ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

キリスト教とLGBT(3)

Myriams-FotosによるPixabayからの画像

 

LGBTQへのバッシング

今回の「キリスト教とLGBT(3)」では、現在も当事者や関係者に対して激しいバッシングが続いているトランスジェンダーについて、中心的に触れていこうと思います。

 

少し前に、カトリック社会問題研究所が発行する雑誌『福音と社会』で、2022年8月から12月にわたって3回掲載された『LGBTとキリスト教 20人のストーリー』(日本基督教団出版局)についての「書評」が話題になりました。その内容に対し「トランスジェンダーをはじめとする性的マイノリティーへの無知や偏見に満ちている」「差別的だ」という批判が殺到したからです[1]

 

実際に、トランス女性を「トランスジェンダーの男性(俗にいうオカマ)」と表現したり[2]、「ノーマルではない」という書き方がされたり、およそ適切とは言えない記述がありました。

 

このように、キリスト教会の中で、LGBTQへのバッシングが見られるのは、今に始まったことではありません。しかし、キリスト教の関係者ではない人からも「LGBTQの性自認を理由にすれば、何でもかんでも押し通せるようになる」と印象付けるような主張が度々展開されています。

 

さらに、犯罪を犯したLGBTの当事者や、不適切な治療や指導を行った支援団体の事例を見つけると、それをもって、性自認の尊重を訴える人たちが皆「カルト」であるかのように印象付ける発信も次々と投稿されています。

 

宗教者として宗教カルトの問題に関わっている者としても、このような結びつけ方は残念で、問題を感じています。また、トランスジェンダーについて語られる際、異性装、ジェンダーフルイド、オートガイネフィリア、ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアの人たちが持ち出され、誤った議論を展開されてしまうケースも続いています。

 

まずは、トランスジェンダーや性自認について、基本的な理解と前提を確認することが大切だと思うので、以下に整理していきます。(それぞれの用語や事柄についての説明は、脚注ですぐに参照できるリンクを貼らせてもらいました)

 

トランスジェンダーとは?

トランスジェンダーとは「出生時にわりあてられた性別とは異なる性自認(性同一性)を持つ人」です。出生時に男性とわりあてられて女性の性自認を持つ人は「トランス女性」、出生時に女性とわりあてられて男性の性自認を持つ人は「トランス男性」と言います[3]

 

トランス女性を「MtF “male to female”(自分の性を男性から女性へ移行した/する人)」、トランス男性を「FtM “female to male”(自分の性を女性から男性へ移行した/する人)」と呼ぶこともあります。

 

トランスジェンダーには、男女いずれか一方に当てはまらない性自認を持つ「Xジェンダー」(あるいは「ノンバイナリー」)の人も含まれ、「MtX」「FtX」と表されることもあります。このXジェンダーの中に、性自認が複数の性の間で揺れ動く「ジェンダーフルイド」を含めて考えることもあります。

 

ジェンダーフルイドは、「男性」「女性」「男女の中間」「男女の両方」「男女どちらでもない」といった「複数の性を行き来している/揺れ動いている人」のことです。「今日は男性の気分だけど、明日は女性になろう」というふうに、自分で自分の性自認(性同一性)をコントロールできるわけではありません。

 

「昨日は自分を男性だと感じていたのに、今朝は男性というには違和感がある」「去年までは自分のことを確かに女性と感じていたのに、今年に入ってからは女性とも男性とも思えない」というふうに、出生時にわりあてられた性別と自分の性自認が一致するときもあれば、一致しないときもあります。

 

世の中には、そのような流動性/不定性の中で生きているという連続した自己認識を持つ人たちもおり、「好きなときに好きな性別になれる」という感覚とは異なります。ジェンダーフルイドを名乗る人は「自分の性が分からない」「自分の性を説明できない」と感じてきた人が多く、都合よく性を切り替えているわけではありません。流動する性自認に合わせて生きているだけです。

 

人は、それぞれ自分の性自認に合わせた生き方はできても、自分の性自認(性同一性)をコントロールできるわけではありません。つまり、「自分で自分の性自認(性同一性)を自由に決められる」わけではありませんが、「自分の性自認(性同一性)を踏まえて、自分の性をどう生きるかは自分で決める」ことはできます。

 

なお、トランスジェンダーではない人(出生時にわりあてられた性別と自分の性自認が一致する人)のことを「シスジェンダー」と言います。「男性らしく」「女性らしく」「男はこう」「女はこう」という社会生活において期待される固定的な役割(ジェンダーロール)に違和感を持つ場合でも、社会的・法的にその性別集団に所属することを望む場合には、トランスジェンダーではなく、シスジェンダーに含まれます[4]

 

性同一性障害(GID)とは?

