ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信じれば治るし甦る?』 使徒言行録9:32〜43

聖書研究祈祷会 2022年12月7日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の228番「造りぬしなる主」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆世界を創造され、完成される神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。キリストの誕生を記念するクリスマスの準備をしながら、イエス様が再び来られる時を待ち望むアドヴェント第2週目を迎えました。どうか今、待つことが困難な人、準備することが難しい人に、あなたの助けがありますように。

◆私たちの神様。新型コロナやインフルエンザなど、感染症の治療や予防のため、病床の確保や各種の検査、ワクチンの供給に奔走している人たちがいます。どうか今、医療従事者をはじめ、それぞれの現場に出ている人たちに、あなたのお守りがありますように。

◆私たちの神様。現在、自宅で療養している人、病院で治療を受けている人、施設で過ごしている人に、あなたの癒しと励ましがありますように。どうか今、一人一人の命が支えられ、心が温められ、回復がもたらされますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録9:32〜43の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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congerdesignによるPixabayからの画像

メッセージ

イエス様が天に昇って見えなくなったあと、最初の殉教者ステファノの死に続いて、エルサレムで大迫害が起き、ペトロを中心とする使徒たちを除いて、教会の信徒は皆、ユダヤとサマリアの地方へ逃げていきました。エルサレムの教会は、ほぼ全滅と言っても過言ではない状態になりますが、それから少しずつ、弟子たちが集まってきます。

 

人がいなくなった教会に、だんだんと信徒が戻り始め、教会を立て直す大事な時期がやってきました。かつて、教会に一人も留めることができなかった指導者たちは、ここが頑張りどころだと腕を捲ったと思います。ところが、使徒たちの中心的存在であったペトロは、エルサレムに留まって、復興の指揮を取るかと思いきや、リダやヤッファなど、エルサレムの外の地方を巡り歩きます。

 

先日、元迫害者であるパウロことサウロを弟子たちの仲間に受け入れたばかりで、そのパウロも、ギリシャ語を話すユダヤ人に殺されかけ、エルサレムから逃げていった直後でした。エルサレムにいる他の弟子たちも、パウロを受け入れた裏切り者として、迫害の対象として、命を狙われる危険があり、まだまだ任せておくには不安な時期です。

 

にもかかわらず、ペトロはエルサレムから40キロ以上離れたギリシアの都市へ赴き、様々な奇跡を起こしていきます。彼が、リダで出会ったアイネアという女性は、ギリシア名で呼ばれていたので、おそらく、ヘレニストのユダヤ人、いわゆるギリシャ語を話すユダヤ人です。つまり、ステファノを訴え、パウロの命を狙った人たちの同胞です。

 

わざわざ、自分たちに敵対する人と同じ背景の持ち主を訪ねて、ペトロは話をしに行きます。しかも、体が麻痺して寝込んでいるアイネアのために、癒しの業を行います。もともと、自分も捕まって処刑されることを恐れ、ユダヤ人に見つからないよう部屋に閉じこもっていた人物とは思えないような行動です。

 

ペトロはアイネアに対して、「起きなさい。自分で床を整えなさい」と語ります。この言葉は、かつて体の麻痺した男性にイエス様が語られた「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」という言葉を思い出させます。ルカによる福音書では、イエス様がその人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦された」と言い、病気を癒したことが書かれていました。

 

アイネアも、ペトロが信仰を認めたから、麻痺した体を癒してもらうことができたんでしょうか? 信仰によって癒されたんでしょうか? それにしては、彼女の口から、信仰を告白する言葉は出てきません。「自分を癒すことができる」と確信して願う様子もありません。振り返れば、かつてイエス様が癒した体の麻痺した男性たちも、信仰を告白する言葉や癒しを信じる言葉はありませんでした。

 

どちらかと言うと、イエス様が神の国について話し終わるのを待てず、メッセージの最中に、家の中へ乱入する形で、病を癒してもらおうとした、強引な姿が描かれています。信仰深いなら、イエス様が大事な教えを語っている途中、聞いている人を邪魔して入ってくるより、話し終わるのを待って、玄関で待ち構えている方が正しいように感じます。

 

また、ヨハネによる福音書では、体の麻痺した男性が、イエス様に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われる前に、「自分を助けてくれる人がいないんだ」と不満を漏らしている様子も描かれています。あまり、信仰によって癒された、治ると信じて癒された……という雰囲気ではありません。

 

ここで思い出されるのは、お行儀の良い人たちじゃありません。どちらかと言うと、信心深く、癒されるのを待っているような姿ではなく、「どうにかしてください」と無理やり押しかける姿や「誰も助けてくれないんだ」と期待できない姿が出てきます。「信じれば治る」「信仰があれば癒される」という単純な話ではなさそうです。

 

それは、この後ペトロが訪れるヤッファという所で起きた出来事でも同様です。ヤッファには、タビタという名前の女性の弟子が住んでいました。彼女はたくさんの善い行いや施しをして、人々から愛されていました。ところが、病気になって死んでしまったので、他の弟子たちは、彼女の遺体を階上の部屋に安置しました。

 

すると、ペトロがヤッファに近いリダへ来ていると聞きつけて、「急いでわたしたちのところへ来てください」と使いが出されます。ペトロは連れて来られた家で、彼女の遺体が置いてある部屋に一人で閉じこもり、「タビタ、起きなさい」と呼びかけます。彼女は間もなく、目を開き、起き上がって、みんなの前に姿を現しました。

 

このシーンも、かつてイエス様がナインのやもめの息子を甦らせた出来事や、預言者エリヤがサレプタのやもめの息子を甦らせた話、エリヤの弟子であるエリシャがシュネムの女性の息子を生き返らせた話を思い出させます。しかし、いずれも、信仰深くお願いしたから、身内の命を甦らせてもらった話じゃありません。

 

むしろ、イエス様がナインのやもめを甦らせるとき、はじめからイエス様を頼ろうとした人はいませんでした。エリヤやエリシャが、やもめの息子を甦らせたとき、母親たちの願いは、むしろ怒りを含んでいました。わたしの息子を取らないでください。わたしの息子を返してください。あなたはわたしを絶望させるため、このようなことをしたんですか!

