ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『既にかなえられている?』ヨハネの手紙一5:10〜21

日曜礼拝 2024年9月1日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。」(エレミヤ書28:6)

 

讃美歌

讃美歌二編の150番「あめなるよろこび」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先週は、関西学院大学神学部主催のMSセミナーが行われ、牧会に出て5年目・10年目の人たちと、共に学びや経験を分かち合うことができました。どうか今、全国の牧師、伝道師、信徒の方々に、あなたの支えと導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。子どもたちも、夏休みが終わって、新学期が始まります。中には、学校へ行くことが重荷になって苦しい思いをする子もいます。どうか今、みんなと会えるのを楽しみにしている人も、不安に感じている人も、安心して過ごせる場所ができますように。

◆私たちの神様。今日は、礼拝後、受洗志願者の方と一緒に受洗勉強会を行います。新しく、神の民へ招かれている一人一人に、あなたの慈しみが豊かにありますように。どうか今、仲間を迎える私たちも、必要な準備をさせてください。

◆真実な方を知らせる主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの手紙一5:10〜21(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編65:6〜14(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の194番「神さまは そのひとり子を」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Tep RoによるPixabayからの画像

メッセージ

 身内がスピリチュアルビジネスや陰謀論ビジネスに取り込まれてしまい、「家族関係が壊れてしまった」「お金を無心されてしまった」という相談を時々受けます。取り込まれた人たちが、教祖の言うこと、コミュニティーで言われることを信じる力は凄まじく、普段の態度や言動も、大きく変わってしまいます。

 

 家族は途方に暮れるしかありません。今まで聞かなかったフレーズや、おかしなキーワードが出る度に、親が、子どもが、兄弟が、遠く離れていくような、二度と戻ってこないような、強い不安に襲われます。しかし、「言っていることがおかしい」と、「間違っている」と否定すれば、かえってのめり込んでいくため、ただ様子を見守るしかありません。

 そんな身内が、ますます、家族へ危機感をもたらす行為の一つに、未だかなえられていないことが、既にかなえられたかのように「もう起こった」「実現した」と周りに見せる姿があります。「願いは既にかなえられている」「実現することが決まっている」……そのように自ら発信し、教祖へ感謝するんです。

 どこかで見たような光景です。そう、教団の聖書日課で指定された、本日の礼拝の聖書箇所、ヨハネの手紙一5章15節に、こう書いてありました。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」

 困りましたね。ヨハネの手紙一は、異端とか偽教師に、信徒が惑わされないよう書かれたものでもあるんですが、現代においては、スピリチュアルビジネスや陰謀論ビジネスに利用できそうな言葉に聞こえてきます。「願ったことは既にかなえられている」つまり、願いがかなったように振る舞えば、信仰深いと認められ、願いが現実になるんじゃないか?

 だから、貯金もないのに、お金があるような生活をし、治ってないのに、病が治ったような振る舞いをして、「願いがかなった現実」を引き寄せようと、自分ばかりか、周りまで巻き込む人が現れる……そんなの絶対嫌ですよね? それに、普段から、神様に願い事をしてきた人たちは、納得できないかもしれません。

 「神に願ったことは既にかなえられている」……それが本当なら、なぜ、私の病気は治らないのか? なぜ、我が子は洗礼を受けないのか? 願ったことがかなわないのは、私の願いが「神の御心に適っていない」「ゆるされていない」からなのか? 私がお願いしたことは、そんなにゆるされないことですか?……と。

 当然、ヨハネの手紙が書かれた頃も、教会に集まる人たちは、そう簡単に、自分たちの願いが、かなえられるわけではないと知っていました。教会が一致して、信仰生活を送ることはなかなかできず、むしろ、次々と分裂し、異端が発生していました。尖った教えや特別感を与える異端に引き付けられ、教会から去っていく人も続出しました。

 この手紙が読まれる頃には、既に、多くの人が異端の影響を受け、教会から脱落者が出ていました。中には、身内が異なる教えに惹かれて偽教師のもとへ行ってしまい、関係が壊れた家族もあったでしょう。現代でも、身内と引き離された人が願うように、残された信徒も願ったはずです。「家族が、仲間が、うちへ帰ってきますように」と。

 けれども、一生懸命祈っても、なかなか願いはかないません。むしろ、事態は悪化していきます。偽教師は「神の子イエス・キリストが、私たちと同じ人となって、人の痛みや苦しみを、一緒に負ってくださった」ということを否定し、「イエスは人の姿で現れたが、実際には、純然たる霊的な存在だった」と主張しました。

 そして、霊的な生活は、道徳的な生活よりも高潔で、霊に関する知識は、道徳の規範よりも重要だ、と人々を信じさせました。そのため、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えは蔑ろにされ、自分の霊的なステージを高めるために、特別な知恵をつけることばかり、熱心になる人が出てきました。家庭も仕事も顧みず、霊的な世界を追い求め、人間関係が壊れていきます。

 もしも、それが自分の身内だったら、大切な友人の一人だったら、動揺せずにはいられません。目を覚まさせようと、異なる教えを否定すれば、「霊的な生活を邪魔する者」「知恵の習得を妨げる者」と、余計に憎まれてしまうでしょう。自分たちの言葉が届かない、耳を塞いだ兄弟のため、何ができるか考えたとき、ヨハネの手紙はこう言ってきます。

 「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」思わずドキッとさせられます。死に至らない罪を犯した兄弟のためなら、神に願うことがゆるされる。でも、死に至る罪を犯していたら、その人が帰ってくるよう願っても、神は助けてくれないのか? 願いはかなえてもらえないのか?