性同一性障害(GID)とは医学的な診断名です。2019年5月25日にWHOの総会で「精神障害」の分類から外され「性の健康に関する障害」という分類の「性別不合(Gender Incongruence)」に変更されました。アメリカ精神医学会では2013年に「障害」という言葉を使わない「性別違和」という名称を採用しています[5]

 

一方で、今なお、性同一性障害を「精神的な異常」のように捉える発信が後を絶ちませんが、上記のようにそれは違います。また、「性自認という概念はニセ科学だ」という主張も時折見られますが、そのようなコンセンサスは科学者の間で見られません。

 

日本の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」では、ホルモン治療や性別適合手術などの治療を希望するトランスジェンダーは、専門の精神科で性同一性障害の診断を受けることが求められています。

 

ただし、診断や治療のできる医療機関は多くはなく、全てのトランスジェンダーが、受診・通院・入院できる病院へアクセスできるわけではありません。また、身体的な違和感の程度も、違和感を解消・軽減するやり方も、当事者によって様々で、金銭的・身体的な負担のかかる治療を望まない人もいます。

 

時折、「性同一性障害の診断や治療を受けなければ、本物のトランスジェンダーではない」という主張をされることもありますが、トランスジェンダーは「性別移行する/している/した」といった様々な状態を包括する用語で、ある移行段階や状態だけを抜き出して、他を除外するものではありません。

 

トランスジェンダーの中に、性同一性障害の診断や治療を受ける人もいれば、受けない人、受けられない人もいます。診断や治療を受けるかどうかで、トランスジェンダーとして「正しい」「正しくない」が決まるわけでもありません。それぞれの事情や背景に沿った現実があるだけです。

 

性自認、性的指向、性表現とは?

性自認(Gender Identity)とは「自分はどのような性別である/ないという連続した自己認識のありよう」です。時間的・社会的な同一性、一貫性というニュアンスが表れる「性同一性」とも訳されます[6]

 

よく誤解されますが、「今日は女だけど明日は男になろう」というふうに、自分の気分で性別を変えられるという概念ではありません。また、性自認は、男性か女性かに分けられるものではなく「男性と女性の中間」「男性でも女性でもある」「男性でも女性でもない」「男性か女性かにとらわれない」「複数の性の間を行き来している/揺れ動いている」など様々なものがあります。

 

なお、トランスジェンダーにおける様々な「性自認」と、DSDsの「体の性の様々な発達」も混同されやすいですが、両者は異なるものです。DSDs(性分化疾患)は、男女以外の性別ではなく、女性・男性の体のバリエーションを有する人たちです。こちらも混同すると当事者を傷つけることになります[7]

 

性的指向(Sexual Orientation)とは「どのような性別の相手に恋愛感情や性的関心が向くか/向かないか」を示したものです。性的指向が同性に向く人を「ホモセクシュアル」、性的指向が異性に向く人を「ヘテロセクシュアル」と言います。

 

性自認が男性で性的指向が同性に向く人は「ゲイ」と呼ばれ、性自認が女性で性的指向が同性に向く人は「レズビアン」と呼ばれます(海外では男女どちらの場合もゲイということがあります)。「オカマ」「ホモ」「レズ」という呼び方は長年、侮蔑語として使われてきたので、現在では「ゲイ」や「ビアンさん」といった呼び方をしています。また、女性でも男性でも、性的指向が両性へ向く人は「バイセクシュアル」と呼ばれます。

 

性自認と性的指向はよく混同されますが、それぞれ独立した概念です。トランスジェンダーの性的指向も様々で、トランス女性(MtF)の中にも、男性を好きになる人(異性愛)、女性を好きになる人(同性愛)、男女共に好きになる人(両性愛)など、色々な人がいます。トランス男性の場合も同様です[8]

 

