ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『聞けるはずないのに』エゼキエル書37:1〜6、使徒言行録2:1〜11

日曜礼拝 2024年5月19日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネによる福音書14:18)

 

讃美歌

旧讃美歌の81番「めぐみのひかりに」を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆聖霊の送り手である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は、イエス様の弟子たちが聖霊を受け、世界各地で伝道して、教会が作られていったことを記念するペンテコステを迎えています。どうか今、あなたの平和が実現し、あなたの栄光が現されるように、私たちも新たに立たせてください。

◆私たちの神様。爆風が、爆音が、炎が燃え上がっている戦場に、天からあなたの助けがありますように。どうか今、敵を恐れて閉じこもっていた弟子たちに、聖霊がもたらされたように、戦場にいる子どもたちや市民にも、救いがもたらされますように。

◆私たちの神様。言葉が通じないところで、孤独を覚えている人も、自由に外へ出て行けず、気力を失っている人も、変化と回復をもたらす新しい風を感じることができますように。どうか今、全ての人に、あなたの息を吹き入れてください。

◆一人一人に言葉を与える、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。エゼキエル書37:1〜6、使徒言行録2:1〜11(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編104:24〜30(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

讃美歌21の341番「来たれ聖霊、わが主」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

JürgenによるPixabayからの画像

メッセージ

 キリストの復活を祝うイースターから50日目、弟子たちに聖霊が送られたことを記念するペンテコステを迎えました。この日、弟子たちはイエス様が姿を消してから、10日目の朝を迎えていました。イエス様は、十字架にかかって死んだ後、3日目に甦り、40日にわたって人々の前に姿を現してくれましたが、ずっと一緒に居てはくれませんでした。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」そう言い残すと、弟子たちが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなりました。そこから10日間、弟子たちは一つになって、家の中で祈っていました。

 何を祈っていたんでしょう? イエス様が約束した聖霊を待って、聖霊を早く受けられるように、祈っていたんでしょうか? それとも、イエス様自身が、天から地上へ戻ってくるように、早く帰ってきてくれるように、祈っていたんでしょうか? 私は後者じゃないかと思います。

 使徒言行録の冒頭を見ると、弟子たちはイエス様が離れ去って行かれるとき、何の準備もできていないようでした。呆然と、天を見上げて立っていました。別れの言葉も、感謝の言葉も送れません。イエス様が、父なる神の右の座に、天の王座に着かれるとき、弟子たちは地上で固まったまま、何もできませんでした。

 そこから10日間、彼らはイエス様の母マリアやイエス様の兄弟たち、一緒に仕えていた女性の弟子たちと集まって、熱心に祈りを合わせていました。せっかく生き返った息子がいなくなり、一人にされた母親が、弟子たちと何を祈るのか? 答えは決まっています。息子との再会です。約束された聖霊よりも、イエス様との再会で頭が一杯だったでしょう。

 弟子たちだって同じです。彼らは天の使いにこう言われました。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」……これを聞いたら、自分たちに聖霊が降る約束よりも、イエス様が再び来られる日のことで、頭が一杯になるでしょう。

 イエス様、早く帰ってきてください。天から降りて来てください。何を聞けばいいか、何を語ればいいか、何を行えばいいか、話しに来てください。直接姿を現して、この国を建て直してください。病人を癒し、悪人を裁き、貧者にパンをもたらしてください。私たちはあなたがいないとダメなんです。

 そう、弟子たちは、イエス様が天に上げられるとき、見送る準備ができていませんでした。さらにその後、イエス様から約束された聖霊を受ける準備さえ、十分できてはいませんでした。彼らの祈りは、閉じこもる自分のもとに、助けが来てくれることを待つもので、自分自身が遣わされ、語らされる用意なんて、誰もできていなかったんです。

 だって、そうでしょう? 聖霊を受けるということは、何も言えなかった自分が何かを語らされ、何もできなかった自分がどこかへ送り出されるということです。奏楽者を欲して待っていた人が、オルガンを弾くようになる。子どもたちに来てほしいと待っていた人が、教会学校のスタッフになる。牧師が来るのを待っていた人が、神学校へ通い始める。

 それくらい、自分から願えないことです。弟子たちも、人々に福音を、良い知らせを伝えるために求めていたのは、イエス様が再び来てくれることでした。自分自身が、イエス様の教えと業を語るため、人々の前へ遣わされるのは、簡単には願えないことでした。聖霊を受けるということは、怖くて行けなかったところへ、行く者になるということです。

