日曜礼拝 2024年6月2日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙5:5)
讃美歌
旧讃美歌の81番「めぐみのひかりに」を歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆力の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。先週は、日曜日の礼拝後、10数年ぶりに飛騨高山教会へ集まって、岐阜地区の総会を持つことができました。どうか今、隠退された大塚信明先生と、新しく就任された白砂誠一先生と、飛騨高山の会衆の上に、あなたの豊かな恵みがありますように。
◆私たちの神様。地区、教区、教会の総会を終え、今年度の歩みがいよいよ本格的にスタートします。どうか今、新たに取り組もうとしていること、続けて向き合っていること、一つ一つを誠実に進めていけるよう、私たちみんなを導いてください。
◆私たちの神様。久しぶりに会えた人たちがいる一方、教会に来ることが困難になり、なかなか顔を合わせられない人が増えています。どうか今、ここへ来られるように、私たちが会いに行けるように、必要な知恵と力をもたらしてください。
◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。申命記6:17〜19、ローマの信徒への手紙10:5〜17(新共同訳より抜粋)
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編29:1〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の433番「あるがままわれを」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
メッセージ
ローマの信徒への手紙が書かれた頃、宛先の教会には、ユダヤ人でない異邦人と、ローマ市内から追放され、再び戻ってきたユダヤ人が集まり、一緒に礼拝していました。ユダヤ人たちが、一度ローマを追い出されたのは、イエス・キリストを救い主と信じるユダヤ人と、そうでないユダヤ人との間で、激しい抗争が起きたからです。
当初、皇帝から退去を命じられたユダヤ人は、コリントやエフェソに移りましたが、一部のユダヤ人は、しばらく経ってから、もう一度ローマに戻ってきました。つまり異邦人である多くのローマ市民にとって、戻ってきたユダヤ人は、自分たちの国で騒動を起こした厄介者でもありました。
当然、追放後に戻ってきたユダヤ人は、住む場所や仕事に困ったでしょう。色んな人の好意に頼らなければ、そこで生活することはできません。周りの警戒を解かなければ、伝道することもままなりません。自分たちは決して、悪戯に騒動を引き起こすような厄介者ではないんだと、必死に、信頼を得ようとしたでしょう。
そんな中、「私たちはちゃんとしている」「悪いユダヤ人ではない」と証明するために、彼らが取れた行動は限られていたと思います。社会のルールに違反せず、倫理的に正しい行動をし、自他共に「あの人はちゃんとしている」「いい加減な人じゃない」と認められる必要がありました。
おそらく、ローマ市内のユダヤ人は、ルールを守ること、掟を遵守することに、相当気を遣ったんじゃないかと思います。再び、教えの解釈をめぐって、ユダヤ人同士で争ったり、仲間同士でトラブルを起こして、「やっぱり、あの人たちはちゃんとしていない」「また騒動になるんじゃないか?」と噂を立てられたら、今度こそ居場所がありません。
だからこそ、ローマの教会にいるユダヤ人は、できる限り、他のユダヤ人と衝突しないよう、昔から守られてきた律法をしっかり守ろうとしたのかもしれません。ここで、他のユダヤ人から「彼らは律法を蔑ろにした」「あの人たちはちゃんと掟を守らせない」と攻撃される隙を作れば、再び抗争に発展してしまいます。
けれども、ユダヤ人同士で詰められないよう、彼らの掟である律法を遵守しようとすれば、もともと律法を知らなかった、異邦人とのギャップが開いていきました。異邦人同士は、律法で定められた、食べ物や暦の規定に反しても、お互いに責めることはなかったため、律法に強くこだわる人はそんなにいませんでした。
逆に、もともと知らなかった律法を、無理やり守らせようとする方が、争いの種になりました。もちろん、同じ神様を信じるようになった、ユダヤ人でない異邦人も、神様から与えられた掟をよく学び、きちんと守ろう……という思いはあったでしょう。教会に初めて来た人や、キリスト教に関心を持った人たちも、守るべきルールがあるか気にされます。
何をしてはならないか? 何をしなければならないか? 従うべきことがあるなら知っておきたい。できるだけ、それらを守って、正しく生きたい。実際、神様からの律法授与を記した申命記にも、こう書いてありました。「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい」
もし、命じられた掟を守らなければ、神様の目から見て、正しいことを行わなければ、幸いを得ることができないんじゃないか? 天の国、神の国へ入ることが、かなわなくなるんじゃないか? そんな不安に襲われます。正しい生き方ができないまま、間違った生活をしたままで、神様に受け入れられると思う方が難しいでしょう。
とはいえ、現代を生きる私たちが、聖書に書かれた掟をそのまま守ることが難しいように、ローマに住んでいた異邦人のキリスト教徒にとっても、ユダヤ人が守ってきた律法をそのまま守ることは、困難なことでした。安息日に必ず仕事を休んで礼拝に出る、仮庵祭や過越祭に家族と決められた食事をする、異教の神を祀った祭儀に参加しない……。
かつてのローマ社会で、これらをきっちり守っていれば、仕事に困り、親戚から非難され、周りとの関係を築くことも難しくなったでしょう。もともと、日曜日に仕事があった人、家族が同じ信仰を持っていない人、町内会や自治会の関係で祭りに参加させられる人……その人たちが、掟を守って正しく生きたいと思っても、そう簡単にはいきません。
しつこく掟を守るよう言って、日曜日に仕事が入る職場を辞めさせ、家族に洗礼を強要させ、町内会や自治体の祭りに関わらないよう促しても、その社会で、慈しみ深い神様を証しすることはできないでしょう。むしろ、生活を壊し、関係を崩す掟を強制する、暴君のような神様を証しすることになるでしょう。
でも、どうすれば救われるか? 神様から恵みを受けられるか? あるいは、どうすれば天国へ行けるか? 底なしの淵、陰府の国、地獄へ下らなくて済むか? 私たちは考えずにはいられません。正しく生きて、神様に受け入れられるように、どういう掟を、どのように守ればいいか、追求します。
「これを守らなきゃダメ!」というはっきりしたもの、「これさえ守れば大丈夫!」というラインになるものを探します。何をしていれば、ちゃんとした人間と認められ、天へ昇ることができ、何をしなければ、いい加減な者と裁かれて、底なしの淵に下るのか、常に気にしてしまいます。