また、性的指向が女性や男性だけでなく、ノンバイナリーやXジェンダーなど、あらゆる性自認の人へ向く「パンセクシュアル(全性愛)」の人もいます。性的指向があらゆる性自認の人へ向くからと言って、誰でも好きになったり、誰でも襲おうとするわけではありません。ヘテロ男性が皆、女性相手なら誰でも好きになったり、誰でも襲おうとするわけではないように、性的指向と身持ちの悪さは関係ありません。

 

その他に、どの性別にも恋愛感情や性的関心が向かない人を「アセクシュアル」や「Aセクシュアル」と言います。他者に対して恋愛感情や性的関心が向かないからと言って、愛情に乏しかったり、人間性に欠けているわけではありません。恋愛感情や性的関心が誰にも向かないだけで、多くの人と同じように、誰かを大切にしたり、尊敬したり、好ましく思ったりします。性的指向だけで人間性を判断することはできません。同じ性的指向でも一人一人違います。

 

性表現(Gender Expression)とは「見た目や言動などで表す性」のことです。服装や髪型、仕草、言葉遣いなどの外見に表れる性(ジェンダー)を、自分がどう表現したいかを意味します[9]

 

性自認が男性なら社会的に男性と結び付けられた(男性らしい)格好を、性自認が女性なら社会的に女性と結び付けられた(女性らしい)格好をすることが多いですが、誰でも性自認と性表現が一致しているわけではありません。性自認が女性でも、男性らしい格好や中性的な格好を好む人がいるように、性自認が男性でも、女性らしい格好や中性的な格好を好む人もいます。

 

トランスジェンダーのように、出生時にわりあてられた性別とは異なる性自認を持つわけではない人(シスジェンダー)が、異性の性表現をすることもあります。その場合、「異性装」や「クロスドレッサー」と呼ばれます。

 

異性装は、かつて「トランスヴェスタイト」という医学用語で呼ばれていましたが、「治療しなければならない異常な人」というネガティブなイメージを持たれることもあるので、現在は「クロスドレッサー」と呼ぶことが多いです。

 

なお、異性装をする人が皆「性的興奮を得るため」という目的があると考えるのは間違っています。単に、異性の服装、化粧、口調、仕草をすることが好きだったり、その方が自分らしいと思ってする人もいます。

 

性的興奮を得るために女装や男装をするのは「性嗜好」に関わることで、性自認や性表現とは区別されます。「出生時にわりあてられた性別が男性で自分の性自認が男性」であるオートガイネフィリアは、通常トランスジェンダーには含まれません[10](トランスジェンダーに含まれないだけで、自動的に攻撃していい対象ではありません。オートガイネフィリアにも様々な苦悩と自身の性に対する向き合い方があります)。

 

トランスジェンダーが自分の性自認に沿った格好をすることや、クロスドレッサーが好きなものを身につけることに対して、「性的興奮を得るためだ」「騙すためだ」という偏見を持つことは、当事者の苦悩につながります。

 

LGBTQ とLGBTPZNとは?

LGBTQ とは(L)レズビアン、(G)ゲイ、(B)バイセクシュアル、(T)トランスジェンダー、(Q)クィア/クエスチョニングの頭文字をとったセクシュアル・マイノリティーの総称です。

 

(Q)クエスチョニングとは「自分の性別がわからない/意図的に決めてない/決まっていない人のこと」です。「自分はLGBTのどれかかもしれないし、どれでもないかもしれない」「どのセクシュアリティと言ってもしっくりこない」「どれかを決める必要はないと思っている」などの自己認識を持っています。

 

同じく、LGBTQの(Q)にあたるクィアとは「固定化された規範に対して『奇妙さ』を持つ人たち」が、それぞれに差異があることを認めつつ、連帯することができるように使われている呼び名です。

 

たとえば、「男は○○である」「女は○○である」「同性愛は○○である」「トランスジェンダーは○○である」というふうに、いつの間にか、固定化されてしまった枠組みによって、コミュニティーの外へ追いやられ、希薄化されてしまいがちな人たちが、仲間として一緒にやっていくための言葉です。

 

言い換えると、「男なのに○○するなんて変だ」「トランスジェンダーなのに○○しないなんて変だ」「LGBTのどれにも当てはまらないなんて変だ」というふうに「奇妙に」見なされる人たちも、差別や暴力から守られるように、違いを認めつつ、「クィア」として連帯することを目指した用語です。

