ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『自分を捨てる、自分を失う』 ルカによる福音書9:18〜27

日曜礼拝 2023年3月12日


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消 灯

本日は、受難節第3週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を3本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ書63:9)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌52番「主のさかえに」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆赦しと和解をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす、受難節第3週目を迎えました。この一週間も、聞くべきこと、語るべきこと、行うべきことを蔑ろにしたことを悔い改めます。どうか今、私たちの挫折に寄り添い、新しく立たせてください。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り4週間となりました。各々、新年度に向けて準備を進めながら、今年の課題を振り返っています。どうか今、私たちに、自らを顧みる勇気と優しさをもたらしてください。

◆私たちの神様。来週は、芽含幼稚園の卒園式と終業式を迎えます。今年度も、最初から最後まで、あなたが子どもたちを守り、導いてくださったことを感謝致します。どうか今、新しい出発に向けて、一人一人に必要な希望と励ましを与えてください。

◆全ての人を支えてくださる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書9:18〜27(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編107:1〜16(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の296番「いのちのいのちよ」を歌います。(お立ちください)

 

Edward LichによるPixabayからの画像

メッセージ

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」……弟子たちに、間もなく自分が死ぬことと、三日目に復活することを語ったイエス様は、その直後、彼らへこう命じました。出てくる単語やタイミングを見ても、不穏な雰囲気を感じさせます。

 

私は間もなく殺される。必ず多くの苦しみを受ける。衝撃的な予告に続いて告げられるのは、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」という言葉です。聞きようによっては、「私はもうじき死ぬけれど、一緒に来るよね?」「あなたも私と一緒に死のう」と言っているように感じます。事実、後にはこう続きます。

 

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」……自分の命を捨てること、イエス様と一緒に死ぬことを命じたようにしか聞こえない。もしこれが、どこかの宗教団体で、その集団の教祖が言ったなら、私たちは警戒するでしょう。こんなことを言い出すのは、カルトの特徴だったな……と。

 

一方で、イエス様はこうも言いました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」……弟子たちに「自分を捨てる」よう命じながら、「自分の身を滅ぼすこと」「自分を失うこと」がないようにと警告します。よく考えたら矛盾しています。自分を捨てたら、その身は滅ぶし、失われるからです。

 

さらに不思議なのは、自分の死を予告して、ついて来たい者は自分を捨てるよう、自分の命を捨てるよう命じながら、最後にこう言うんです。「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」……それは、イエス様に従う人が迎える未来に聞こえますが、やっぱり矛盾しています。

 

だって、イエス様について行って、自分を捨てたら、命を失ったら、神の国を見る前に死ぬからです。「神の国を見るまでは決して死なない」ということは、裏を返せば、イエス様に従って自分を捨てることも、イエス様のために命を失うこともできない人の姿です。イエス様を見捨てて逃げた人にしか、神の国を見るまで死なない未来はありません。

 

この箇所を読んでシンプルに、「イエス様のためなら、自分の命を捨てることも惜しまないよう勧められている」と捉えることは簡単です。実際、私たちキリスト教会は、そうやってこの話を聞いてきました。でも実は、そう単純に言い切らせない、殉教の勧めで終わらせない、言葉と言葉の間に見える、緊張が存在しています。

 

自分を捨て、自分の十字架を背負うよう命じてくる一方で、自分の身を滅ぼすこと、自分を失うことがないようにと勧めてくる。自分についてくる者へ、死を覚悟させる一方で、自分を捨てられなかった者へ、神の国を見る日を予告する。実際、この言葉を聞いた弟子たちは、誰一人、イエス様と一緒に、自分の命を失った者はいませんでした。

 

ペトロも、ヤコブも、ヨハネもみんな、イエス様のために自分を捨てて捕まることも、イエス様のために命を失うこともできず、イエス様を置いて逃げていく未来がありました。「神の国を見るまでは決して死なない」と言われた正体不明の人間も、自分を捨てられず、イエス様のために命を失うことができなかったからこそ、この後も生き延びた人でした。

 

イエス様は、弟子たちに厳しい言葉を言いつつも、自分についてこられなかった者、自分に従えなかった者を切り捨てることはありませんでした。自分の教えを理解できず諌めてきた者も、途中から裏切りを考えていた者も、「神の国でまた飲もう」と約束して、パンとぶどう酒を手渡しました。

 

敵に捕まり、みんなに見捨てられ、十字架につけられて殺された後も、復活して彼らに再会し、「わたしに従いなさい」と呼びかけました。従えなかった者を恥じるためではなく、神の国へ受け入れるために、死を超えて「あなたがたに平和があるように」と呼びかけました。イエス様は、その後も決して、弟子たちを捨てませんでした。

