ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『誰が罪を赦せるの?』 マルコによる福音書2:1〜12

日曜礼拝 2022年2月20日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝に切り替えています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。(ヤコブの手紙5:13)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌457番「たのしきこえを」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆平和と和解をもたらす、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。岐阜県のまん延防止等重点措置の延長を受けて、華陽教会の在宅礼拝も3月6日まで延長することになりました。どうか今、日曜日に教会へ集まることができない間も、あなたの力と御言葉が一人一人へ届きますように。

◆私たちの神様。教会に集まれない時間が伸びて、今年度の会計も、だいぶ苦しくなっています。どうか今、会衆一人一人の生活と合わせて、華陽教会と岐阜地区の営みも守られるように、助けてください。

◆私たちの神様。芽含幼稚園でも、建物の工事や感染症対策など、様々な面で子どもたちやスタッフが苦労しています。どうか今、一人一人の日常が回復し、喜びと安心が増していくよう導いてください。

◆人と人との間に立たれる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書2:1〜12(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編147:1〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の160番「深き悩みより」1、3、4、5節を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

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congerdesignによるPixabayからの画像

メッセージ

「病気や障害はその人自身、あるいは、その人の父親や母親が犯した罪に原因がある」こういう考え方は、現代では支持されませんが、かつてのイスラエル社会では、よく見られるものでした。病気の人は、神から罰を受けている……障害のある人には、その原因となる悪がある……非常に差別的な捉え方ですよね?

 

でも、それが「一般的」だった時代があった。そういう地域や社会があった……こういう説明を、無批判に続けてきたことを最近ちょっと反省しています。私たちは、昔の社会や異なる地域を、差別や偏見に満ちた世界と簡単に捉えがちですが、本当に、彼らが病気や障害を「罪の結果」と当たり前に捉えていたのかは、ちょっと怪しくもあるんです。

 

たとえば、「神の祝福から外れている」「神から呪いを受けている」と受けとめられていた状況……男の子が生まれない、子どもを早くに亡くしてしまう、夫に先立たれてしまうといった状態にある人が、しばしば、「神の教えをきちんと守り、非の打ちどころがなかった」と評価されていたり、大勢の人に親しまれていた様子が、聖書の中に出てきます。

 

老齢でずっと子どもができなかったエリサベトとザアカイ、一人息子が死んでしまったナインのやもめ、娘が死にそうになっている会堂長……彼らのことを「その罪ゆえに、本人や子どもが病気になった」「悪いことをした報いを受けて、家族を失った」と周りが責めているようには見えません。

 

むしろ、理不尽な状況を憐れみ、みんなで慰めたり、何とか助けようとして、イエス様を呼びに来る様子が描かれます。確かに、現代の社会ほど、倫理観が構築されているわけでも、人権が保障されているわけでもありませんが、イスラエル人も「病気や障害は悪いことをした報いである」と、いつも無批判に口にしていたわけではないんです。

 

「病気になったこの人に、非があったなんて言わないで」「子どもが亡くなった人に罪がどうこう言うんじゃない」と病人を庇ったり、障がい者を支えたり、家族に先立たれた者を励ます人は、決して少なくなかったでしょう。「あの人たちは何か罪を犯したんだ」と言う人もいれば「そんなこと言うな」と抵抗する人もいたでしょう。

 

よく考えたら私たちだって、表立って「悪が原因」とは言わないけれど、「発達障害は親の愛情不足のせい」「スマホやテレビを見すぎたせい」というふうに、親や本人に原因があると思わせる感覚を持っています。「現代では支持されない」と言いましたが、わりと無意識に「悪いことをしたからそうなった」と考える習慣を持っています。

 

「こうなったのは、自分が過ちを犯したせいで、良くならないのは、自分の努力が足りないからだ」「早く治って、良くなって、私が原因を作ったという重荷から解放されたい」「過ちの精算を終わらせたい」……別に、2千年前のイスラエルでなくても、こういう解放を求める人は、私たちの間にいくらでもいます。

 

聖書の中で、体の麻痺した人が、4人の男に担がれて、イエス様のもとへやって来た場面も「あんな病気になるほどの、重罪人が連れてこられた」と全員が全員、冷たい目を向けたわけではないでしょう。「助かってほしい」「良くなってほしい」と応援する目を向けた人も、多かったんじゃないかと思います。

