ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『遣わされなかった?』 ルカによる福音書4:16〜30

日曜礼拝 2023年1月22日


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案 内

華陽教会では、感染症の拡大を受け、教会に集まる人数を10名前後に調整して、配信と並行して礼拝を行っています。本日は、例年1月に行っているオープン礼拝として、礼拝の要素を一つ一つ説明しながら、みんなで意味を振り返り、礼拝を味わうときを持ちます。

 

本来なら、礼拝後に研修会を行いますが、感染症が比較的落ち着いている、来年度9月に延期して、今日は礼拝のみ、皆さんと心を合わせて行いたいと思います。共に、教会にいる人も、配信を見ている人も互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

最初に、前奏を聞いて心を静めましょう。前奏は、礼拝の開始を告げる音楽です。奏楽者は、その日の教会暦や行事に合わせて曲を選び、会衆が礼拝へ参加しやすいように、その日に歌う讃美歌も、礼拝が始まる少し前から流してくれることもあります。

 

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(コリントの信徒への手紙一1:9)

 

招詞(招きの言葉)は、礼拝に集まった人たちへ、神の招きを告げる聖句です。司式にあたる人は必ずしも聖書箇所まで告げる必要はありません。この言葉は、その日の教会暦やメッセージに即したもの、あるいは、聖書日課で指定されている聖書箇所から選ばれます。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌83番「めぐみのひかりは」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

最初の讃美歌は、神の招きに対する応答の賛美です。礼拝委員会で季節毎にふさわしいものを選びます。多くの讃美歌で、最後につけられている「アーメン」という言葉は「本当にそうです」「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語です。讃美歌は立って歌われることが多いですが、座ったままでも大丈夫です。差し支えない方は、お立ちください。共に賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

開会の祈祷は、神の前に立った会衆がその言葉を受けとめるために、たとえば、次のようなことを祈ります。まず、【罪の告白】によってへりくだった心で神に向かい、【憐れみの賛歌(キリエ)】にあたる言葉で神による憐れみを願い、【赦しの言葉】によって神による罪の赦しを聞き、【頌栄(グローリア)】にあたる言葉で神の栄光をたたえ、【聖霊の導きを求める祈り】によって、聖書から神の言葉を聞く準備をします。

 

呼びかけ

◆全てを新しくする、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

 

罪の告白

◆私たちの神様。私たちはこの一週間、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。

 

憐れみの賛歌(キリエ)

◆私たちの神様。私たちはこの一週間、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、変化と回復をもたらしてください。特に、教会に集まれず、顔と顔を合わせられない人たちを力付けてください。

 

赦しの言葉

◆私たちの神様、あなたは心から悔い改め、あなたに立ち返る全ての人を赦してくださいます。どうか今、ここに連なる一人一人をあなたが憐れみ、全ての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてください。

 

頌栄(グローリア)

◆私たちの神様、あなたは後悔する者に癒しを、責める者に希望を与えてくださいます。本来なら、恵みを受け取れない者が喜べるように、変化と回復をもたらします。どうか今、天の上にも地の上にも、あなたの栄光が現されますように。

 

聖霊の導きを求める祈り

◆私たちの神様。あなたは心に平安をもたらし、大切な言葉を与えてくださいます。どうか今、心を乱す様々な事柄に惑わされず、あなたの声を聞かせてください。これからのち、新しい人として主に仕え、あなたの栄光を現すことができますように。

 

結び

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。

 

聖書朗読は、神の語りかけを聞くときです。主に聖書日課で指定されている【旧約】【使徒書】【福音書】の中から選ばれます。礼拝の中心は神の言葉なので、できるだけ、この3つ全てを読むことが望ましいです。

 

どれかを省略しなければならないときは、クリスマス前の日曜日には【旧約】が、クリスマスからペンテコステ前までは【福音書】が、ペンテコステからアドヴェント前までは【使徒書】か、それに準ずる新約の文書が、なるべく読まれるようにしています。聖書についている見出しは箇所を見つかりやすくするもので、礼拝の中では読み上げません。

 

ルカによる福音書4:16〜30(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編48:1〜12(新共同訳交読詩編より抜粋)

 

交読文は、聖書の言葉を聞いた会衆が祈りへ導かれるように、詩編の言葉を司式者と交互に唱えていくものです。詩編の箇所も、聖書日課で指定されているものを選んでいます。交読詩編付きの讃美歌21を持っている方は、一段下がったところと太字のところをお読みください。司式者は、会衆が読むところを間違えないように、テンポよく読むようにします。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の99番「主イェスよ、われらの」を歌います。

 

