日曜礼拝(岐阜地区交換講壇) 2022年10月16日
*本日の配信は交換講壇のため、教会員のみ限定公開で見られるようにしています。自宅で礼拝する人のために、こちらの記事には、柳本牧師が付知教会と坂下教会で話す内容を載せています。
案 内
華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、配信と並行して礼拝に集まっています。共に今、教会にいる人も配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
主よ、あなたはわたしの神/わたしはあなたをあがめ/御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された/遠い昔からの揺るぎない真実をもって。(イザヤ書25:1)
讃美歌
マスクをしたままで、讃美歌二編82番「きょうありて」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。
お祈り
(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。
◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。今日は、7月から延期されていた「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇を迎えています。どうか今、蘇原教会から来られた川上野ゆり先生と、送り出してくださった教会員の上に、あなたの恵みが豊かにありますように。
◆私たちの神様。同じ日に礼拝を行っている、田瀬、付知、坂下、蘇原、中濃、飛騨高山、各務原教会の会衆と、そこへ招かれた教師の上にも、あなたの慈しみがありますように。どうか今、それぞれの課題や恵みが共有され、慰めと励ましを一緒に受けられますように。
◆私たちの神様。在日大韓基督教会の岐阜教会と大垣教会、中濃教会と各務原教会で礼拝をしている、フィリピン合同教会の方々にも、あなたのお支えがありますように。どうか今、それぞれの教会に必要な助けと力が得られますように。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録7:2〜12(新共同訳より抜粋)
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編146:1〜10(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です) |
讃美歌
マスクをしたままで、オンライン賛美歌19番「悲しみながら立ち去るとき」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。
メッセージ
7月から延期していた「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇を迎えました。岐阜県には日本基督教団の教会が、全部で8つありますが、毎年、各々の教会から他の教会へ、牧師と信徒を送り出し、互いに交流のときを持っています。台風や新型コロナの流行で、何度かできなかった年もありますが、今年は無事に皆さんと顔を合わせることができました。
一方で、8つの教会が、互いを覚えて礼拝する日、どの教会にも出席することができない方もおられます。病気のため、怪我のため、衰えのため、障害のため……教会まで行くことができない人もいれば、身内の介護や抜けようがない仕事のため、家族を蔑ろにしないため、自宅で祈りを合わせたり、配信を見て参加することを選択した方もいます。
あるいは、今まで礼拝へ来ていたけれど、しばらく前から来なくなった、教会から去っていった人を思い出す方もいるかもしれません。数ヶ月前、数年前、数十年前は埋まっていたけど、今はポッカリ空いてしまった席、他の人が座るようになった席を見ながら、毎週、礼拝に出ています。
教会に来続ける、礼拝をし続ける、信仰を持ち続けることが、なかなか一筋縄ではいかないことを、多くの方がご存じです。特に、コロナ禍に入って、新しい人に来てもらうどころか、自分たちも教会へ行けなくなる日が出てきました。華陽教会も、今年に入って6ヶ月のうち、4ヶ月間は、礼拝の人数を制限してきました。
でもそれって、神様に礼拝をささげ、みんなで祈りと賛美を合わせ、人々に伝道するという、信仰者の務めを果たせていると言えるのか? 教会がクラスターにならないよう、感染して苦しむ人を増やさないよう、考えて、考えて、選択してきたことだけど、これって、信仰を守れているんだろうか? ちゃんとやれているんだろうか?
かつて、信仰を守るために、教会で礼拝を続けるために、厳しい迫害と闘って、時には命を落とした人の話を聞くと、今の自分たちは「信仰を守れている」と大きな声で言えない気分になってきます。特に、ヨハネの黙示録を読んでいると、厳しい状況の中でも礼拝を守り、信仰を持ち続けるように、繰り返し励まされるので、心が痛くなってきます。
そして、不安にもなるでしょう。果たして私は、信仰を守った者として、神様に認めてもらえるだろうか? 天の国、神の国に、受け入れてもらえるだろうか? 私の家族や友人は、教会を去ってしまった人は、救ってもらえるだろうか? 信仰を告白しないまま、神様を知らないまま、亡くなっていったあの人は、どうなるんだろうか?
本日は、教団の聖書日課で「天国に市民権を持つ者」というテーマで、先ほどの聖書箇所が選ばれています。ちょっとドキッとするテーマですよね? 天国に市民権を持つ者……天の国に住むことが許される者……神の国に入って救われる者……そのように考えるのが普通でしょう。
逆に言えば、この市民権をもらうことができないと、天国に入ることが許されず、救ってもらうことができず、神の国から締め出され、滅びを免れないように思えます。気になってくるのは、誰が、この市民権をもらうことができるのか? 誰が、市民権を与えられず、神の国から締め出されてしまうのか?……ということです。
一歩間違えたら、私たちの教会も、危うい方向へ進みます。現在、話題になっている宗教カルトの中には、「どうしたら天国に入れるか?」という点を強調し、組織の言うことをしっかり聞いて、たくさん奉仕し、必死に献金しなければ、天国の市民権を得られず、地獄に落ちてしまうと、信者を脅して、コントロールするところもあります。
中には、先ほど読んだヨハネの黙示録を引用して、神に忠実な信仰者14万4千人に選ばれなければ、天の国に入ることが許されず、悪人と一緒に滅ぼされてしまうと、教えているところもあります。14万4千人の枠が埋まる前に入らないと、地獄に落ちてしまうため、信じた人は、必死に家族や友人も信じさせようと、強引な勧誘を続けます。
さらに、メンバーが14万4千人を超えてしまうと、たとえ信者になっても、より忠実な信仰者14万4千人の枠に入れなければ救われないと教えられ、信者同士が競わせられて、長時間の奉仕や高額の献金をさせられます。誰だって、地獄に落ちて滅ぼされるのは嫌ですし、天国の市民権を得て、救われたいと願うので、その枠に入ろうと頑張ります。
もちろん、健全なキリスト教会では、そんなふうに、死後や将来の不安をあおって献金を強要したり、奉仕を強制したりすることはありませんが、自分たちが信じている聖書の言葉に出てくる以上、ちょっと考えてしまいますよね? 神の僕として刻印を押された、14万4千人の中に、誰が入れるんだろうか? それ以外は天国に入れないんだろうか?
