ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信じる者は……』 使徒言行録10:34〜43

聖書研究祈祷会 2023年1月18日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の298番「ああ主は誰がため」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆全てのものを新しくされる、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。この一週間も傷つけられた人、苦しめられた人を癒してください。どうか今、差別や暴力、偏見や無理解、デマや誤情報で生きにくくなっている人たちに、あなたの癒しと回復をもたらしてください。

◆私たちの神様。この一週間も、私が傷つけてしまった人、苦しめてしまった人を癒してください。どうか今、間違いに気づく力と、正しさを保つ力を与え、変えるべきものと、変えてはならないものを見極めさせてください。

◆私たちの神様。この一週間も、様々な騒動に巻き込まれた人、一部の人や場所から離れざるを得なかった人たちを癒してください。どうか今、苦しみから避難できる場所、もう一度帰れる場所が備えられるよう、私たちを導いてください。

◆全ての人を守られる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録10:34〜43の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

華陽教会では、先週の水曜日から、聖書研究祈祷会が終わった後、受洗勉強会が始まりました。そこには、受洗を希望する人もいれば、既に洗礼を受けているけど、改めて学んでみたい人、今のところ受洗する気はないけど、勉強してみたい人など、誰でも参加できるようにしています。

 

そんな中、たぶん多くの参加者が、受洗について考えるとき、気になってくるのは次のことです。洗礼を受けなければ、神の国、いわゆる天国には入れないんだろうか? 神を信じて、正しいことを行わなければ、神様に受け入れてもらえないんだろうか? 「信じる者は救われる」とよく言うけれど、信じない者は救わないということなんだろうか?

 

事実、聖霊を受けたペトロはこう言っています。「どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(使徒10:35 聖書協会共同訳)……なるほど、人種や民族に関係なく、神様は人々を救ってくれることは分かった。でも、神を畏れていない人、正しいことを行わない人は、受け入れられないって話だろうか?

 

洗礼を受けたキリスト教徒であろうと、洗礼を受けてない人であろうと、身の回りにいる多くの人は、キリスト教の神様を信じているわけではありません。「私は神を畏れているけれど、私の家族は『神はいない』と思っている」「キリスト教徒は神を信じているけれど、私自身はキリスト教徒と同じように神を畏れているわけじゃない」

 

そんな人たちはたくさんいます。じゃあ、私が洗礼を受けても、私の身内や周りの人は救われないんだろうか? 私の大切な人たちは、神様に受け入れてもらえないんだろうか? キリスト教徒の信仰を尊重してくれる人たちも、同じように、神を畏れて信じなければ、神様に愛してもらえないんだろうか?

 

それだけじゃない。神様を畏れていても、信じていても、正しいことを行うことができない人は、やっぱり受け入れてもらえないのか? 洗礼を受けていても、間違いを犯し続けたら、毎週教会へ行けなかったら、聖書の教えを守れなければ、結局、受け入れてもらえないのか?

 

「神は人を分け隔てなさらない」「どの民族の人であっても受け入れられる」……そのように希望が語られる一方で、私たちを緊張させる言葉も告げられます。ペトロが遣わされたコルネリウスの家は、異邦人・異民族の家だったけど、同じ信仰だったから、正しい行いをしていたから、受け入れられたんだ……そう考えると、不安と恐怖が増してきます。

 

洗礼を受けたい気持ちはあるけど、受けても安心しちゃいけない。私が受けても、他の人たちは救われない。神を畏れていなければ、正しいことを行わなければ……そんなプレッシャーに迫られて、自分だけ救われようとするのは、どうしても気が進まない……とても自然で、大事な思いが湧いてきます。

 

「神様……分け隔てしているじゃん」と。「無償の愛じゃなくて、条件付きの愛じゃん」と。使徒言行録10章43節では、はっきりこうも言われています。「イエスについては、預言者も皆、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(聖書協会共同訳)

 

それって、イエス・キリストを信じない者、その名によって祈らない者は「罪の赦しが得られない」ってことですか? 救いの条件なんですか? 信じない者、信じられなくなった者は、分けられ、追い出され、隔てられるということですか? だったら、私は洗礼を受けるのがためらわれます。私とあの人を、私とあの子を、隔てられたくありません。

 

間違ってない思いです。「優しさ」や「甘さ」という言葉で、簡単に片付けたくはない、人の切実な思いです。そんなとき、「神に受け入れられる者」「罪の赦しが受けられる者」を、このように語ったペトロについて、私たちは振り返らずにはいられません。なぜならペトロはこのように語った数日前に、神の言うことを否定して、正しくないことをしているからです。

 

そう、ペトロは神様から、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥を幻で見せられたとき、「屠って食べなさい」という言葉に従うことができませんでした。その中には、彼が汚れていると思っていた、清くないものと感じるものが入っていたからです。抵抗するペトロに対し、神様は、自分がそれらを清めたことを教えます。食べて大丈夫だと伝えます。

 

しかし、ペトロは神の言うことを信じられません。それらが清いと、汚れてないと思えません。神様が「大丈夫だ」「わたしが清めた」と言ったのに、清められたものに触れること、手を伸ばすことができなくて、3回も拒絶してしまいました。神に対して、正しい行いができていたか、正面から問われたら、彼は頷けないでしょう。

 

3回にわたって、神の言うことを拒絶する、正しい行いを取れないでいるその姿は、イエス様が十字架にかかる直前にとった、彼の行動も思い出させます。彼は、イエス様に、「あなたと一緒なら牢に入って死んでもよいと覚悟している」と言い切ったにもかかわらず、自分が捕まりそうになると、三度「イエスの仲間ではない」と否定し、呪いの言葉まで吐いてしまいました。