メッセージ前の讃美歌は、神の言葉を受けとめるため、教会暦や聖書箇所に即した歌が選ばれます。今回は、イエス様が私たちを一つにし、私たちを教会に招き、この世へ送り出してくださることを賛美します。讃美歌21の99番。(どうぞ、お立ちください)

 

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メッセージ

本日は「遣わされなかった?」と題して柳本伸良牧師にメッセージをしていただきます。

 

メッセージは、朗読された聖書の意味を解き明かし、神の言葉を受けとめる時間です。「説教」や「宣教」とも呼ばれます。牧師は、聖書箇所の文脈や出てくる単語の意味を調べ、現代の会衆に語られているメッセージを伝えます。教会の信徒が信仰に至ったきっかけや、聖書の言葉に助けられた体験を話す【信仰の証(奨励)】をする場合もあります。本日は、私からメッセージをさせていただきます。

 

イエス・キリストの生まれ育った故郷といえば、ガリラヤの町ナザレです。現在の私たちにとっては、ある程度知られた地名です。しかし、この町の名は、旧約聖書に一度も出てきたことがなく、イスラエルの歴史において、重要視されたことのない、単なる田舎町でした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」という有名な皮肉があるほどです。

 

裕福な家庭は少なかったでしょう。都市部ほど仕事はありません。出稼ぎのため、都へ行った親の帰りを待っている子どももいたでしょう。夫に先立たれ、生活の術を失う女性もいたでしょう。容赦なく税金を徴収され、地主や雇い主への借金に苦しみ、少ない賃金で長時間働き、毎週の礼拝へ出ることも叶わない人たちがいたでしょう。

 

それゆえに「律法を守らない不信仰者」と呼ばれてしまう、貧しい人たちがいたはずです。当然、生活が困窮する中、盗みに手を出してしまう人もいた。十分な栄養を受けられず、視力を失ってしまう人もいた。不当に税を取り立てられ、圧迫されている人もいた。けれども、ナザレの人々は、憐れみを受けるどころか、かえって皮肉を言われます。

 

「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」……あの町から、目立った活躍をする者が現れるのを見たことがない。むしろ、律法を遵守できず、ときには罪を犯してしまい、売春や施しによって、その日を凌ぎ、まともな生活を送れない……そんな人たちで溢れている。借金を返せない人も、酒に溺れてしまう人も、寝床から起きて来ない人もいる。

 

視力を失った者も、捕らわれた者も、圧迫されている者も、罪に無頓着だったから、汚れた行為を重ねたから、そうなってしまう部分もあったんじゃないか? 信仰的に、成熟していない民だから、王も、英雄も、預言者も、現れたことがないんじゃないか? あんな町に、神様が啓示をもたらしたり、救い主を送ったりすることがあるだろうか?

 

そういう感じの認識だったと思います。だからこそ、イエス様の読み上げた聖書の言葉が「実現した」と宣言されたとき、ナザレの人々はイエス様を誉め、恵み深い言葉と受け取ります。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 

よくぞ言ってくださいました! その預言は、まさに私たちのために語られた! 自分たち周縁化された人々を! 抑圧され、圧迫され、追いやられた人々を! 神は救ってくださると告げられた! 誰も目を留めなかった、誰も気にかけなかった私たちに、あなたは神の恵みを告げ知らせた!

 

そして、人々はハッとします。「この人はヨセフの子ではないか」…‥婚約中に、妻が妊娠してしまった、あのヨセフの息子じゃないか? 結婚前に、親戚の家へ引きこもり、3ヶ月間も別居していた、マリアとヨセフの子どもじゃないか? 結婚するまで貞潔を守れなかった2人、あるいは、浮気が疑われている、あの両親の子どもじゃないか?

 

まさに、人前に出てくることを嫌がられ、色んなものの中心から追いやられ、周りから差別と排除を受けながら、困窮していく人たちの只中にいる存在です。なるほど、幼少期から色々言われてきたこの人なら、ナザレで困窮している私たちと同じ現実を生きるこの人なら、今まで苦しんできた、守ってもらえなかった私たちを助けてくれるに違いない!

 

もしかしたら、町の人々が、イエス様をほめつつ驚いたのは「何だ、ヨセフの子かよ……」という驚きではなく、「あのヨセフの子なら/俺たちと一緒のあいつなら/私たちと育ったこの人なら……真っ先に、自分たちのために戦ってくれる、自分たちに手を差し伸べてくれる」という期待だったのかもしれません。

 

ところが、期待に満ちた目で見つめられる中、イエス様は淡々と語ります。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」……私があなたたちの味方になって、あなたたちの期待に応え、あなたたちの望んでいることをしてくれるに違いないと思っているだろう。

 

でも、イエス様は、自分が遣わされた目的は、あなたたちの思ったとおりの期待に応えることじゃないと、はっきり告げてしまいます。「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」

 

列王記に出てくる有名な事件を語られて、会堂の空気が固まります。何で、そんなこと言うんだろう? 何で、サレプタのやもめを救うことが語られて、イスラエルのやもめを救うことは語られないんだろう? 何で、私たちのためには遣わされずに、私たちの外にいる人へ、救いが訪れるんだろう?

