ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『霊によって判断できる?』コリントの信徒への手紙一2:11〜3:9

日曜礼拝 2024年8月11日


www.youtube.com

 

説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

では、知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない。(ヨブ記28:12〜13)

 

讃美歌

讃美歌二編の188番「きみのたまものと」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆愛と平和の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。この一週間も、あなたによって守られたこと、恵みを与えられたこと、癒しがもたらされたことを感謝致します。どうか今、引き続き、私たちに手を伸ばし、私たちの隣人に、希望を分かち合えるよう、ここから出発させてください。

◆私たちの神様。未だ止まらない戦争や紛争、弾圧や迫害に、平和的な解決がもたらされますように。差別や偏見があるところに理解と解放が、事故や災害があるところに連帯と回復がもたらされるよう、私たちを互いに遣わしてください。

◆私たちの神様。来週は、牧師の夏期休暇のため、隠退教師の鈴木重正先生が、メッセージをしてくださいます。どうか今、鈴木先生と奉仕者の上に、また、会衆一人一人の上にあなたの恵みと聖霊が、豊かに注がれますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙一2:11〜3:9(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

www.bible.or.jp

交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編15:1〜5(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の386番「人は畑をよく耕し」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Clarissa VanniniによるPixabayからの画像

メッセージ

 「霊的である」とはどういうことか、よく考えさせられます。普通の人には分からないことが分かるようになる。見えなかったものが見えるようになり、聞こえなかったものが聞こえるようになる。神聖な力を感じられるようになり、危険を察知したり、危機を回避するための選択が示されるようになる。

 そういったイメージが、一般に広がっているかと思います。中には、超常現象を起こしたり、見えない敵、「悪魔」や「悪霊」と戦う力があることを「霊的」と表現する人もいるでしょう。人間の力で、対処できないもの、通用しないものがあっても、霊的な力で対応できる、解決を得ることができる……と言われたら、いくらか安心しますよね。

 でも、「霊的である」「神の霊を受けている」って、私たちが思うほど、都合の良い便利な状態ではありません。神の子イエス・キリストが、洗礼者ヨハネからバプテスマを受け聖霊に満たされて帰ったあと、悪魔から40日間、誘惑を受けた話がありました。聖霊に満たされた直後なのに、悪魔につきまとわれてしまう。

 しかも、霊的な力で追い払う、奇跡の力で勝利する記述はありません。イエス様は悪魔の誘惑に対し、「聖書にはこう書いてある」「神様はそんなこと望んでない」と、私たちが自分へ言い聞かせるのと同じように、悪魔へ言い聞かせるだけでした。何か、聖句を唱えたら、呪文のように、悪魔が苦しんで、退散するわけでもありませんでした。

 間違いなく、聖霊に満たされた、霊的な状態であるにもかかわらず、悪魔の誘惑でイエス様の見せた姿は、なかなか「霊的」に見えません。また、聖書に登場する「神の人」「神の霊を受けた人」は、危機を回避するどころか、危機に直面していました。預言者はたいてい殺されかけ、神に背いた人々を、悔い改めさせることができません。

 聖霊を受けたイエス様の弟子たちも、逮捕され、投獄され、乗せられた船は嵐に遭い、難破してしまうこともありました。霊に導かれ、遣わされた宣教地で、一人も仲間にできないまま、立ち去ったこともありました。霊的であれば、霊に満たされていれば、そういう状況にもめげず、平静を保って、活動できたかというと、そうでもありません。

 コリントの信徒への手紙をはじめ、ガラテヤの信徒への手紙や、ローマの信徒への手紙など、神の霊に導かれ、数々の手紙を残してきたパウロは、その手紙の中で、かなり激しい口調で、怒っている様子も見られます。特に、コリントの教会では、多くの論争が生じており、パウロも攻撃にさらされたため、穏やかでない表現が多々見られます。

 ところどころ、癇癪を起こしたような文章や、人格否定に見える表現が、自分を批判する人たちへ向けられていました。何なら、旧約聖書でも、霊に満たされて、預言する状態になった人が、激しく憤ったり、衣を裂いたりして、暴れ回る様子が出てきました。どうも「霊的である」って、私たちが期待する「理想的な姿になれること」ではないようです。

 むしろ、神の霊を受けた人たちは、私たちが「霊的な姿」として想像するのと、違う姿もよく見せます。怒りや悲しみから解放されて、平静が保てる姿のことを、霊的な状態として期待していたら、神様に対して泣き叫び、灰を被って、嘆く姿が出てきます。霊的であるということは「あなたの理想像」と一致するわけではないんです。

 同時に、霊によって示されることは、たいてい受け入れるのが難しい、私たちに不都合なことが含まれました。使徒言行録では、イエス様から聖霊を受け、神様に幻を見せられたペトロが、当時「清くない物」「汚れた物」とされていた動物を「屠って食べなさい」と命じられます。

 それらはかつて、神様が人々に与えた掟、律法によって「食べてはならない」とされたもので、食べたら祭儀的に汚れ、礼拝に参加してはならない状態になる、と教えられていました。日本でも、神職の一部が、祭りの前に、肉や魚など特定のものを口にしたら霊的な力が失われ、ふさわしくない状態になるという考え方がありますよね。