 

おそらく、タビタを愛するやもめたちが、彼女の作ってくれた下着や上着をペトロへ見せに来たときも、「なぜあの人の命が取られるんですか!」と嘆き、怒り、責めるような姿を見せたと思います。私たちから夫だけでなく、彼女を取ってしまうんですかと……神に信頼する、神の憐れみを信じる態度というより、神に怒りを向ける雰囲気です。

 

ここで思い出されるのも、お行儀の良い人たちではありません。どちらかと言うと、信仰深い言葉より、嘆きと怒りを含んだ訴えを神に投げかけてきた人たちなんです。しかしペトロは、かつて預言者がそうしたように、イエス様がそうしたように、彼らの姿を受けとめて、病を癒し、寝ていた人を起き上がらせます。

 

どうしても、こういった奇跡の話を読むと、どうしたら私たちも癒してもらえるんだろう? どうしたら大切な人を甦らせてもらえるんだろう? どれだけ信じることができたら、どれだけ信仰が認められたら、このような奇跡が起こされるんだろう? と考えてしまいます。しかし、そういうことじゃないんです。

 

ペトロだって、エルサレムの教会から人がいなくなったとき、迫害の中、一人の信徒も留めることができなかったとき、神様に嘆いたはずです。どうして、教会が壊滅するままにしておかれるんですか? どうして、あの人も、この人も捕まるんですか? どうして、誰も留めさせてくれないんですか? 奇跡を起こしてくれないんですか?

 

しかし、ペトロは知っていきます。この教会から去った人たち、エルサレムの外へ逃げて行った人たちが、方々で新たにイエス様の教えと業を宣べ伝え、教会が建て上げられていくことを。自分たちと相容れない敵だと思っていた人の中にも、信仰なんて芽生えない、信仰なんてありはしないと思っていた人たちにも、イエス様は出会い、恵みをもたらしていることを。神様は、私たちの声を、嘆きを、訴えを聞いていたと。

 

自分が癒されないのは、大切な人が助けてもらえないのは、信仰が認められてないからだ、信じきれてないからだ……と思わされている人は、初代教会で起きたことをもう一度思い出してください。違うんです。キリストは、他の人たちが信仰深いと思えなかった、信心深いと感じなかった言葉や態度や訴えからも、信仰を認めてくれた方なんです。

 

8年間も、10年間も、病を癒やされなかった人たち、死ぬ前に身内を助けてもらえなかった人たちは、不信仰な者じゃなかったんです。イエス様が、信仰を認めて、救いに来られた人たちなんです。あなたもその一人なんです。だから、教会も、病に苦しんでいる人、親しい人を失った者に、不信仰とは言いません。

 

ペトロは言いました。「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と……私たちも、あなたにイエス様が会いに来たことを知らせます。あなたを起こしに来た方がいることを伝えます。神の国が近づいたことを宣言します。さあ、起き上がって、床を担いで帰りなさい。あなたの家に、イエス様がおられます。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(新潟県新潟市の新潟教会)のために、悩んでいる人のために、傷ついている人のために、焦っている人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆新潟県新潟市の新潟教会のために祈ります。この教会に、新しいビジョンが与えられ、様々な人たちがつながり合い、共に歩んでいくことができますように。全ての教会が、平和を求めて歩むことができますように。

◆悩んでいる人のために祈ります。誰かに相談したり、頼ったりすることができず、一人で悩んでいる人たちに、あなたの憐れみがありますように。一緒に考えてくれる人、一緒に支えてくれる人が見つかりますように。

◆傷ついている人のために祈ります。人から受けた痛みや、自分自身の失敗に、苦しめられている人に、あなたの慈しみがありますように。共に怒り、共に泣き、共に励ましてくれる人が側へやって来ますように。

◆焦っている人のために祈ります。困難な状況を前にして、どうしたらいいか分からず、焦ってしまう人たちへ、あなたの恵みがありますように。自分を落ち着かせてくれる人、安心させてくれる言葉と出会い、一段ずつ進んでいくことができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌18番「あの方が独り子を」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も、教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究には、教会に集まった6名、同時に視聴された5名、計11名が参加されました。後から動画を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

なお、華陽教会では、感染拡大期にあたる「レベル3」相当の宣言が出るまでは、マスク、消毒、換気、加湿、三密回避の座席調整にご協力いただき、誰でも問い合わせなしで参加できる「三密を避けた会衆礼拝」を続ける予定です。

 

現在、岐阜県の警戒体制はレベル2で、「岐阜県医療ひっ迫警戒宣言」が発表されています。華陽教会での礼拝出席は20名前後、祈祷会などその他の集会は5名前後が集まっていますが、感染リスクの高い方や体調が崩れている方は、配信を通してご参加できます。

 

警戒体制がレベル3となり、より慎重な行動を要請される「対策強化宣言」が出た場合は再び、配信奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名の10名前後に調整して集まる「調整型小規模礼拝」へ移行します。

 

その際は決定次第、教会員への連絡網と各種SNS、ホームページ等でアナウンスします。引き続き、発熱・倦怠感・呼吸困難のある方、感染リスクの高い方は、配信を通して集会にご参加いただき、会堂に集まる方は十分注意しながら、来ていただけると嬉しいです。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。