ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『弟子の敵を弟子にする』 使徒言行録9:1〜9

聖書研究祈祷会 2022年11月9日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の66番「父と子と聖霊の」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆復活と希望をもたらす、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。日曜日には、召天者記念礼拝と納骨式を無事に行うことができました。最初から最後まで導いてくださり、本当に感謝致します。どうか今、大切な人を見送った一人一人に、あなたの希望と慰めが豊かにもたらされますように。

◆私たちの神様。生死の間をさまよっている人たちに、あなたの御手が差し伸べられますように。どうか今、痛みや苦しみ、不安や恐怖から守られて、穏やかな時間が過ごせるように、癒しと回復をもたらしてください。

◆私たちの神様。理不尽な現状に抵抗している人、闘っている人たちに、あなたの慈しみがありますように。どうか今、正当な訴えがみんなに届き、適切な議論が積み重なり、世の中が生きやすくなるように、それぞれに適度な休みと力を与えてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録9:1〜9の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Susanne Jutzeler, Schweiz,によるPixabayからの画像

メッセージ

弟子の敵を弟子にする……メッセージのタイトルにつけたとおり、今読んだ聖書のエピソードは、イエス様を信じる人々を処刑するため捕まえていた人間が、そのイエス様から新しい使命を与えられ、弟子として選び出されるシーンです。おそらく、本人にとっても周りにとっても、どうしてそんなことに……と戸惑う出来事だったに違いありません。

 

一見すると、敵でさえ仲間に受け入れられる、懐の広いイエス様が描かれているように見えますが、そんな単純な「良い話」ではありません。なにせ、人が死んでいます。男も、女も、子どもも、老人も、イエス様を信じていたら捕まえられ、処刑するため引き渡されます。それを率先して行っていた人間が、パウロとも呼ばれるサウロです。

 

イエス様の弟子たちの中には、友達が彼に捕まって、殺された人もいたでしょう。家族が、子どもが、捕らえられ、引き離された人もいたでしょう。少し前の8章では、最初の殉教者であるステファノの殺害にも、サウロが賛成していたと、はっきり記されています。9章でも、サウロがイエス様の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込み、大祭司と結託して信徒を追い詰めていたことが報告されます。

 

もともと、サウロが自分のやっていることに疑問や迷いを感じていた様子はありません。キリスト教徒に対しては、血も涙もない冷徹な態度でした。誰かに命令されてではなく、自らすすんで、イエス様を信じる仲間を傷つけていました。そんな人間が、突然、復活したイエス様の幻と出会い、為すべきことを知らされる、新たな弟子として派遣される……。

 

当然、受け入れられない人が大半でしょう。彼に仲間を殺された人、教会を破壊された人は、たとえ、「私もイエス様と出会いました」「私もイエス様を信じます」と言われても、サウロを受け入れられません。「そんなの嘘だ」「お前なんかにイエス様が現れてくれるはずがない」「私の家族を、仲間を、引き離してきたこの人物が、特別な使命に選ばれるなんて、ありえない」

 

そりゃそうです。たまったもんじゃありません。サウロは自分のやっていることに疑問を感じて、良心が咎めて、イエス様へ会いに行ったわけではありません。反省して、悔い改めて、弟子にしてもらったわけじゃありません。自分がやってきたこと、犯してきたことを謝ったから、イエス様に受け入れられたわけではありません。

 

彼は、イエス様の仲間を殺す気満々でいたときに、天から声をかけられます。彼は、イエス様を全く信じていなかったとき、光に照らされます。彼は、イエス様を迫害している最中に、為すべきことを知らされます。自分の罪を自覚したから、反省したから、謝ったから、仲間にしてもらえたのではありません。

 

彼は、声をかけられて、はじめてイエス様が本当に救い主だと気がつきます。彼は、光に照らされて、はじめて自分が間違っていたと分かります。彼は、為すべきことを知らされて、はじめて何を信じたらいいか分かります。信じたから弟子になったのではありません。弟子に選ばれ、仲間にされて、はじめて信じるようになったんです。

 

考えてみれば、イエス様と行動を共にした12人の使徒たちも、イエス様を信じていたから弟子になったのではなく、イエス様に弟子として選ばれたから信じるようになりました。彼らは、なぜついてきたのか分からないほど、イエス様の言うこと、為すことを、理解できていませんでした。イエス様が何者かも、最初は分かっていませんでした。何度も予告されていた復活も、本人と再会するまで信じられませんでした。

 