 ペトロにとっても、「霊的な状態を保つこと」とは相反することに見えたでしょう。彼は「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言って抵抗します。しかし、神様は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言って、抵抗するペトロに三回も、「屠って食べなさい」と命じます。

 聖霊が降ったら、霊によって教えられたら、すぐに、それが受け入れられるわけでも、納得できるわけでもないことが、赤裸々に告白されていました。ペトロに命じられたことが「聖霊によって教えられた」と聞かされても、「それは、本当に神の霊が言ったのか?」「霊的な教えに聞こえない」と、すぐには判断できない人も多かったはずです。

 実は、外から見て、ある人が霊的かどうかって、人間の目で判断できるものじゃないんです。私たちの想像する「霊的な姿」と、実際に「神の霊が降った姿」は、必ずしも一致しません。「霊的でない」と思っていた姿が、実は、「霊に満たされた」姿であることも、往々にしてあるんです。

 伝道のため、日曜日の礼拝や、聖書研究祈祷会のメッセージを発信していると、他にも同様に、一生懸命、聖書の言葉を伝えている人たちと出会います。けれども、同じ伝道をしている人たちに対し、「あの人は聖霊を受けている」「あの人は聖霊を受けてない」と、どの牧師が、霊的か、霊的でないかを、判断する人たちが現れます。

 パウロが手紙を書いたコリントの教会でも、「パウロは霊を受けてない」「アポロは霊を受けている」「いいや、パウロの方が霊を受け、アポロは霊を受けてない」と、判断する人たちが出ていました。同じ宣教者相手でも、自分が霊的と思うか思わないかで、報酬を与えるかどうか、決めようとする人たちがいました。

 パウロはそれに対し、「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」と言って、自分やアポロが、霊を受けているか、受けていないか、判断を下そうとする人に、それ自体、間違った態度であることを伝えています。「わたしたちは神からの霊を受けました」と宣言し、自分もアポロも、同じ神様に仕える者だと訴えます。

 私もよく、聖書研究祈祷会で、誰に霊が降っているか、誰が聖霊を受けているか、安易に判断することは、褒められたことではありません、と話しています。もし、コリントの教会と同じ状態に陥っているなら、誰が霊を受けているか、誰が霊的な人間か、自分たちの目で評価しようとしていたら、その態度こそ、霊の人から程遠い、肉の人の歩みです。

 「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」……けっこう痛烈に、この言葉が響いてきます。大切なのは、神様に与えられた使命のため、信仰のために、力を合わせて働くことで、目に見えないものを理由に、ねたみや争いを起こすことではないんです。

 けれども、神の霊が降っていれば、自分自身が、聖霊に満たされていれば、他の人に、霊が降っているかどうかを判断できる、霊が降っていない人を批判できる、と思われるかもしれません。しかし、パウロは、「霊の人」とは言い難い、「肉の人」と言わざるを得ない人たちに、鞭や棒を打つのではなく、乳飲み子と接するように語りました。

 「あなたは霊を受けていないから、聖霊が降ってないからダメ」と不安を煽り、脅して追い詰めるのではなく、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と言って、神様の実りがもたらされる、神様が宿られる者であることを、繰り返し語っていきました。私は霊を受けているのか、霊によって判断できるか、分からない、と落ち込む必要はありません。

 むしろ、神の霊は、あなたが判断したいものを判断させてくれるわけではありません。あなたが知ろうと思っていなかったこと、気づこうと思っていなかったこと、しようと思っていなかったことを、知らせ、気づかせ、させてしまうのが聖霊です。あなたの向きが変えられて、行こうとしなかったところへ連れて行かれるのが霊を受けるということです。

 たとえ、あなたが判断したいものを、判断できない状況でも、あなたに、新しいものを見させる力、新しい気づきを得させる力は、今も働き続けています。あなたを成長させてくださるのは、他ならぬ、神ご自身です。あなたに豊かな実りをもたらし、あなたに住もうとされているのは、私たちに霊を注いだ神様です。だから、安心して行きなさい。

 

讃美歌

オンライン賛美歌11番「どうか平和の主が」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題

御着席ください。新年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」

 

年間主題

華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章18節を今年度の年間聖句にしています。

 

今週は、ミニコンサートへ訪れた人や、夏休みに教会へ訪れた人たちを覚え、出会いとつながりを大事にしながら、神様の愛を伝えていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の92番「主よ、わたしたちの主よ」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。(コリントの信徒への手紙一3:9)

 

祝 福

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への手紙二13:13)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった15名、同時に視聴された13名、計28名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は、牧師の夏期休暇のため、隠退教師の鈴木重正牧師がメッセージをしてくださいます。『        』と題して、         のお話をしてくださいます。来週もぜひ、ご出席ください。

 

また、礼拝後に、ハレルヤランチを挟んで、ぶどう園の集いとヒラソルの会が開かれます。ぶどう園の集いは「月毎にテーマを決めて色んなことを学ぶ会」、ヒラソルの会は「お互いの近況などを自由に分かち合う会」です。

 

こちらも興味のある方、関心のある方は誰でも自由に参加できるので、よかったらお越しください。なお、来週14日(水)の聖書研究祈祷会はありますが、21日(水)はお休みです。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。