ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『どうして今?』コヘレトの言葉3:1~8、テサロニケの信徒への手紙一4:13~14

日曜礼拝 2024年11月3日


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説 明

本日は、召天者記念礼拝です。配信には映らないように、教会へ来られた方々が持ち寄った、故人の写真を飾っています。これは、先に召された方々が天において一緒に礼拝していることを覚えつつ、神の国で再会する日を待ち望み、祈りを合わせる礼拝です。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネによる福音書6:54)

 

讃美歌

旧讃美歌506番「たえなる愛かな」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆復活と希望をもたらす、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は、召天者記念礼拝です。先に召された方々も、天において一緒に礼拝していることを覚えつつ、神の国で再会する希望を持って、みんなで祈りを合わせます。どうか今、残された一人一人に、あなたの慰めと励ましがありますように。

◆私たちの神様。コロナ禍の間、親戚で集まることやお墓参りへ行くことが困難になり、今も、高齢のため、病気のため、なかなか会えない人たちに、あなたの憐れみがありますように。どうか今、ここに来られない人たちにも、あなたの慈しみがありますように。

◆私たちの神様。親しい人を見送った人、もうじき天に召される人、そのことを受け入れられない人に、あなたの助けがありますように。どうか今、新たな希望と平安がもたらされ、安心して、日々を過ごすことができるように、私たちをも用いてください。

◆一人一人を招かれる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。コヘレトの言葉3:1~8、テサロニケの信徒への手紙一4:13~14(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編90:1~15(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の120番「主はわがかいぬし」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

HeungSoonによるPixabayからの画像

メッセージ

 どうして今?……というタイミングで、誰かを見送らなければならないときがあります。まだ心の準備ができてないのに、十分な時を過ごせてないのに、大切な人が取り去られ、急に別れがやってくる……もっと人生を楽しんでほしかった、もっと報われてほしかった、そんな思いも出てくるでしょう。

 あるいは、関係が壊れて治らないまま、ギクシャクしたまま、その時を迎えてしまった人もいるでしょう。相手にゆるしてもらえないまま、もしくは自分がゆるせないまま、誰かを見送った人がいるでしょう。私にも、そういう人がいて、思い返すと今でも心がモヤモヤします。

 神様の存在を信じていると、もう一つ、恐れを感じることが出てきます。それは、神様を信じないまま、この世を去っていった人は、天の国で再会することは、できないんだろうか? 洗礼を受けずに、信仰を告白せずに死んでいった人は、神様に、天の国に、受け入れてもらえないんだろうか? という問いです。

 もし、受け入れてもらえないのなら、死ぬ前に、何とか洗礼を受けてほしい、同じ信仰を持ってほしいと、誰もが願わずにいられません。あるいは、様々な事情で、洗礼を受ける決心ができない人、迷い続けている人も、このまま自分が死んだらどうなるのだろう……と不安でいっぱいになると思います。

 自分の家が、他の宗教に所属していたり、大切な人が、他の神様を信じていたり、洗礼を受けることが難しい、信仰の話をすることが難しい家庭では、余計に、この不安が大きくなるかもしません。お寺で葬儀を挙げたあの人は、最後まで、信仰を共有できなかったあの人は、天国に入れないんだろうか?

 聖書でも、「イエスを信じて眠りについた人たち」は、神様が「イエスと一緒に導き出してくださいます」と言われています。でも、イエスを信じないまま、眠りについた人たちは、どうなるんでしょう? 私たちの教会のお墓には、これまで見送ってきた故人の名前が刻まれていますが、その中には、幼くして亡くなった、子どもの名前も含まれます。

 自分の口で、信仰を告白するのは難しい年齢です。生まれてまもなく、死んでいった子どもの中には、神様のことを知らないまま、イエス様のことを分からないまま、「信じる」という意識もないまま、亡くなっていった子が、大勢いるでしょう。「何事にも時がある」と言われていますが、「今じゃないでしょ」と言いたくなります。