ヨハネの黙示録は、世の終わり、終末のときに、神の子である救い主が、再びこの世に訪れて、敵対する悪を滅ぼし、神に忠実な信仰者を救うことが書かれています。善と悪、救われる者と滅ぼされる者が、かなりはっきり分けられます。ところが、ここに描かれる「神の僕」「救われる者」の中には、既に滅ぼされた人たちも出てきます。
何せ、神の僕として刻印を押された、イスラエルの12部族は、ほとんどがもう、姿を消しているからです。ルベン族も、シメオン族も、ダン族も、ナフタリ族も……ガド族も、アシェル族も、イサカル族も、ゼブルン族も……マナセ族も、エフライム族も、それらのアイデンティティを持つ者は、この文書が書かれた時点で、既に消失しています。
ある部族は、許容し難い虐殺を犯して、その罰として各部族の中に散らされました。ある部族は、仲間に対する暴力のゆえに、他の仲間から討伐されました。ある部族は、神に背いて、母国をアッシリアに滅ぼされ、一緒に消えていきました。ある部族は、異なる信仰の民との混血が進み、なくなっていきました。
神に従って命を落とした殉教者とは違います。むしろ、神の意に反して歩み続けた末、自滅したり、裁きを受けたり、数を減らした人たちです。残った部族も「神の僕」として忠実な姿を見せたとは言い難い人たちでした。暴力、戦争、権力争い……それらの事件を度々起こす存在でした。
「神の僕」の刻印を受けるため、1万2千人ずつ集められた12部族、14万4千人のうち、8割以上は、「神に従えなかった」不名誉な事件と共に記憶され、既に欠けている人たちです。そもそも、地上に残っていない部族、そもそも、「神の僕」でいられなかった、神に背いた部族の名前です。
ちなみに、12という数字は、聖書の完全数と呼ばれ、「欠けのない」「完全な」「満たされていること」を表しますが、ここに挙げられる部族の多くは、今見たとおり、あらゆる意味で「欠けている」ことを意識させられる人々です。最後まで神に従い続けた、神に忠実な姿を見せた人たちではありません。イエス様を見捨てた12弟子と同じです。
そう、「神の僕」として1万2千人ずつ選ばれた12部族の名前は、神の僕として「完全でない」「欠けている」姿を見せてきた者たちです。歴史の中で、既に「失われた」存在です。私たちの教会から去った人、一緒に礼拝できなくなった人、度々信仰が揺らいでしまう、私自身の姿です。
本来なら、神の僕の刻印を受けられない、天の国の市民権を得られない存在が、神の遣わした天使から、一人一人、刻印を受けていきます。与えられないはずの市民権が与えられます。そして、9節には、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった人たちが、天の国で一緒に礼拝する者として集まります。
もし、自分は「神の僕」の刻印を受けられない、天国の市民権を得られないと感じている人がいるのなら、どうか思い出してください。あなたは1万2千人ずつ選ばれた12部族の一人であり、神の子を見捨ててなお、イエス様から弟子とされ続けた12弟子の一人であることを。
もし、教会から、ある人が欠けてしまった、失われてしまったと感じているなら、どうか思い出してください。かつて、欠けてしまった、失われてしまった人たちも、神に背いて、離れてしまった人たちも、しつこく招かれ続けた方がいることを。決して、欠けたまま、失われたままにされなかったことを。
黙示録で1万2千人ずつ、14万4千人に「神の僕」の刻印が押され、天国の市民権を与えられたことは、それ以外が「神の僕」に選ばれないという意味ではありません。ここに挙げられた部族の名前も、ここに挙げられた人の数も、「欠けている」「完全でない」「失われた」者たちが、「欠けのない」「完全な」「満たされた」状態になることを表します。
それは今、自分自身の信仰が完全だと思えないあなたのことでもあり、欠けてしまった、失われてしまったと感じる、大切な誰かのことでもあります。共に、全ての者を回復し、神の国を完成させる神様に、感謝の祈りを捧げましょう。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」
讃美歌
讃美歌21の419番「さあ、共に生きよう」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろから2ページ目をご覧ください)
使徒信条93-4A
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)
使徒信条93-4B
わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、配信を見られた方、久しぶりに参加された方と、一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。
司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。
司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)
主の祈り93-5A
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)
献金の祈り(例)
変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって私たちは新しく生かされます。今からのち、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。
讃美歌
マスクをしたままで、讃美歌21の頌栄25番「父・子・聖霊に」を歌います。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。(ルカによる福音書13:29)
祝 福
願わくは主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。願わくは主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)を恵まれるように。願わくは主が御顔をあなたに向け/あなたに平安を賜るように。(『讃美歌21』93-7③)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された11名、計27名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。
本日は、岐阜地区交換講壇として、華陽教会では蘇原教会の川上野ゆり先生がメッセージをしてくださいました。蘇原教会をはじめ、岐阜地区の教会、在日大韓基督教会、フィリピン合同教会のためにもぜひ、お祈りください。
それではまた日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。