ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『自分の子どもを殺す神』 使徒言行録2:22〜24

聖書研究祈祷会 2022年3月16日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで讃美歌21の295番「見よ、十字架を」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方はそのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の在宅聖研祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。受難節第2週目を迎えました。今週も、語るべきことを語らず、聞くべきことを聞かず、行うべきことを行わなかった私自身をお赦しください。どうか今、昨日出せなかった勇気を今日出せる自分へと変えてください。

◆私たちの神様。ウクライナで攻撃を受けている人たちや、傷ついている人たちを助けてください。どうか今、ウクライナにもロシアにも、これ以上犠牲が出ないように、両者と私たちを導いてください。

◆私たちの神様。新たにクラスターが発生した施設や学校、保育園にあなたの慈しみがありますように。苦しんでいる子どもたちや家族、スタッフが癒され、もとの日常へ戻れるように支えてください。

◆私たちの間に立たれる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録2:22〜24(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Edward LichによるPixabayからの画像

メッセージ

「自分の子どもを殺す神」……ひどいタイトルですが、実際、キリスト教の神様って、全ての人を救うために、自分の子どもを十字架につけた、死に引き渡してしまった存在です。ヨハネによる福音書3:16には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますが、死なせてしまった独り子のことは、愛していなかったの?……愛していたなら、なぜ十字架につけてしまったの?……と、何だか不安になってきます。

 

イエス様の弟子で、ペンテコステの日に聖霊を受けたシモン・ペトロは、イエス様が十字架につけられて殺されたのは、神様の御計画のうちだった……神様は、あらかじめ、ご存知の上で、自分の子どもを人々に引き渡していた……というふうに語ります。やっぱりどこか引っ掛かります。愛する人々のためとは言え、自分の子どもを死なせてしまう。

 

「親が子どもを殺してしまう」「親が子どもを死なせてしまう」って、最も深刻な関係性の破壊です。取り返しのつかない、修復不可能な、償い切れない「罪」の象徴です。私たち人間の間でも禁忌とされる行為です。もし、子どもを犠牲にしなければならなくなったら、何とかそれを回避するのが、親が子どもを愛しているしるしだと見なされます。

 

けれども、神様は、独り子である自分の息子がどうなるかを知っていて、人々に引き渡したものであると、聖霊によって告げてきます。私は自らの子どもを死なせてしまった神であると、2千年以上、私たちに語っています。自分の子どもを殺す神に、果たして私たちを救うことはできるのでしょうか? 私たちの罪を清めて、平和をもたらすことはできるのでしょうか?

 

私は今でも戸惑いを覚えます。イエス様は死ななければならなかったのか? 神様はどうしてもイエス様を死なせるつもりだったのか? 神様の立てた計画に、独り子の死は不可欠だったのか? 独り子が死なずに済むことを、神様は期待しなかったのか? そういう未来はあり得たか?

 

イエス様は、神の国について、何度もたとえ話を語られました。その中には、神の国の主人である、父なる神の存在が、いくつもたとえられていました。しかし、自分が十字架につけられて死ぬことを3回にわたって、弟子たちに告げていたにもかかわらず、「息子を死なせようとする神」について語ったたとえ話はありません。

 

唯一、思い出すのは、「ぶどう園との農夫」のたとえです。ルカによる福音書20:9〜19には、あるぶどう園の主人が、収穫を納めさせるために、農夫たちのところへ自分の息子を遣わす話が書かれています。主人は息子を送る前に、何度も僕たちを遣わしましたが、全員、袋叩きにされて追い返されていました。

 

「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」……そう言って、息子を送り出すわけですが、このたとえ話からは、主人が息子を死なせるつもりも、殺させるつもりもなかったように感じられます。収穫を納めない農夫たちを罰しなくて済むように、息子を通して、和解しようとしている姿が見えてきます。

 

当然、農夫たちを罪に問わないようにするため、息子を死なせることが計画に入っているとは思えません。むしろ、農夫たちが息子を殺してしまうと、帰ってきた主人が彼らを殺してしまうと言われています。実際にこの後、イエス様を十字架につけた人たちは、突然訪れた神様に殺される……ということはありませんでしたが、「人々を救うためなら、自分の独り子が死んでもいい」……と神様が考えているわけではないようです。

 

どちらかというと、神様は、イエス様を意図的に「死なせようとした」「殺させようとした」のではなく、自分の息子まで手にかけそうな人たちへ、それでも期待して、和解に至ることを願って、独り子を遣わした……という姿が浮かび上がります。そして、息子を手にかけてしまう人たちが、戻ってきた父親に殺されるはずの人たちが、なお、自分と和解できるように、死んだ息子を生き返らせるんです。

 

神様の計画に不可欠だったのは、破壊された関係の回復です。修復不可能に見える神と人、人と人との関係を、何が何でも回復させてしまうことです。息子を死なせて、報復されるはずの人たちは、生き返った息子から罪を赦され、「平和があるように」と呼びかけられ、新しい関係を築いていきます。死という徹底的な、覆せない罪の結果をひっくり返し、和解の道を作っていきます。

 

神様は、ただ単に、自分の子どもを犠牲にした方ではありませんでした。自分自身も、息子を死なせてしまった、関係が壊れた存在になりました。まさに今、子どもを死なせてしまった者、守ってやれなかった者、苦しみを除けなかった者と、同じところに下りて来て、一緒に座り込みました。

 

そして、一人一人の手を取って、再会できないはずの者、近づくことのできない者を引き合わせ、時間も、場所も、死という隔たりも乗り越えて、和解と復活をもたらします。私たちが、死に支配されたままであることをゆるさず、永遠の命をもたらします。死なせた者、死んでしまった者の関係を、新しく生きる者同士へ変えられます。

 

その知らせは、今、あなたにも語られています。「どうか平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えてくださるように。主があなたがた一同と共におられるように」(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(静岡県加茂市の松崎教会)のために、被災地のために、紛争地域のために、諸国のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆静岡県加茂市の松崎教会のために祈ります。教会の働きから生まれた聖和保育園と福祉施設の松崎十字の園が、これからも地域のための良い証しとなりますように。周りの人々が教会へ導かれ、信徒も地域に遣わされていきますように。

◆被災地のために祈ります。阪神淡路大震災や東日本大震災、その他、数多の災害によって生活が一変した人に、あなたの慈しみがありますように。復興が進み、回復が導かれ、新しい日常を手にすることができますように。

◆紛争地域のために祈ります。ロシアとウクライナをはじめ、シリアやアフガニスタン、香港や台湾、ミャンマーや南スーダン、あらゆる地域の人災から、人々の命を守ってください。どうか今、停戦と平和がもたらされるように助けてください。

◆諸国のために祈ります。戦争や疫病や飢餓や災害を前にして、揺れ動いている国々を支えてください。強引な支配や暴力ではなく、誠実な交渉と協力によって、問題を解決していくことができるように導いてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌16番「苦難のはざまから」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、配信奉仕者3名、同時に視聴された1名、計4名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

教会に集まる集会の再開は、まん延防止等重点措置の解除を目安に役員会で検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ、各SNSの公式アカウントでお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。