 この子を、この人を、取り去るなら、信じて眠りにつくまで、待ってくれてもいいじゃないですか? 私の祈りを聞いてくれてもいいじゃないですか? この「死」が「定められた時」であるなら、最初から、この人が神の国に受け入れられる可能性はなかったんですか? 信じて眠りにつけなかった人、信じる前にこの世を去ってしまった人は、神様の救いの計画に、入っていなかったんですか? そのように叫びたくなります。

 けれども、「イエスを信じて眠りにつく」って、私たちが「信仰だ」とイメージするものと、ちょっと違うのかもしれません。聖書には、イエス様が、「あなたの信仰は立派だ」「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われる人たちが出てきますが、その人たちが、イエス様を「神の子」「救い主」と理解していたかは微妙です。

 むしろ、預言者の一人と考えていたり、すごい人だけれど何者かは分からないと思っていたり、イエス様に対して、曖昧な理解を抱いている人が、大半だったと思います。弟子たちでさえ、イエス様を信じる一方で、イエス様の言葉を、「死んでから3日目に復活する」という言葉を信じていません。

 兄弟ラザロを甦らせてもらったマルタとマリアも、「あなたの兄弟は復活する」と言われた言葉を、正面から信じることはできませんでした。一人息子を生き返らせてもらった、ナインのやもめも、イエス様が誰か、理解している様子はなく、甦った彼女の息子も、死ぬ前に、イエス様を信じていた様子はありませんでした。

 私たちは「信仰を持つ」ということを、神様について、イエス様について、何を信じているかについて、はっきりと確信を持って言えること……とイメージしますが、イエス様が、その信仰を認めた人たちは、必ずしも、イエス様がどなたか理解していた者たちでも、イエス様の言うことを完全に受け入れられた者たちでもありませんでした。

 弟子たちに至っては、イエス様が十字架にかかって殺される前、イエス様を見捨てて逃げた人たちでもありました。イエス様が復活して、空っぽになった墓を「見て、信じた」と書かれている弟子たちも、「イエスは死者の中から復活されることになっている」ことを「まだ理解していなかった」とも書かれていました。

 彼らが「見て、信じた」ものは何だったんでしょう? 空っぽの墓を見ても、イエス様が復活したことを理解していなかったのに、何を「信じた」ことになるんでしょう? 答えは分かりません。ただ一つ言えるのは、イエス様が認める「信仰」は、私たちが、自分の力で理解して、獲得できるものではなく、イエス様の方から出会い、認めてくださるからこそ、与えられるものだということです。

 このメッセージを聞いているあなたは、自分が信仰を持っている、確信を持っているとは思えないかもしれません。この世を去った親しい人に、信仰を見出すことは、できないかもしれません。しかし、イエス様は、多くの人から「あんな人に信仰があるなんて認められない」と思われていた、罪深い者、汚れた者、異邦の者に、「あなたの信仰が、あなたを救った」「これほどの信仰を見たことがない」と宣言し、「安心して行きなさい」と告げてきました。

 信仰を認めるのは、あなたではなく、私でもなく、イエス様です。信じない者を、信じる者へ変えられてきたキリストです。私たちが信仰を告白し、洗礼を受けるのは、救いの条件を満たすためではなく、与えられた救いに対する感謝の応答です。だから、皆さんも安心して、天の国に迎えられた一人一人と、再会する希望を新たにしましょう。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌47番「道を整え」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

愛 餐

本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

配 餐

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。

 

本日、礼拝に来られているお子さんも、親しい方を見送ったご遺族の方も、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。係の方は、前へお越しください。(パンと水を配る)

 

分かち合い

ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の29番「天のみ民も」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(テサロニケの信徒への手紙一4:14)

 

祝 福

わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(テサロニケの信徒への手紙一5:28)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった22名、同時に視聴された8名、計30名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

また、本日は召天者記念礼拝として、教会から親しい人を見送った方、遠方から来たご遺族の方もお越しいただき、ありがとうございます。この後、軽食を挟んで、教会から車で10分ほどの岐阜市営上加納山墓地で、墓前礼拝を行います。

 

何人かの車で乗り合わせていきたいと思うので、車のない方は牧師や役員までお申し出ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。