 

ただし、LGBTQの連帯は、差別や偏見に抵抗するため、暴力から守られるため、社会を生きやすくするために行っているもので、他者の自由の侵害を擁護したり、犯罪に加担するための連帯ではありません。

 

最近、LGBTQの(Q)に、ペドフィリア(小児性愛)、ズーフィリア(動物性愛)、ネクロフィリア(死体性愛)も含まれるとして、LGBTQを「他者の権利の侵害となる性行為も多様性として認めろと言っている反社会的な連帯」かのように印象付ける発信が見られます。

 

LGBTPZNという言葉も、LGBTに(P)ペドフィリア、(Z)ズーフィリア、(N)ネクロフィリアの頭文字をくっつけて「両者は、自分たちがやりたいことを好き勝手やらせてもらう権利を主張している」と印象付ける発信に使われています。

 

しかし、LGBTQの連帯は、自分たちが差別や暴力から守られるように、不合理な制度や仕組みを変えていくための連帯であり、合意なく他者を巻き込んで、他者の自由を侵害する行為を認めているわけではありません。

 

PZNと一括りにされる小児性愛、動物性愛、死体性愛の人たちも、皆が「他者の自由を侵害していい」と思っているわけでも、皆が犯罪を犯しているわけでもありません。実行に移せば他者の権利の侵害となる欲望を持っていることに悩み、それを実行してしまわないよう「やらないための連帯」を当事者同士で行っているところもあります。加害者にならないよう、健全な社会生活を送れるよう、支え合っている自助団体があります[11]

 

そういった実情を鑑みずに「特定の性愛感情を持っているから/特定の性嗜好を持っているから、自動的に犯罪者として扱う」ことは、当事者の犯罪を防止するよりも、当事者の回復と健全な生き方を妨げます。

 

いかなる性自認・性的指向・性表現・性嗜好の人であっても、それだけで犯罪者や加害者と結びつけて、殊更に恐怖を煽るのは、差別であり、暴力です。それによって引き起こされるのは、性被害の防止ではなく、偏見と憎しみの連鎖です。

 

先に挙げたとおり、LGBTQの(Q)は、クエスチョニングやクィアを指す言葉で「どんな行為をする人も容認する枠組み」ではありません。差別や暴力から身を守り、社会を生きやすくするための連帯です。そして、PZNと一括りにされた人たちにも、自分が加害者にならないよう、健全な社会生活を続けられるよう、「やらないための連帯」をしている人たちがいます。

 

どちらの連帯も、否定的なイメージと結びつけて、貶めたり、壊したりしていいものではありません。それは被害の防止ではなく、健全な生き方の阻害であり、多くの人が一番やりたくない暴力への加担となるからです。

 

アンブレラタームとは?

トランスジェンダーのアンブレラターム(umbrella term)とは、「様々な差別や暴力の『雨』から身を守るための『傘』である『トランスジェンダーコミュニティ』に属する人たちを表すもの」です[12]

 

傘の中には、トランス女性も、トランス男性も、ノンバイナリーも、異性装の人も入っていますが、傘の中にいるもの同士は、それぞれ異なる定義を持っています。

 

同時に、トランスジェンダーは「自分の性自認(性同一性)が何か」を言語化していく、一致するものを探していく過程で、「自分は異性装かと思っていたけどトランス女性かもしれない」→「トランス女性かと思っていたけどノンバイナリーと言う方が正しい気がする」……というふうに、人によっては揺れ動く時期を過ごします。

 

そのため、トランスジェンダーの枠組みから、異性装の人を安易に外すことはできず、「ジェンダー規範から外れる外見や特徴を持つ人たち」として、一緒に内包されています。

 

トランスジェンダーアンブレラは、様々な差別や暴力を受けている各グループを見渡せるようにしたもので、いたずらに様々な境界をなくしたり、混乱させるために作られた概念ではありません。傘の中に含まれている人たちが、一様に同じ認識や同じ対応を当てはめてほしいと求めたり、訴えたりしているわけでもありません。

 

繰り返しますが、トランス女性、トランス男性、異性装の人たちは、同じ傘の下にいますが、異なる定義を持っています。トランス女性は「出生時にわりあてられた性別が男性で性自認が女性である人」、トランス男性は「出生時にわりあてられた性別が女性で性自認が男性である人」です[13]

