日曜礼拝 2024年6月23日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。(ヨハネによる福音書4:36)
讃美歌
旧讃美歌の81番「めぐみのひかりに」を歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆正義と公正をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。先週も、一人一人の嘆きや叫び、思いや訴えを聞いてくださり、ありがとうございます。どうか今、悩みと苦しみを抱える一人一人に、あなたの慰めが、豊かにありますように。新しい道と頼れる隣人が遣わされますように。
◆私たちの神様。今週も、疲れている人に癒しが、傷ついている人に回復が、孤立している人に助けが与えられますように。どうか今、私たち自身も必要なとき、必要なところへ遣わされ、互いに支え合うことができますように。
◆私たちの神様。今日は午後から、名古屋中央教会で、竹内款一先生の就任式が行われます。どうか今、新しく赴任された先生と、牧師を迎えた会衆の上に、あなたの恵みが豊かにありますように。中部教区の交流が、ますます豊かにされますように。
◆私を招いてくださった、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ヨナ書3:3〜10、エフェソの信徒への手紙2:11〜22(新共同訳より抜粋)
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編126:1〜6(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の409番「すくいの道を」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)
メッセージ
「敵を愛しなさい」という言葉があります。イエス様が、弟子たちに教えた言葉です。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」……こういった教えを聞いていると、敵意を持つこと自体が、駄目なことのように感じてきます。
イエス様から直接、この言葉を聞いた弟子たちにとって、群衆にとって、敵意を持つ相手とは誰だったんでしょう? それは、自分たちの国を占領し、イスラエルを支配していた異邦人、ローマ帝国の人間だったかもしれません。あるいは、ローマ帝国の傀儡であった、ヘロデ王とズブズブの関係を持つ、神殿の祭司長たちだったかもしれません。
もしくは、献げ物を規定どおりにささげられない者、安息日を規定どおりに守れない者、病気が治らない者、障害がある者を「罪人」として厳しく断じたファリサイ派、律法学者だったかもしれません。イエス様も、これらの人々から、度々攻撃を受けました。病人を癒し、大胆に教えを語り、注目が集まるイエス様に、嫉妬と憎しみがぶつけられました。
そんなとき、イエス様は、一切敵意を見せることなく、相手を否定することなく、対立しないように、優しい言葉だけかけたんでしょうか? 実は、そういうわけではありません。イエス様とサドカイ派、祭司長、ファリサイ派、律法学者が敵対するシーンは、けっこう、あちこちに出て来ます。イエス様からも容赦ない、非難と批判が浴びせられます。
また、イエス様は、神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返し、怒りを露わにされたこともありました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と……もう、敵意むき出しですよね?
そんなエピソードを振り返っていると、エフェソの信徒への手紙に出てくる言葉の意味も、一筋縄では捉えられません。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました……」
敵意という隔ての壁……イエス様と人々の間にも、それがなかったわけではありません。イエス様の言葉を拒絶し、立ち去った人もいれば、イエス様自身が、誰かのために憤りを見せ、ぶつかったこともありました。一方で、対立していた関係であるにもかかわらず、イエス様は、祭司長たちやサドカイ派のいる神殿へ行くのを、決してやめませんでした。
山でも、湖でも、どこでも人がついてくるのに、多くの人が集まってくるのに、イエス様は、自分に敵意をむき出しにする彼らのもとへ、訪れるのをやめません。また、イエス様を貶めようと、何度も罠をしかけるファリサイ派にも、家に招かれては食事をし、対話するのをやめませんでした。
律法学者とも、何度も衝突する一方で「あなたは、神の国から遠くない」と認め合うこともありました。思い返せば、イエス様と様々な人との間には、何度も敵意が生まれていましたが、その敵意が、放置されたことはありませんでした。イエス様は衝突することを恐れ、言い合いになることを恐れ、敵との関係を断つ方ではありませんでした。
むしろ、あきらめずに出会い続け、語り続け、声を聞き続けていました。関係を築く、時間と労力を惜しみませんでした。弟子たちの裏切りに遭い、群衆から掌を返され、自分を十字架につけろと叫ばれたときも、その敵意を正面から受けとめ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」ととりなしました。
この時も、群衆からのイエス様への敵意は消えていません。異邦人の兵士からのイエス様への敵意も残っています。しかし、イエス様が十字架で息を引き取った瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、岩が裂けるほどの地震が起こります。全地は暗くなり、太陽が光を失います。人々の口からも声が失われ、胸を打ちながら帰っていきます。
嘲笑う声、蔑む声、侮辱する声が聞こえなくなり、沈黙のときが訪れました。「本当に、この人は神の子だった」「本当に、この人は正しい人だった」という言葉がポツリと聞こえて来ます。しかし、正しい人を殺してしまった、神の子を十字架にかけてしまった人々の悲鳴や断末魔は続きません。
「十字架につけろ」と言った自分に、「殺せ、殺せ」と叫んだ自分に、独り子を殺された神様から、雷が落とされてもおかしくないのに、何も起こりません。ユダヤ人も、異邦人も、互いに顔を見合わせながら、何も言えずに帰っていきます。なぜ、私は無事なんだろう? なぜ、神から敵意をぶつけられないんだろう?
それはまさに、イエス様が、十字架の上で敵意を滅ぼされたからでした。彼らとぶつかって、十字架につけられた後も、関係を終えることなく、復活して和解する道を作ったからでした。自分を信じなかった者も、見捨ててしまった者も、十字架にかけてしまった者も、イエス様と再会し、和解する道が作られます。
この方は、敵意をそのままにして、隔ての壁をそのままにして、私たちを置いていく方ではありません。もうどうしようもなくなった私たちのもとへ、戸に鍵をかけていようと、閉じこもっていようと、部屋の真ん中に現れて、新しい関係を築いてくださいます。どんなに衝突しても、私たちから離れないで、新しく出会い続けてくださいます。
そう、「敵意を滅ぼす」というのは、最初から敵意を持たないよう、相手に踏み込まないことではないんです。イエス様は、私たちの中へ踏み込んで来られます。見られたくなかったものも、触れられたくなかったものも、互いに晒し合える関係を、根気よく築いてくださいます。
簡単には敵意を手放せない私たちにも、平和の福音を、良い知らせをもたらして、一緒に住まう者へと変えてくださいます。今はまだ、期待さえできない平安も、和解の道も、死を超えて実現される方が、あなたを引っ張ってくださいます。安心して、この方にぶつかり、訴え、願いなさい。既に、キリストはあなたの家族だからです。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌6番「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
聖句と主題
御着席ください。新年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」
年間主題
華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章18節を今年度の年間聖句にしています。
今週は、7月のリードオルガンミニコンサートや、幼稚園と教会で行う同窓会&夏祭りに向けて祈りを合わせ、地域の人との交流が豊かになるよう、準備を進めていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。今から後、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。(エフェソの信徒への手紙2:17)
祝 福
平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。(ローマの信徒への手紙15:33)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった15名、同時に視聴された8名、計23名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜礼拝は、『死なないうちに』と題して、ヨハネによる福音書4:46〜54と使徒言行録9:36〜43のお話をします。なお、来週は礼拝後、会堂大清掃を行うので、お手伝いいただける方は椅子の移動やワックスがけなど、ご協力よろしくお願いします。
ワックスを乾かしている間、パンをお出しする予定です。また、7月28日(日)の午後2時〜3時にリードオルガンミニコンサートが開かれます。予約や入場料は不要ですので教会を覗いてみたい方はぜひ、フラッとお立ち寄りください。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。