 

さらに、イエス様は言葉を続けます。「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」……重い皮膚病を患っている人は、神から罰を受けている「汚れた人」「罪を犯してしまった人」と認識される、代表的な人々でした。差別を受けている人たちでした。

 

しかし、かつて預言者が遣わされたのは、イスラエルで差別を受けている同胞のもとではなく、その同胞たちからも、さらに差別を受けている、シリア人の皮膚病患者のところでした。ナアマンは、他の神々を信じる異邦人で、しかも、癒されてイスラエルの神を信じるようになってからも、立場上、国の宗教儀礼、偶像礼拝に、関わり続けた人間です。

 

なぜ、そっちを助けるんだ? 目の前にもっと多数の、同胞の困窮者がいるじゃないか? 私たちのことはほっておいて、外にいる人ばかり助けるのか? 私たちを犠牲にして、外の人たちを救うのか? それよりも故郷の民を救え! 同胞の私たちを救え! 異邦人ではなく、イスラエルの私たちを救え! 私たちを追いやり、放置し、犠牲にするな!

 

ナザレの人々は総立ちになって、イエス様を町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとします。確かに、蔑ろにされた思いがしたでしょう。一瞬期待したイエス様に、突き放された気持ちになったからこそ、彼らもイエス様を突き放し、怒りのままに追い出します。故郷から出た救い主を、受け入れられずに追い出します。

 

ですが、ふと思うんです。イエス様は、ナザレの町の人々へ、自分の故郷の人たちへ、本当に「遣わされなかった」のだろうか?……と。ナザレの人たちを、見捨ててしまったんだろうか? 追いやってしまったんだろうか? 犠牲にしてしまったんだろうか? どうも、違和感があるんです。

 

だって、「遣わされていない」なら、なぜ、イエス様は、ナザレの会堂へ来て、聖書の言葉を読み上げたんでしょう? なぜ、自分の読み上げた聖書の言葉が実現したと、最初にナザレの会衆へ語ったんでしょう? なぜ、町から追い出され、崖の上から突き落とされそうになったのに、ナザレから病人を連れて来られる範囲で、活動を続けたんでしょう?

 

そう、遣わされていたんです……ナザレで捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人たちが解放され、自由になることができるよう、もう遣わされていたんです。自分を歓迎しない人、自分を追い出してしまう人たちが、自分を訪ねてくる者へ、自分を受け入れる者たちへ変えられるよう、言葉を告げに来たんです。

 

イエス様は、歓迎されないことを分かっていて、追い出されることを知っていて、私たちへ出会いにやってきます。救い主を受け入れられず、救い主が遣わされなくなったところから、私たちが新しく出てくることができるように、神の国を訪ねてくるように、自ら出会い、聖書を開き、神の言葉を蒔いていきます。

 

神の国は、ナザレの人々も、他の町の人も、外国の人たちも、追い出されないところです。自分たちの救いのために、誰かが見捨てられたり、排除されたり、犠牲にされたりしない場所です。誰もが解放と、回復と、自由を受けとれるところです。だから、イエス様は、私たちを揺るがし、立たせて、今いるところから連れ出します。

 

追い出された者たちと、同じところへ出て行って、追い出してしまった者たちを、自分のもとへ訪ねさせます。神の国、神の支配を実現するため、何度も、私たちと出会い直します。全ての人に、和解と平和をもたらすために、癒しと回復をもたらすために、今日も私たちとぶつかってきます。

 

神様と、イエス様と、聖書の言葉と衝突した者……あなたに。主の恵みの年が告げられます。あなたの町に、遣わされなかった救い主は、あなたを神の国へ招くために、あなたが捕らわれた町の外で、扉を叩いて待っています。行きなさい、呼ばれた者よ。奮い立て、貧しい者よ。あなたの道は続いています。あなたの足は駆け出しています。

 

さあ、行きなさい。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌14番「奮い立て 貧しい人よ」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

メッセージ後の讃美歌は、神の言葉を締めくくるのにふさわしい歌を歌います。今回は、私たちを救われる方が、私たちを必要とされていることを歌います。立ちあがるのがしんどい方は、座ったままで大丈夫です。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください)

 

使徒信条は、神の言葉に共鳴して、教会の信仰を告白するキリスト教会共通の信条です。信仰者が何を信じているのか表す便利な要約となっており、一人一人が自分の口で、神様とイエス様と聖霊について、集まった人に伝える時間でもあります。

