ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そんなことをしたのは……』 ルカによる福音書20:9〜19

日曜礼拝 2023年3月26日


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消 灯

本日は、受難節第5週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を5本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。(イザヤ書55:6、7b)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、旧讃美歌52番「主のさかえに」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆赦しと和解をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす、受難節第5週目を迎えました。どうか今、この一週間、気づけなかった過ちと、向き合えなかった問題に、心を向ける勇気と力をもたらしてください。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り2週間となりました。来週には、イエス様がエルサレムに入って、十字架につけられるまでの一週間を思い起こす受難週に入ります。どうか今、私たちの思いと言葉と行動を整えさせてください。

◆私たちの神様。今年度も、最初から最後まで、私たち一人一人を守り、支え、導いてくださったことを感謝致します。どうか今、新しい年も、病気や怪我から守り、心と体を回復し、共に喜びを分かち合えるように、私たちみんなを新しくしてください。

◆全ての人を導かれる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書20:9〜19 (新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編54:1〜9(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、讃美歌21の313番「愛するイェス」を歌います。(お立ちください)

 

Jill WellingtonによるPixabayからの画像

メッセージ

キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節第5週目を迎えました。いよいよ来週には、イエス様が十字架につけられるまでの一週間を思い起こす「受難週」に入ります。本日開いた聖書箇所も、神の子イエス・キリストが死んでしまう、殺されてしまうたとえ話が、本人の口から語られていました。

 

たとえ話の舞台はぶどう園です。イエス様の語るたとえ話に、ぶどう園が出てくると、聞いている人は、だいたい躓いてしまう……というパターンがありますが、今回もまた、例に漏れず、ショッキングな話が語られます。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た……」

 

聖書の中で「農園の主人」が出てきたら、基本的には「天の国の主人」である神様のことを指しています。その主人が遣わす「僕」たちは、神の言葉を預かって、人々に伝える役目を果たしてきた、歴代の「預言者」を指すでしょう。主人は、農夫たちに収穫を納めさせるため、旅先から、何度も僕を送り出します。

 

ところが、農夫たちは、遣わされた僕を袋叩きにし、何も持たせないで追い返してしまいました。それは、神様に遣わされた預言者が、人々へ何を言っても聞いてもらえず、悔い改めてもらえなかった歴史を思い出させます。さらに主人は、二度目、三度目と、別の僕を送り出しますが、農夫たちは毎回、何も持たせないで追い返してしまいます。

 

それも、袋叩きにするだけでは飽き足らず、侮辱を加え、傷を負わせて、何度も暴力を振るいます。神に背いて不義や不正を繰り返し、過ちを犯す人々へ、悔い改めて、神に立ち返るよう訴えてきた預言者が、かえって人々に命を狙われ、追い返され、傷ついてきた記憶が呼び起こされます。

 

通常、この後予想されるのは、何度、僕を送っても言うことを聞かず、主人の言葉を蔑ろにしてきた農夫たちに、裁きが下されることです。ぶどう園の主人が兵を雇って、農夫たちを捕らえ、裁判所に引き摺り出し、彼らの財産を没収して、残りの賠償金が払えるまで、奴隷として働かせることです。

 

ところが、たとえ話の主人は、予想外の言葉を口にします。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」……正直言って、ありえない選択です。3人の僕を送って、3人とも追い返され、侮辱され、傷つけられてきたんですから、どう考えても嘗められています。今更、敬う気持ちなんて期待できません。

 

せめて、護衛をつけなければ、安心して息子を送り出すことはできないでしょう。何度も自分の僕に暴力を振るってきた相手ですから、武器も従者もつけずに行かせるなんて、恐ろしいに決まっています。不安がないわけありません。にもかかわらず、主人の息子は無防備な状態で農夫たちのもとへやって来ます。

 

もし、主人が農夫たちを裁くために、罰するために、息子を送り出したなら、その手には槍や剣が握られていたでしょう。護衛や兵士が、一緒に遣わされていたでしょう。しかし、主人は本気で、彼らが息子を敬って、話に応じることを期待して、武器も兵士もつけないまま、愛する息子を送り出します。

 

不思議ですよね? 本来なら、話に応じてもらうために、努力する必要はないんです。対等に話そうとする必要なんてないんです。行って、クビにして、捕まえたらいいんです。普通はこの後、牢に入れるか、奴隷にするか、処刑するかの3択ですから、信頼してもらうために、無防備な姿を見せる必要なんてないんです。

 

逆に言えば、主人が考えたのは、その3択じゃなかったんです。つまり、この主人は、自分の言うことを聞かなかった、自分の僕を痛めつけてきた彼らのことを、まだ農夫として雇うつもりでいたんです。クビにするんじゃなくて、和解するつもりでいたんです。彼らとの関係を終わらせるためではなく、新しく続けていくために息子を送り出したんです。

 

その息子とは、まさに、神の子であるイエス様を指しています。けれども、たとえ話の農夫たちは、主人の息子がやって来ると、こんなことを言い始めます。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」……もちろん、雇われの身である農夫たちが、主人の財産を相続することはできません。ぶどう園を、神の国を、自分のものにすることはできません。

 

