ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『追い出され、出ていった』マルコによる福音書11:15~19

日曜礼拝 2024年10月27日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。(ヨハネの黙示録21:5)

 

讃美歌

讃美歌二編の150番「あめなるよろこび」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆力の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先週の日曜日は、小牧教会と交換講壇礼拝が行われ、互いに交流が深められたことを感謝致します。来月の17日には、山梨学院大学の永井英司先生をお呼びして、礼拝を行います。どうか今、諸団体との交流が、ますます豊かにされますように。

◆私たちの神様。今日は、宗教改革507年目を記念して、新しい聖書の翻訳や「使徒信条」「主の祈り」の口語訳を用いて、礼拝を行います。どうか今、健全な信仰継承と誠実な伝道ができるように、私たちに必要な変化をもたらしてください。

◆私たちの神様。本日、礼拝後に、「地域と教会」というテーマで、教会研修会も開かれます。講師をしてくださる鈴木重正先生と、参加する会衆一人一人に、あなたの導きがありますように。どうか今、新しい気づきと発見が、豊かにもたらされますように。

◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書11:15~19の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編73:13~20(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の377番「神はわが砦」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

🌼Christel🌼によるPixabayからの画像

メッセージ

 今週の木曜日にやってくる10月31日は、507年目の「宗教改革記念日」です。宗教改革は、1517年に、ルターがヴィッテンベルク城教会の扉へ、95箇条の公開質問状を貼り付け、カトリック教会の贖宥状(いわゆる免罪符)の販売に、抗議したことから始まったと言われています。

 贖宥状の「贖宥」とは「免償」とも言われ、罪の償いが免除されることを意味します。キリスト教では、「罪を赦してもらうために」償いを行うのではなく、「罪が赦されたことに感謝して」償いを行うことが求められます。ようするに、救われるために罪を償うのではなく、救いを信じて、感謝して、それに応答するために、罪を償うという姿勢です。

 しかし、私たち人間は、自分の力で、自分の罪を償い切ることはできません。そこで、教会に罪を告白して、罪の赦しを宣言された人々は、祈り、断食、巡礼、善行などによって、一人で清算できない罪の償いを全面的に、もしくは部分的に免除されるというのが、「贖宥」の意味するところでした。

 つまり、贖宥というのは、罪を償うべき罰が赦されるのであって、罪そのものが赦されるわけではありませんでした。また、罪の赦しを宣言された人々が、感謝の気持ちを積極的に表し、善行に励んで、慈善のためにお金を出すこともありましたが、感謝の表現として献金するのは、赦しの「結果」であって「条件」ではありませんでした。

 また、カトリック教会では、罪の償いを果たさなかった、果たしきれなかった霊魂が、天国へ入る前に、煉獄という場所で、現世で犯した罪に応じた罰を受け、清められるという考え方を持っていました。煉獄という字で表されるように、定められた期間、炎で焼かれる苦しみを受け、浄化されるイメージがありました。

 中世以降、このような「煉獄」と「贖宥」の考え方が結びつき、贖宥によって、煉獄での苦しみや、罪の清めを受けなければならない期間が軽減される、と理解されるようになりました。しかし、ルターが活動する頃には、「償いの免除」が、「罪の赦し」そのものと混同され、贖宥状を買うことが罪の赦しを買う手段だと誤解されるようになっていました。

 ところが、当時の教会はサン・ピエトロ大聖堂の建築資金を名目に献金を集めるため、これらの誤解を放置し、むしろ積極的に利用していました。集まった献金を選挙のために用いたり、教会を私物化するために用いる者も出ていました。95箇条の質問状は、これらを批判し、教会を内部から改革するために、ルターが提出したものです。

 500年以上経った現代の視点から見ると、ルターの訴えはもっともで、正しかったように思えます。しかし、当時の教会の人々は、複雑な気持ちだったでしょう。既に、多くの財産を投げ打って、贖宥状を買っていた人々は、自分の行動が愚かで、意味のないものと否定されたように感じたかもしれません。

 贖宥状の販売に従事していた人の中にも、聖堂や修道院を建築するため、救いのためと思って働いているのに、それを否定されたと感じたかもしれません。贖宥状の販売を批判することは、聖堂の建築を妨げる行為にも見えるため、ある種、罰当たりな、暴力的な、不信仰な行為に思われたでしょう。

 ちょうど、イエス様が、神殿の境内から商人たちを追い出した出来事と重なります。エルサレムの神殿では、神殿本体を取り囲むように、ユダヤ人でない異邦人も立ち入ることが許された「異邦人の前庭」という敷地がありました。そこでは、献げ物をするための、傷のない鳩が売られていたり、献金に使える通貨の両替などが行われたりしていました。