 

異性装は、文化的に自らの性役割に属するとされる服装をしないことです[14]。トランスジェンダーコミュニティーが「異性装の人も異性と同じトイレや風呂を使えるようにして」と要請しているわけではありません。国や地域によっては、異性の性表現をしただけで罪に問われたり、刑罰に処せられてしまうことがあり、そうした差別や暴力から守られる必要のある人たちが、アンブレラタームの中に入っています。

 

トランスジェンダーの大多数は、必要な場面で必要な区別をなくすことを求めていません。問題が生じる、合理的でない区別の改善を求めています。痴漢やDVやいじめから守られたいのは、みんな一緒です。

 

トランスジェンダーも、それらの被害を受けてきて[15]、それらの被害を過小評価していません。シスジェンダーもトランスジェンダーも、共に性暴力から守られること、性被害が防がれることを望んでいます。

 

LGBTQと犯罪者とカルト

シスジェンダーの中に、犯罪や暴力を振るう人がいるように、トランスジェンダーの中にも、犯罪や暴力を振るう人がいます。それらは個々に指摘と批判をしながら止めていく必要があります。

 

様々な社会福祉団体の中に、不適切な行為や運営をする個人や集団がいるように、LGBTQの支援者の中にも、不適切な行為や運営をする個人や集団がいます。それらは個々に批判と糾弾をしながら止めていく必要があります。

 

あらゆる宗教、商業、非営利組織の中に、破壊的カルトやカルト化した団体があるように、LGBTQの活動をしている団体にも、カルト化するところは出てきます。医師や科学者の中にもニセ医学やニセ科学を広める人が出てくるように、必ず出てきます。

 

ボランティアでも、サークルでも、平和運動でも、人権団体でも、破壊的な傾向がある団体は既に存在し、それらは個々に批判と糾弾をされながら、実態を知らされたり、運営を止めたり、健全化を目指したりしていきます。

 

しかし、宗教を否定するために、商業を否定するために、非営利組織を否定するために、特定の意識を共有する人たちに対して、安易に「カルト」という言葉を用いてはなりません。同じように、LGBTQを否定するために、安易に「カルト」という言葉を用いることも健全ではありません。それはカルト対策にも被害防止にもなりません。

 

これまで、犯罪者や加害者に紐づけて行われてきた外国人への差別、移民への差別、障がい者への差別など、多くの差別の源には、膨れ上がる恐怖心と正義感がありました。「こういう人たちからみんなを守らなければならない」「こういう人たちの危険を知ってもらわなければならない」……そうした切迫感によって、ヘイトクライムという本来望んでいなかったはずの暴力も生まれてきました。

 

それらは、当事者がどんな世界に生きているか、どんな現実を生きているか、なぜ権利を求めて訴えているのか、偏った角度からしか見えてないゆえに、起きてきたことだと思います。大事なのは、私たちが互いのことを圧倒的に知らないという意識だと思います。

 

私たちが、正義のために、相手の訴えに反論しようとするとき、本当に相手の求めていることを正しく捉えられているか、相手の訴えを捻じ曲げて人に伝えてないか、常に自分を検証する態度を忘れずにいたいです。自分自身が揺るがされる勇気を持ちたいです。

 

[1] http://www.kirishin.com/2023/01/23/58300/ 参照。

[2] 後に「トランスジェンダーの女性」と訂正され、「オカマ」という言葉は削除された。

[3] https://trans101.jp/term/ 参照。

[4] https://trans101.jp/term/ 参照。

[5] https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/news/2019/5/13.html 参照。

[6] https://trans101.jp/term/ 参照。

[7] https://www.nexdsd.com/dsd 参照。

[8] https://trans101.jp/faq1/#q1 参照。

[9] https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/glossary/sa/7.html 参照。

[10] https://wezz-y.com/archives/91560 参照。

[11] https://wezz-y.com/archives/53907 参照。

[12] https://youtu.be/TeHeqkXR8Bg 参照。

[13] https://trans101.jp/faq1/#q1 参照。

[14] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E6%80%A7%E8%A3%85 参照。

[15] https://trans101.jp/2021/11/12/1-8/https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/news/2017/9/2.html 参照。