 

4人の男は、集まっている群衆に阻まれて、イエス様のいる家に入れなかったため、屋根に登って穴を空け、上から病人を吊り下ろすという暴挙に出ます。普通、そんなことしようとしたら、周りの者は止めますよね? 警察を呼びに行ったり、家の主人に言いつけたり、「イエス様が出てくるまでは待ちなさい」とたしなめるでしょう。

 

ところが、4人は難なく屋根に登って、穴を空け、連れて来た病人をスルスルと下ろし始めます。みんなが見守っている中じゃなきゃ、邪魔しないように応援している中じゃなきゃ、こんなことさせてもらえません。そこにいた人のほとんどが、4人の男と一緒に、体の麻痺した人が助けられるのを、一緒に見守っていたんです。

 

非常に温かい光景です。吊り降ろされた病人を「もう大丈夫」とイエス様が癒したら、「めでたし、めでたし」で終了です。何も炎上することなく、ハッピーエンドで解決します。ところが、イエス様は病人を目の前にして、みんなが触れることを避けていた言葉を口にします。

 

「子よ、あなたの罪は赦される」……「罪」なんて言葉、どうして口にしたんでしょう? 体が麻痺して動けない、という重い病の原因が、やっぱりその人の罪にある、その人の犯した過ちにある……と受け取れてしまう言葉ですよね? イエス様は、みんなが表立って言わなかった、みんなが触れるのを避けてきた感覚を、剥き出しにしてしまいます。

 

しかも、「あなたの罪は赦される」と非常に大胆なことを言ってきます。その人が、何の罪を犯したのかが明かされていない状況で、「あなたの罪は赦される」と宣言する……衝撃ですよね? 交通事故を起こして大怪我した人間に、「心配しなくていい、君はゆるされる」って口にできる人は少ないでしょう。もっと酷い目に遭った被害者がいるかもしれません。

 

親が怪我した子どもを連れて来たとき、何も告白されていない中、「あなたのしたことはゆるされます」と言える人はいないでしょう。不注意が原因か、虐待が原因か、気になることがたくさんあります。「あなたの罪は赦される」とはっきり言えるのは、全てをご存知な神様だけだ、全てを決定できる神様だけだ……律法学者が心の中で考えたことは、別に間違いじゃないんです。

 

でも、実を言うと、私たちが真っ先に必要としているのは、癒しや治療の前に必要としているのは、何が悪かったかの解明ではなく、この言葉なのかもしれません。「あなたの罪は赦される」……あなたがしたこと、あなたがやったことに、もう囚われなくていい。そこから解放されて、新しく生きなさい。

 

イエス様は、癒しを求めて来た人、連れてこられた人に、「どんな罪を犯したのか?」「何してこうなったのか?」と尋ねることはありませんでした。癒しを受け入れるために、これから新しく生きていくために、必要な言葉をもたらしました。「あなたの信仰は立派だ」「あなたの罪は赦される」「起きて、床を担いで歩きなさい」

 

あなたを縛る悪いものから解放されて、癒しを受け入れ、みんなと新しく生きなさい……イエス様の言葉は、本当に必要な力をもたらします。共に、かけられた言葉に耳を澄ませましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌23番「わたしの口は絶えず歌う」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の裏面をご覧ください)

 

使徒信条93-4A

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

使徒信条93-4B(教会教育用口語訳)

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。

 

紹 介

本日も、初めて配信を見に来た方、久しぶりに配信を見られた方と、一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。互いに顔を合わせることはできませんが、礼拝を通してつながっている一人一人に、神様の祝福がありますように。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の1節を歌いましょう。

 

讃美歌

頌栄29番「天のみ民も」を歌いましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。(マルコによる福音書2:11)

祝 福

願わくは主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。願わくは主があなたがたを照らし、あなたがたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。(民数記6:24〜26より)

 

報 告

本日も、配信を通して日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、ライブ配信の奉仕者7名、同時に視聴された22名、計29名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週も、配信等による在宅礼拝を行います。教会に集まる礼拝の再開は2週間ごとに検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ、各SNSの公式アカウントでお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。