しかし、信仰による義、信仰による正しい生き方について、手紙を書いたパウロはこう言いました。「心の中で『だれが天に昇るか』と言ってはならない。」「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」……イエス様は、私たち全てを救うために、天の国へ迎え入れるために、神の国へ昇っていきました。
イエス様は、私たちの中から誰一人、陰府の国に取り残さないため、底なしの淵へ下っていきました。正しい生き方とは、この方に信頼することです。私と私の隣人たち、人生に関わる全ての者が、神の国に受け入れられるまで、時を超え、場所を超え、死を超えて新しい生き方をもたらす方が、付き合い続けてくださいます。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」……日曜日、教会に来ることができず、毎週礼拝に参加できない人は、御言葉から離れているわけではありません。御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にあるんです。あなたが神様を呼び求めるなら、神様はあなたの傍に来られ、あなたの心に住まわれます。
一方で、より自信がない人もいるかもしれません。「主の名を呼び求める人は、だれでも救われる」……そう書いてあるけれど、私は本当に、神様を呼び求めているんだろうか? 礼拝へ来たいという思いが、だんだん失われている。聖書を開くことが、徐々に少なくなっている。神様に祈ることさえ、最近できなくなっている。
実は、「主の名を呼び求める」って、それ自体、できていることが当たり前ではないんです。律法を授与されたユダヤ人も、敵に攻められ、苦しみに襲われる度、神様に助けを求めて叫びましたが、だんだん、それさえできなくなっていきました。イエス様に病を癒され、悪霊を追い出された人の中にも、自分から助けを呼べなかった人たちがいます。
そもそも、ローマの信徒への手紙を書いたパウロだって、イエス・キリストを呼び求めたから、この方と出会えたわけではありません。むしろ、彼はイエス様を神の子と知らず、知ろうとせず、呼び求めるどころか迫害していました。彼が、イエス様を呼び求めるようになったのは、イエス様の方から訪れて、信じて従うよう、呼びかけたからです。
他の弟子たちも、自分からイエス様の弟子にしてくださいと言ったのではありません。イエス様の方から呼びかけられて、キリストの弟子となりました。最初からずっと、どんなときにも、イエス様を呼び求めたのではありません。呼べなかった者が、呼べるようになっていったんです。
そう、手紙にも書いてあるように「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」のです。あなたが今日、キリストによって語られた、この言葉を聞いているなら、既に、「主の名を呼び求める者」として、新しい生き方が与えられています。御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心に入っています。
どうか、あなたに語り続ける声を聞いてください。あなたに出会い続ける方を見てください。あなたを新しくし続ける方を信じてください。あなたの心が信仰に満たされ、あなたの口がキリストを証しする日がやって来ます。今や、それは芽生えています。ここに、今ここに……アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌6番「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
聖 餐[1]
御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。
讃美歌
最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)
主の食卓への招き
兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」
また、食事の席で、主は約束されました。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」
主は、弱っている者を励まし、閉じこもっている者を力づけ、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。
感謝と聖別の祈り
世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。
主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。
私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。
陪 餐
ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。
まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)
オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。
(パンを手に取る)
これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」
「アーメン」
食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。
(杯を手に取る)
これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」
「アーメン」
飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。
陪餐後の感謝
共に、感謝の祈りをささげましょう。
愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。
あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマの信徒への手紙10:9)
祝 福
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。(ヘブライ人への手紙13:20〜21)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった20名、同時に視聴された8名、計28名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の花の日こどもの日礼拝は、『結ばれてほしいけど』と題して、サムエル記上1:19〜28とヨハネの手紙一2:22〜29のお話をします。よかったら、お家から1本でも、1束でも、教会に飾るお花をお持ちいただければ嬉しいです。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。
[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。