しかし、律法学者や祭司長たちは、自分たちこそ、神の国を受け継げる、相続できる、救いに選ばれる指導者のように振る舞っていました。この世へ遣わされた救い主イエス・キリストを殺害し、消してしまえば、今までのように、みんなの間で、権威を維持できると思っていました。

 

面白いことに、イエス様はたとえの最後をこんな言葉で締めくくります。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」……ちがいないけど、どうなったのかは明らかにしない。結末をはっきり語らない。すごくモヤモヤさせる終わり方です。

 

ここで、律法学者や祭司長たちは、イエス様が自分たちに当てつけて、このたとえを話されたことに気がつきます。たぶん、他の民衆も気がついたでしょう。イエス様が、たとえ話に続いて、建築に使われる石の話を持ち出すときは、たいてい神殿に固執する者への批判が含まれていたからです。

 

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」……当時の宗教指導者が、自分たちの権威を維持するために、捨て去ろうとしたイエス様こそ、新しい神の家、神の国の神殿を築く、重要な存在であることが、詩編の言葉を引用しながら語られます。つまり、主人の息子を殺そうとした農夫たちは、キリストを殺そうとする自分たちのことを指している、と分かってしまったんです。

 

ただ、律法学者や祭司長たちの前に「農夫たちとは、自分たちのことではないか?」と思い、彼らが殺されるに違いないと聞いて、ぶどう園を他の人たちに与えるだろうと聞いて、「そんなことあってはなりません!」と叫んだ人たちがいました。それは、イエス様の話を聞いていた弟子たちや民衆です。

 

考えてみれば、天の国の主人である神様の遣わした預言者を、何度も拒絶し、言うことを聞かず、追い返してしまったのは、イスラエルの民全体の姿です。3人どころか15人以上、預言者の言うことに耳を傾けず、追い返してきた歴史を持っている自分たちは、どうなってしまうのか? 天の国の主人に殺されてしまうのか?

 

もし、そうなったら、ぶどう園を、天の国を、神様から与えられる「ほかの人たち」とは、いったい誰のことなのか? まさか、自分たちユダヤ人を支配するローマ帝国や他の国の異邦人のことか? 今まで敵だった人たちが、自分たちの代わりに神の国を受け継ぐのか? そんなことあってはなりません! 思わず叫んでしまう人々の姿が見えてきます。

 

あるいは、「そんなことあってはなりません!」と叫んだ人たちは、農夫たちが殺されることに対してではなく、主人の息子が、神の子であるイエス様が、殺されてしまうことを否定したかったのかもしれません。しかし、「そんなこと」をこの後起こすのは、他ならぬ弟子たちと民衆です。

 

彼らの中の一人が裏切り、他の全員がイエス様を見捨てて、民衆は皆、祭司長や律法学者に扇動されるまま「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」と叫んで、イエス様を死に引き渡してしまいます。実は、このたとえ話の前半は、それから間もなく、本当に起きてしまったことでした。

 

必然的に、問いかけなくてはなりません。たとえ話で明らかにされなかった、はっきり語られなかった農夫たちの結末は、どうなったのか? 預言者を追い返してきたイスラエルの民は、祭司長や律法学者に扇動されてイエス様を殺してしまった人々は、どうなったのか? 「殺されるに違いない」と言われたとおり、殺される結末が待っていたのか?

 

私たちは知っています。普通なら、殺されるに違いないけど、誰も殺されなかったことを……主人の息子を、神の独り子を、その手にかけた人々へ、なお、復活した神の息子が遣わされたことを……「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」……そんな期待を、信頼を、私たちに持ち続けている方がいることを。

 

あってはならないことをした者に、ありえない未来をもたらす方が、私たちのもとへやって来ます。イエス様が死者の中から復活し、自分を追い出した者たちと再会し、「あなたがたに平和があるように」と告げられたイースターまで、あと2週間……今も、あなたを信頼し、あなたと新しく出会われる、イエス様を迎える準備をしていきましょう。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌17番「祈れない時に」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。(お立ちください)

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください)(お立ちください)

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください)(お立ちください)

 

 

聖句と主題

今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。使徒言行録26:16。

 

年間聖句

起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。

 

年間主題

華陽教会では、今年度「これからの教会を考える」というテーマで、使徒言行録26:16を年間聖句にしてきました。

 

今週は、教会学校、オリーブの会、ヒラソルの会、それぞれの今後について、良い道が開かれるように祈り、来年度どうしていくか、共に考えていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。

 

讃美歌

頌栄の讃美歌26番「グロリア、グロリア、グロリア」を歌いましょう。(お立ちください)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。(ヨエル書2:12、13a)

 

祝 福

主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし、あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26より)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、小牧教会と華陽教会の交換講壇として、田中郷史先生が来られ、教会に集まった24名、同時に視聴された6名、計30名が参加されました。

 

後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。来週は、棕櫚の主日の日曜日として、愛餐式を行います。その次のイースターには、洗礼式と聖餐式を行います。

 

ぜひ、病気や怪我をしている人が癒やされ、みんなで喜びを分かち合えるようにお祈りください。また、受洗志願者のためにお祈りください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。