 さあ、皆さんは聖霊を求める祈りができるでしょうか? 「御心のとおりになりますように」「神様の望んだとおりになりますように」と、自分を送り出す“霊”を受け入れることができるでしょうか? けっこう難しいですよね? 私だって「御心のとおりになりますように」と祈ることは未だに恐ろしく感じます。

 神様が私に何をさせようとしているのか、どんな道を歩ませようとしているのか、不安だからです。教えることは苦手です。人前で話すのは怖いです。ストレスに強くありません。信仰に自信がありません。そんな私に、どこで、何を、どのように語らせようとするのか、分かったもんじゃありません。聖霊を求めるって、私からなかなかできません。

 でも、イエス様は弟子たちに送った聖霊を、私にも送ってくださいます。聖霊を受ける準備のない、自分から求められない私にも、毎週、語る力をくださいます。この方は、私たちが受け取れなかったはずのものを、受け取らせてしまうんです。最初に読んだ、エゼキエル書37章には、神様が預言者に向かって、次のように命じていました。

 「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け」「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」……いやいや枯れた骨に語りかけても、答えられるはずありません。死んでから何年も経って、耳も鼓膜も腐っています。

 枯れた骨には、「わたしを生き返らせてください」と求めることもできません。神様が吹き込む霊を求めて、受けとめる準備はできません。ところが、神様はこの骨に、声を届かせてしまいます。聞けるはずなかった言葉を聞かせ、生き返らせてしまいます。答えるはずのなかった、立ち上がるはずのなかった者を、歩き出させてしまうんです。

 たとえ、私に受けとめる準備がなくても、神様は、私の乾いた骨に筋をおき、肉をつけ、皮膚で覆って、霊を受けとめる準備をさせてくださいます。皆さんが今、聖霊を求めることができなくても、どのように祈ればいいか分からなくても、新しい生き方をもたらす聖霊は、必ずあなたの中に吹き入れられます。

 五旬祭の日、聖霊を受けた弟子たちのもとへ集まってきた人々は、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞きました。それは、ガリラヤ出身の弟子たちには、話せるはずのない言語でした。パルティア、メディア、エラムから来た者も、メソポタミア、ユダヤ、カパドキアから来た者も、弟子たちが自分の故郷の言葉で話しているのを聞きました。

 実は、これらの故郷の言葉は、弟子たちが「話せるはずのない言葉」であると同時に、その時代、その場所では、誰も、自分の故郷の言葉として「聞けるはずのない言葉」でした。なぜなら、ここに出てくる地名には、もうなくなった地域の名前や、もう滅ぼされた民族の名前もあったからです。

 その時代、エルサレムで、弟子たちの言葉を聞けるはずのない人たちが、自分の故郷の言葉で、イエス様の教えと業が語られるのを聞きました。それこそ、自分から求めて聞くことはできません。過去の人間が、もう消滅した人々が、イエス様を知らないはずの人たちが、聖霊によって語らされる言葉を聞いたんです。

 神様は、あなたが聞けるはずのない言葉を聞かせ、受けられなかったものを受けさせ、自分から求めることさえできなかった、新しい道を歩ませます。枯れたまま、傷ついたまま、閉じこもったままにさせません。今も、これからも、私たちを戸惑わせ、驚かせながら、救いの道を実現されます。

 主は言われます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるのか?」……私たちはもう知っています。枯れた骨は生き返ります。霊のなかった者は吹き込まれます。倒れていた者は自分の足で立つようになります。あなたもその一人です。私自身がその証人です。あなたもキリストの証し人として、行きなさい。

 

讃美歌

オンライン賛美歌3番「閉じこもる私たちに」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

愛 餐

本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。御着席のままで大丈夫です。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

配 餐

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。

 

本日、礼拝に来られているお子さんや学生も、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。係の方は、前へお越しください。(パンと水を配る)

 

分かち合い

ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

神様、今日も、みんなで御言葉を分かち合えたことに感謝して、献金をおささげします。どうか今、あなたの求めることに使えるよう、私たちを導いてください。私たちの隣に、前に、後ろにおられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。(エゼキエル書37:12b〜d)

 

祝 福

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きを、わたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。(詩編67:2〜3)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった20名、同時に視聴された3名、計23名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の三位一体主日の礼拝は、『信仰の戦い?』と題して、イザヤ書40:12〜17とテモテへの手紙一6:11〜16のお話をします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。