです。むしろ、キリスト教のゆるしとは、「もういいよ」「もう何も期待しない」とあきらめさせる言葉じゃないんです。

 

外へ出て行った人が変わることを期待して、人が新しい生き方になることを信頼して、呼びかけ続けるのが、神様の赦しです。「なぜ、このようなことをしたのか?」「なぜ、そのような態度なのか?」という怒りや悲しみは、ゆるしをもたらす過程であって、ゆるしに必要な叫びであり、訴えでもあるんです。

 

ゆるせない被害者の怒りや悲しみは、神様に否定されません。神様も、自分がゆるした私たちに、繰り返し怒りと悲しみを露わにされました。私たちはその過程を通ってゆるされた者です。私たちも人をゆるすように生きるなら、人の怒りや悲しみを潰すべきではありません。

 

誰かのことがゆるせなくて、怒りがおさまらず、悲しみが消化できないとき、「許さなければいけませんか?」という問いかけが生まれるでしょう。周りの人たちもどうしたらいいか分からなくなるでしょう。どうか、そのときこそ、私たちをゆるされた神様が、どんな言葉や感情をぶつけて、私たちと関係を作ってきたか、思い出してください。あなたはゆるすことから離れた人間でも、ゆるされることから離れた人間でもないんです。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(長野県飯田市の飯田知久町教会)のために、犯罪被害者のために、更生中の人のために、苦手な人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆長野県飯田市の飯田知久町教会のために祈ります。昨年度から再開した教会学校が、引き続き守られ、用いられますように。教会の一人一人と牧師の方々が励まされ、支えられ、豊かな祝福を受けることができますように。

◆犯罪被害者のために祈ります。理不尽な事件によって、自分自身が傷ついたり、大切な人を失った、傷つけられた人たちに、あなたの憐れみがありますように。心と体に癒しと回復がもたらされ、新しい日常を手に入れることができますように。

◆更生中の人のために祈ります。とりかえしのつかない過ちを犯した人たちに、あなたの憐れみがありますように。必要な変化と回復がもたらされ、新しい生き方と償いの道が与えられますように。

◆苦手な人のために祈ります。私たちが愛せない人、ゆるせない人、向き合うことができない人に、あなたの憐れみがありますように。互いに必要な癒しと変化がもたらされ、新しい関係性が生まれるように導いてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌22番「神よ 諦めない心」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、教会に集まった2名、同時に視聴された3名、計5名が出席されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会の再開は「まん延防止等重点措置」の解除を目安に、2週間毎に検討し、教会員への連絡網とホームページ等でお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。