 ここで言う「死に至る罪」とは、神の子イエス・キリストが、私たちの罪を贖うため、十字架にかかって命をささげてくださった「愛」を拒絶することです。つまり「キリストは人の姿で現れたが、実際には霊的な存在だったから死ななかった」と考え、その愛を受け取らず、愛の実践をも蔑ろにする偽教師は「死に至る罪」を犯しています。

 それって、偽教師のもとへ行き、教会を出て行った人たちも「死に至る」ということですよね? やっぱり、彼らのために願い事をし、神様に祈っても、聞き入れてもらえないんでしょうか? 無駄なことなんでしょうか? イエス様の十字架と復活を信じないで、差し伸べられた愛の手を、払い除けてしまった人は、二度と救われないんでしょうか?

 そういえば、イエス様の十字架を拒絶して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と否定してしまった人の姿が、福音書の中に出てきました。それは、イエス様が「多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明けたとき、思わず、わきへお連れして、いさめ始めたペトロです。

 よく考えると、使徒たちの中心人物であったあのペトロも、人間の罪を贖うイエス様の愛を拒絶して「死に至る罪」を犯してしまった一人でした。実際、彼はイエス様が十字架にかかるのを拒絶したとき、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく非難されています。

 ペトロはそのまま、「死に至る者」として、悪の支配下にある者として、帰って来られなかったんでしょうか? 救い主の邪魔者として、サタンと呼ばれたまま、滅ぼされていったんでしょうか? そうではないことを、私たちは知っています。十字架につけられる前夜、彼のために、信仰が無くならないよう、イエス様が祈ったことを知っています。

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」……シモン・ペトロのために祈った、イエス様の願いは、すぐ現実になったようには見えませんでした。

 ペトロは、イエス様が捕まったとき、他の弟子たちと同じように、ふるいにかけられ、逃げ出します。その後、隠れてイエス様の後を追いますが、自分も仲間じゃないかと疑われると「わたしはあの人を知らない」と三度否定してしまいます。さらに、イエス様が十字架にかけられた後も、イエス様が復活するまで、立ち直る様子はありません。

 彼が家に閉じこもっている間、兄弟たちを力づける描写もありません。むしろ、イエス様から「復活する」と言われていた日がやって来ても、女性たちが「イエス様に出会った」と証言しても、復活を信じることなく、みんなを励ますことなく、戸に鍵をかけていました。しかし、私たちは知っています。彼が立ち直り、兄弟たちを力づける日が来たことを。

 やがて、ペトロは復活したイエス様と出会い、イエス様が天に昇って見えなくなったあとも、他の兄弟たちを力づけ、信仰生活を支え合うよう、励ます者となっていきます。聞き入れられなかったように見えた、ペトロのためのあの祈りは、ちゃんと神様に届いていて、かなえられていたことが明らかになります。

 ペトロは、自分がイエス様を三度否定したにもかかわらず、「死に至る者」から「死に至らない者」へ、「永遠の命を受ける者」へ変えられていったことを証しします。自分のために、神の子が来て、真実な方、憐れみ深い神様を、知るようにされた事実を伝えます。イエス様を「十字架にかけろ」と叫び、拒んでしまった人たちにも……。

 その「福音」は、「良い知らせ」は、彼だけでなく様々な弟子たちによって広がります。最初は、イエス様を神の子と信じないで、その愛を拒絶し、教会を攻撃していた迫害者、パウロもその一人です。彼は、キリストに出会って、目を見えなくされたあと、その目が開かれるように、アナニアから祈ってもらいます。

 当初、パウロの悪事を知っていたアナニアは、彼のために、目が見えるように願うことをためらっていました。しかし、イエス様ご自身の促しによって、彼のために手を置いて願い事を祈り始めます。その願いは聞き入れられ、パウロは、キリストの愛を拒む者から受け入れる者に変えられて、ペトロたち「使徒」の仲間に加えられていきました。

 迫害によって、仲間が殉教し、教会を破壊され、悪に支配されていると感じさせられる世の中で、信仰者が、キリストを拒絶する者のために願い事を祈るなんて、まず、有り得なかったでしょう。「死に至る罪」を犯した者のために、「この人が仲間になりますように」「この人が救われますように」なんて、期待さえできなかったでしょう。

 それは、「人にはできない願い」でした。ヨハネの手紙の著者でさえ「これについては、神に願うようにとは言いません」と断っておくほどでした。しかし、イエス様は、自分を拒絶した者のために、信じなかった者のために、とりなし、願い、救いを受けとる者となるように、どこまでも導いてくださいます。

 死に至る罪を犯した者たちが、そのまま死に至らないよう、自ら関係を結びに行きます。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」……この言葉は真実です。私たちが、自ら願えないことでさえ、願ってくださるキリストは、悪の支配を終わらせて、神の支配を完成させる、真の王であり救い主です。

 だから、この言葉を受け取ったあなたも、イエス様から、永遠の命を得ていることを知ってください。手紙の著者が悟らせたかった、良い知らせを受け取ってください。イエス様が、自分を見捨ててしまった者にも、自分を拒んでしまった者にも、新しく、関係を結びに来たことを思い出してください。願いは既に、かなえられているんです。

 この方と、結ばれない人なんていないんです。この方に、命を与えられない人なんていないんです。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」……アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌20番「すべてを売り払い」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、食事の席で、主は約束されました。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」

 

主は、弱っている者を励まし、閉じこもっている者を力づけ、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

神様、今日も、みんなで御言葉を分かち合えたことに感謝して、献金をおささげします。どうか今、あなたの求めることに使えるよう、私たちを導いてください。私たちの隣に、前に、後ろにおられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。(ヨハネの手紙一5:20)

 

祝 福

主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された 名、計 名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は、『不当な支配に従わせる?』と題して、ペトロの手紙一2:11〜25のお話をします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。