 

その性質上、なるべく集まったみんなに分かる言葉で告白するのが望ましいですが、華陽教会では、現在も文語の使徒信条を使っているので、『讃美歌21』か、オンライン賛美歌の後方2頁に載っている口語訳を見ながら告白していただけると嬉しいです。使徒信条。

紹 介

華陽教会では、その日、初めて教会に来た方や、久しぶりに礼拝へ出られた方を意識してから、「とりなし」と「祝福」を行います。それは、この礼拝につながった全ての者が、神の民として招かれた友人であり、新たに加えられた仲間だからです。

 

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

とりなしの祈りは、自分自身がイエス様のとりなしによって助けられていることを覚え、今度はこちらから、周りのため、世界のために、神様へとりなす祈りです。お祈り毎に、沈黙を挟むので、配信を見ている方も、それぞれ思い浮かぶ人のためにお祈りください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください)

 

主の祈りは、神の国でイエス様と共に食卓に着く日を待ち望み、キリストの十字架と復活を思い起こす「聖餐式」(パンとぶどう液をいただく式)の準備をする祈りです。イエス様が「祈り方の基本」として弟子たちに教えたものであり、現代でも、どう祈ったらいいか分からない人へ、最初に教えられる祈りでもあります。

 

「祈り方の基本」を伝えるものでもあるため、なるべくみんなに分かる言葉を用いることが望ましいですが、華陽教会では、今も文語の訳を使っているので、配信をご覧の方は、「日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳」を見ながらお聞きください。主の祈り。

 

 

聖句と主題

今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。使徒言行録26:16。

 

年間聖句

起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。(使徒言行録26:16)

 

年間主題

華陽教会では、今年度「これからの教会を考える」というテーマで、使徒言行録26:16を年間聖句にしています。

 

教会にみんなで集まる機会が減ったこと、研修会や懇談会をなかなか開けないことを受け、先週から、聖餐式のない日曜日に、会衆みんなで、一年間のテーマとなった聖句と主題を意識しています。

 

今週は、同じ時間、同じ場所で、一緒に礼拝できない人たちと、どうやって信仰を支え合うか、顔を合わせられない人たちと、どうやって励まし合っていくか、共に向き合っていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金は、神の恵みに対する感謝の応答です。自分の生き方を神にささげるしるしとして、献げ物を行います。初代教会では、信徒一人一人がパンや飲み物を持ち寄って祭壇にささげ、集まった食事を生活に困っている人たちへ分け与えていました。そのとき集められた一部を聖餐に用いたため、献金と聖餐は、本来セットで行われます。

 

現代では、集めた献金を教会の維持や運営のため、牧師の謝儀(給与)のため、地区・教区・教団の働きのため、福祉や慈善活動のために用いています。あくまで「恵みに対する感謝」としてささげるものなので、金額に定めはありません。もし、どうしても迷ったら「自分と誰かにご飯を分けられるくらい」で考えるといいでしょう。献金の後、係の方が祈りをささげます。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌います。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌いましょう。

 

最後の讃美歌は、会衆が神の栄光をたたえて、礼拝から送り出されていくものです。神の栄光をたたえる「頌栄」の讃美歌が選ばれる他、祝福との関連で「派遣」をテーマにしたものが選ばれます。季節毎に礼拝委員会で話し合って決められます。(お立ちください)

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派遣の言葉と祝福は、会衆一人一人が、神様の愛を示していく生き方ができるように、神の祝福を宣言して、日常へ送り出すものです。祝福の間、目を閉じなければならない決まりはありません。

 

できれば、互いに祝福し合う気持ちで、顔を上げていただけると嬉しいです。なお、体の不自由な方やしんどい方は座ったままで大丈夫です。立っている方も、牧師が手を下げた後は、静かに座っていただいて大丈夫です。

 

派 遣

主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。(ルカによる福音書4:18〜19より)

 

祝 福

主があなたを祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。(民数記4:24〜26より)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった15名、同時に視聴された16名、計31名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週も、奉仕者6〜7名、教会員1〜4名、新来者1〜4名の10名前後に調整し、配信と並行して行う「調整型小規模礼拝」を行います。教会員の方は、1月から2月まで、出席できる日曜日を牧師へご連絡いただき、参加日を調整しています。

 

諸事情で当日キャンセルする可能性がある教会員、客員、求道者の方も、それを見越して調整するので、遠慮なく、希望日を牧師までお伝えください。始めてくる方や2ヶ月以上礼拝へ来ていない方は、問い合わせなしで参加できます。

 

また、教会学校、聖書研究祈祷会、キリスト教ABC講座については、平均5名前後の集会なので、感染症対策をして、誰でも集まれるようにしています。体調と相談してお越しください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。