イエス様の仲間になる、イエス様の弟子になるということは、私たちが、自分の罪を自覚したから、反省したから、何を信じればいいか分かったから、できることではないんです。むしろ、イエス様の方から、私たちへ声をかけてくださるから、出会い直してくださるからこそ、信じて弟子になることができるんです。

 

けれども、私たちはついつい、自分自身が罪を自覚し、自分自身が悔い改め、自分自身が信じるようになったから、イエス様の仲間になれたと思い込んでしまいます。私から反省し、謝って、感謝するようになったから、神様に受け入れられたと思ってしまいます。だから、自覚も、反省も、感謝もなかった人間を、いきなり受け入れられません。

 

あいつは違う。あいつは自覚していない、あいつは反省していない、あいつは感謝し切れていない……だから、私と同じ、イエス様の弟子には受けいれられない。私と同じ、イエス様の仲間には思えない。そう叫びたくなります。特に、自分を傷つけ、自分の大切な人を傷つけてきた人のことは、すぐには受け入れられません。

 

当然、共同体は揺れ動きます。サウロを受け入れられない人たちは、彼を弟子として認めません。中には殺そうとする人も出てきます。彼に、聖霊が満たされるよう祈った人も最初は反対して訴えます。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました……」

 

弟子たちに不安が広がります。あいつを受け入れるくらいなら、自分は出ていくと、去っていった人もいたでしょう。礼拝に来なくなった人もいたでしょう。正直、責められません。ついこの前まで、さんざん自分たちの生活を破壊してきた人間です。その人を受け入れろなんて、イエス様も無茶言います。

 

そう、分かっているはずでした。これが、エルサレムの大迫害を経験した直後の初代教会に、どれだけ大きな課題を突きつけるか。どれだけ分裂を引き起こすか。どれだけ和解に時間がかかるか。イエス様も分かっていたはずです。しかし、みんなが衝突し、揺れ動き、迷いながらも一致するまで、回復するまで、この方は責任を持って付き合います。

 

私たちは、サウロを受け入れた教会がどうなったかを知っています。最初は衝突した信者が、弟子たちが、やがて連帯していくことを知っています。弟子の敵を弟子にする方が受け入れる側にも、受け入れられる側にも、付き合い続けてくださったことを知っています。その積み重ねが、世界中の教会を、私たちの教会を作ったからです。

 

教会は、繰り返し衝突を経験します。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、対立する場面も出てきます。平和ではなく、分裂がもたされることもあります。しかし、それは対立し続けるためでも、分裂し続けるためでもありません。分かたれた民が受け入れられ、信じない者が信じるように、悲しむ者が喜ぶ者となるための過程です。

 

ここは、常に居心地がいい場所ではありません。常に心地よく感じられる場所ではありません。時として、受け入れ難い出来事をもたらされます。色々な変化や人間関係で悩まされます。衝突も分裂も起こります。しかしどうか、信じてください。私たちに分裂を、剣をもたらすイエス様は、私たちが和解し一致するまで、付き合い続けてくださいます。

 

どうか、私たちが信じられないこと、期待できないこと、理解できないことを、共に受け入れて、喜ぶことができる日まで、慰めと、励ましと、気づきと、変化が、続きますように。私たちの間におられるイエス様を、信頼できますように。私たちを神の国へと受け入れるため、御子を遣わした神様に、栄光が限りなくありますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(東京都杉並区の袖ヶ浦ともしび伝道所)のために、会堂がない教会のために、生活困難な家庭のために、人手がないところのために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆東京都杉並区の袖ヶ浦ともしび伝道所のために祈ります。創立70周年を迎える教会と一緒に誕生したともしび保育園に、あなたの祝福がありますように。教会の課題である、自前の礼拝所を持つことが叶いますように。

◆会堂がない教会のために祈ります。毎週、中濃と各務原で会堂を借りて礼拝しているフィリピン合同教会の方々をはじめ、礼拝堂がない全国の教会に、あなたの助けがありますように。どのように協力したらいいか、どのように歩んだらいいか示してください。

◆生活困難な家庭のために祈ります。失業した人、怪我をした人、心や体を病んだ人、それぞれに、あなたの憐れみがありますように。必要なケアとサポートがもたらされ、自分と家族が生きていけるように、導いてください。

◆人手がないところのために祈ります。医療従事者や介護の職員、保育や教育関係者、傷ついた人を保護する人々、それぞれ、人手が足りない現場や職場に、あなたの助けがありますように。負担を強い続けることがないように、知恵と理解をもたらしてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌20番「すべてを売り払い」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

 

 

報 告

本日も、教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究には、教会に集まった4名、同時に視聴された4名、計8名が参加されました。後から動画を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。