 神様に祈り、犠牲をささげるためには、なくてはならない存在が、商人や両替人だったわけです。ところが、イエス様は両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返し、彼らを追い出してしまいます。さらに、商人だけでなく、商人から犠牲にする鳩を買っていた者たちまで、境内から追い出してしまいます。

 挙げ句の果てに、境内を通って物を運ぶことも許さなかったと言われています。現代の私たちから見ても、けっこう乱暴ですよね? 暴力的に見えますよね? 人を殴ってこそないものの、犠牲をささげに来た人々が、犠牲にささげる物を買えなくし、献金のための両替さえできなくする……祭儀を、礼拝を、妨害したように見えてきます。

 ルターが贖宥状を批判して、聖書にどう書いてあるかを訴えて、宗教改革を推し進めていったときも、かなりショックを受けた人たちがいたと思います。ルターこそ、過激で、罰当たりで、神に背いて、礼拝を邪魔する者だと感じた人が、大勢いたと思います。一方で、彼の訴えに心を打たれ、一緒に教会を改革しようとする者もいました。

 イエス様が神殿から商人を追い出したとき、驚きながら、ショックを受けながら、その教えに打たれ、神の言葉を振り返り、イエス様について行こうと思った者がいたように……やがて、ルターはカトリック教会から追い出され、出て行って、プロテスタント教会に分かれていきますが、実は、彼の前にも、追い出された者たちがいました。

 それは、教会の形式的な権威を批判し、ラテン語の聖書をはじめて母国語に翻訳したウィクリフや、聖餐式で一般信徒にもパンだけでなく杯を受けられるように訴えた、ヤン・フスなどの改革者でした。彼らは、教会から異端として追い出され、断罪されてしまいますが、ルターの宗教改革以降、その先駆けとして、改革者の一人に数えられるようになりました。

 イエス様が神殿から商人を追い出す話では、イエス様が人々を追い出す側に見えましたが、福音書全体を通して見れば、どちらかと言うと、イエス様の方が、会堂から、町から追い出される人間でした。イエス様の教えは、人々を驚かせ、心を打つものでもありましたが、同時に人々をつまずかせ、怒らせるものでもありました。

 時には石を投げられ、時には崖から突き落とされそうになりながら、イエス様はあちこちの会堂で教えを述べては、追い出され、出て行くことを繰り返していました。しかし、イエス様が追い出されていった先、出て行った先に、新たな教会が、人々の居場所ができていきました。

 先に追い出されていた病人や障がい者、罪人と呼ばれる人たちが、神様を信じて集まる共同体が、新たに造られた見えない神殿ができていました。宗教改革から507年目を迎えた今日、私たちも、教会に対するショッキングな訴えを、嘆きを、批判を、受けとめながら、新しくされていきたいと思います。

 あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように……アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Bです。オンライン賛美歌の後ろの方の3頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。本日は、ローマ・カトリック/聖公会共通口語訳を使います。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁右側をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、福音書は伝えています。主は十字架につけられる夜、残される人々のために杯を取り、彼らと共に飲んで教えました。神の国で、あなたがたと共に、新たに飲むその日が来ると。この食事は、やがて来たる神の国で招かれる、主の食卓の先取りです。

 

主は、救いを信じて待ち望む者に、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない方、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

私たちの神様。ここにささげた献金を、あなたの心に適う形で用いることができますように。教会の働きと私たち一人一人の良心をこれからも導いてください。そして、あなたの栄光が、ますます豊かに現され、神の国の平和が告げ知らされますように。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

今、行きなさい。わたしはあなたを遣わす。(讃美歌21の93-6-1 出エジプト記3:10より)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された3名、計19名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

この後、昼食を挟んで、「地域と教会」というテーマで、「教会研修会」を開きます。隠退教師の鈴木重正牧師が、スイスをはじめ、これまで赴任してきた教会と地域についてお話をしてくださいます。ご参加いただける方はぜひ、お残りください。

 

なお、来週は、「聖徒の日」として、召天者記念礼拝を行います。先に召された方々も天において一緒に礼拝していることを覚えて、各々持ち寄った写真を飾ります。礼拝後、軽食を挟んで、上加納の墓地へ向かい、12:30〜13:30に墓前礼拝も行う予定です。

 

教会から市営墓地までは、車で10分くらいです。何人かの車で乗り合わせて行く予定です。こちらもぜひ、ご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。