 

神を畏れるよりも、目の前の人間を恐れてしまった……正しい行いをするよりも、間違った行動をとってしまった……ペトロも、そんな人間の一人でした。「罪の赦しを受けられない」「神に受け入れてもらえない」そんな展開を迎える罪人の一人に見えました。彼だけでなく、彼の身内も、周りもです。

 

ペトロの兄弟であるアンデレも、イエス様に最後まで従うことができず、見捨てて逃げてしまいました。ペトロのように、捕まったイエス様を、後から追いかけることさえできませんでした。かつて、イエス様に高熱を癒してもらったペトロの姑も、イエス様が十字架にかかったとき、他の女性たちと一緒に来ていた様子は描かれません。

 

ペトロ自身も、ペトロの大切な人たちも、「神を畏れて正しいことを行う者」「イエス・キリストを信じる者」になり切れなかった姿を見せています。しかし、そんな彼自身が言うんです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」「私たちは、イエスがユダヤの地方とエルサレムでなさったことすべての証人です」

 

ペトロは言います。私を見てください。つい先日まで、神が清めたものを「汚れたもの」と言っていた「口にできない」と言っていた、この私を見てください。イエス・キリストを三度否定し、神の言うことを三度拒絶した、この私を見てください。神が遣わした異邦人を、すぐには出迎えられなかった、この私を見てください。

 

神は私に、清めたものを受け入れるまで、語り続けてくださいました。あなたがた異邦人を受け入れるまで、付き合い続けてくださいました。イエス様は、自分を三度否定した私に、自分のことを愛していると、三度告白するまで呼びかけました。見てください。私は、あなたとあなたの家族のもとへ、あなたの大切な人たちのもとへ遣わされました。

 

神は人を分け隔てなさりません。私に起きたことを、あなたにも起こし、あなたに起きることを、あなたの身内にも、周りにも起こします。私を見てください。これがその証です。救い主を裏切り、見捨て、否定してきた私に付き合い続け、信じない者から信じる者に、正しくない者から正しい者に変えられる主が、この家に今やって来ました。

 

どうか私を見てください。神が清めてくださった私を見てください。私があなたのもとへやって来たのは、あなたも清められているからです。洗礼に導かれた人、あなたも自分自身を見てください。あなたがその家にいることは、その家の者が、あなたに連なる者たちが、神に受け入れた知らせです。

 

神はあなたと誰かを分け隔てるために、あなたが自分を信じるように、畏れるように、されたのではありません。あなたと私の隔たりを解かれたように、あなたとあなたの隣にいる者を清めに来たのです。あなたがたを受け入れ、神の国に招き入れ、共に食卓へ着くために、私があなたへ遣わされ、あなたが、あなたの家へ遣わされています。

 

信じる者は救われる……その知らせは、信じない者が信じる者となるように、信じられなくなった者が再び信じる者となるように、どこまでも、どこまでも付き合って、新しく変えてくださるイエス様によって、今日も告げ知らされています。神は人を分け隔てなさりません。

 

あなたがたはご存じでしょう。神の子が自分を見捨てた者たちに出会われ、「平和があるように」と告げたことを。信じなかった者を、滅びゆくままにしなかったことを。死を超えて、全ての者へ手を伸ばし、呼びかけに答えさせ、起こしてしまうことを、あなたがたはご存じでしょう。

 

だから、共にイエス・キリストの名によって集まりましょう。あなたの進む道、あなたの遣わされたところに、良い知らせが伝わって、平和が実現されますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(栃木県佐野市の佐野教会)のために、療養中の会衆のために、会衆の家族のために、会衆の友人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆栃木県佐野市の佐野教会のために祈ります。辞任される牧師と家族の生活が、今後も支えられますように。後任の牧師が速やかに見つかって、教会員みんなの心と体の健康が守られますように。

◆療養中の会衆のために祈ります。怪我のため、病気のため、障害のため、衰えのため、家や施設や病院で、療養している人たちに、あなたの癒しがありますように。特に、孤独や寂しさ、心細さを感じる人に、新しい希望と喜びをもたらしてください。

◆会衆の家族のために祈ります。顔を合わせることができる相手も、なかなか会うことのできない人も、心を通わせるのが難しい者も、あなたによって日々、新しい関係が築かれますように。それぞれ必要な助けと支えをもたらしてください。

◆会衆の友人のために祈ります。信仰の違う人、考えの違う人、理解してくれる人、理解してもらえない人、それぞれに、あなたの恵みと祝福がありますように。互いに尊重し、互いと新しく出会えるように、一日一日を導いてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌24番「イェスは今日あなたを」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった6名、同時に視聴された2名、計8名が参加されました。後から動画や原稿を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

聖書研究祈祷会が終わった後、受洗志願者と一緒に受洗勉強会も15:30まで行っています。受洗する気はないけど興味のある人、既に受洗したけど出てみたい人も、自由に参加できるようにしています。どうぞ気軽にお越しください。

 

なお、華陽教会では、水曜日13時半からの聖書研究祈祷会、日曜日9時15分からの教会学校こども礼拝、第3金曜日14:30からのキリスト教ABC講座は、平均5名前後の出席であるため、感染症対策をした上で、誰でも集まれるようにしています。

 

日曜日10時半からの主日礼拝は、奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名に調整して、10名前後で集まれるようにしています。普段、華陽教会に来ている信徒、客員、求道者の方は、2月までの出席希望日をお伝えいただき、牧師が調整しています。

 

初めて礼拝に来る方や、2ヶ月以上出席できなかった方は、問い合わせなしで参加できるようにしています。配信も続けて行っているので、オンラインでも、どうぞよろしくお願いします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。