 

イエス様が求めた「自分を捨てる」という行為は、あなたがあなたを蔑ろにして、イエス様の教えを実践することではありません。自分で自分を死んでもいいように扱うことではありません。自分の考えを消し去ることでも、自分に価値がないかのように振る舞うことでもありません。

 

「自分を捨てる」とは、捨てられることに怯えない、新しい者になることです。イエス様についていくとき、これができないから、あれができないから、捨てられるかもしれない……と恐れないで、どこまでも自分が滅びないよう、一緒にいてくれるイエス様を信頼することです。イエス様は、あなたを失わないために、十字架にかかった方だからです。

 

あなたが捨てるべき自分は、捨てられることを恐れている自分です。私たちが、自分の犯した過ちを、自分の抱えている罪を、正面から見つめることができないのは、ダメな自分が捨てられて、滅ぼされることを恐れてしまうからです。捨てられてしまう、滅ぼされてしまう、ダメな理由を見つけることが、恐ろしいからです。

 

でも、イエス様は、あなたを捨てません。自分についてこなかった、自分を理解できなかった、自分に従えなかった弟子たちを、決して捨てなかったように、彼らと新しく出会い続けてきたように、あなたのことも捨てません。あなたとも、繰り返し、何度も出会い続けます。たとえ、あなたが拒んでも。

 

イエス様が私たちに悔い改めを求めたのは、罪悪感で従わせるためではなく、希望を持って一緒に来てもらうためです。あなたにどんな過ちがあろうとも、どんな弱さがあろうとも、あなたを捨てることはない。新しい生き方ができるよう、神の国へ迎えられるよう、イエス様は、どこまでも付き合い続けます。「私はあなたを迎えるためにやってきた」「神の国は近づいた」と。

 

信仰者が神様の前で悔い改めるのは、自分を捨てないで、新しくしてくださる方を信頼するからです。「お前は罪人だ」と言って、切り捨てる方ではないことを信じるからです。誰かを信じることが怖くても、疑うことがやめられなくても、間違ったことから離れられなくても、それを認めた瞬間に、あなたを捨てる神はいません。

 

神様は、あなたを迎えるためにイエス様を遣わしました。イエス様が十字架にかけられるまで、変わることができなかった弟子たちのように、今も変わることができなくて、悩み続けるあなたのもとにも、イエス様はやって来ます。従えなかったことを知っているのに、ついていけなかった自分を見ているのに、なお言われます。「わたしに従いなさい」

 

あなたを捨てる気はないよ、あなたを死なせる気はないよ、あなたに新しい命を与えるために、永遠の命をもたらすために、私は十字架にかかったんだ。死を超えて、あなたと再会しているんだ。神の国で、私があなたを恥じる日は来ない。あなたが神の国へ迎えられるまで、私はあなたと出会い続けるからだ。

 

いつか、私たちは、古い自分を捨てる日がやって来ます。捨てられることを恐れ、変わることを期待できなかった自分……裁きを恐れ、救いを疑ってしまう自分……そんな自分を捨てられる日がやって来ます。信じられるようになるまで、新しい自分になれるまで、何度も出会ってくださるイエス様がいるからです。

 

キリストの復活を記念するイースターまで、あと3週間。私たちにもたらされた、良い知らせを心に刻み、希望を持って、自らの罪と向き合いましょう。自分を見捨てた弟子たちを、復活の証人として、新たに送り出された救い主イエス・キリストの平和が、あなたがたにありますように。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌17番「祈れない時に」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。(お立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください)(お立ちください)

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください)(お立ちください)

 

 

聖句と主題

今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。使徒言行録26:16。

 

年間聖句

起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。

 

年間主題

華陽教会では、今年度「これからの教会を考える」というテーマで、使徒言行録26:16を年間聖句にしています。

 

今週は、来年度、洗礼を受ける予定の人、信仰の群れへ加えられる人のために、共に祈りを合わせつつ、教会全体が新しく変わっていくために、私たち自身も準備しましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。

 

讃美歌

頌栄の讃美歌26番「グロリア、グロリア、グロリア」を歌いましょう。(お立ちください)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(ルカによる福音書9:23より)

 

祝 福

主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし、あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26より)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった20名、同時に視聴された7名、計27名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週は、小牧教会と華陽教会の交換講壇として、田中郷史先生がメッセージをしてくださいます。柳本牧師は小牧教会へ行ってメッセージをしてきます。次週もぜひ、ご出席ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。