ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『審判者が来られるとき』テモテへの手紙二4:1~8

聖書研究祈祷会 2024年11月6日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の228番「造りぬしなる主」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆復活と希望をもたらす、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。先日の日曜日は、召天者記念礼拝が行われ、久しぶりに、遠方から来たご遺族と顔を合わせて希望を分かち合えたことを感謝致します。どうか今、一緒に参加できなかった人たちにも、あなたの恵みが豊かに注がれますように。

◆私たちの神様。だんだんと寒さが増していく季節になり、体調を崩しやすい時期になりました。どうか今、教会の会衆をはじめ、会衆のご家族、幼稚園のみんな、地域の人々の健康が守られますように。この配信を見ている人にも、あなたの支えがありますように。

◆私たちの神様。病気や怪我を負っている人、家族の看護や介護をしている人、そういった人たちのために、仕事を代わってくれている人、それぞれに、あなたの助けがありますように。どうか今、癒しと回復がもたらされ、みんなが喜び合える日が来ますように。

◆一人一人を起こされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。テモテへの手紙二4:1~8の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 テモテへの手紙二の後半は、新共同訳の見出しで「終わりの時の人々の有様」「最後の勧め」と出てくるように、世の終わり、終末に関する記述が出てきます。4章でも、手紙の著者が自らの「死」と「最後の審判」を意識して、読者へ教えを語っていました。冒頭の「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス」という言葉は、教会で毎週唱える『使徒信条』にもありましたよね?

 「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまはん」……文語訳だとちょっと難しいので、口語訳で読み直すと、次のようになります。「(主イエス・キリストは)そこ(天)から来られて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」……「死んだ者」や「裁き」という言葉が出てくると、どうしても、おどろおどろしく感じますよね。

 また、生きている人を裁くのは分かるけど、死んでしまった人までどうやって裁くのか? と思われるかもしれません。実は、キリスト教では、十字架にかかって復活し、天に昇ったイエス様が、世の終わりに、再び地上へやって来て、死んでいた者は生き返らされ、生きている者と一緒に、最後の裁きを受けることになる……と教えています。

 その後、神の支配を完成させたイエス様が、私たちみんなを神の国へ迎えられる……というのが、キリスト教の終末思想です。4章にあった、「その出現とその御国」というのもまさに、イエス様が、世の終わりに地上へ来臨されること、神の支配を完成させ、神の国を到来させることを指しています。

 先日の日曜日、私たちの教会では、召天者記念礼拝を行い、やがて来たる神の国で、天に召された方々と、再び会える希望を新たにしました。私たちは、「天国」と聞くと、単に「死んだら行くところ」というふうに捉えてしまいますが、実は、「天の国」「神の国」の方から、私たちのもとへやって来て、私たちを迎え入れてくれるんです。

 聖書には、その日が来るまで、死んだ者は眠っている、あるいは、天において、神様を礼拝していることが記されています。そして、「主の日」と呼ばれる世の終わりには、イエス様がみんなを起こし、新しい体、朽ちることのない体に復活させ、朽ちることのない神の国に迎えてくださると教えられます。

 けれども、この終末に関する預言は、陰謀論やオカルト思想と結びつき、あちこちで、人集めや支配の道具に、利用されるケースが見られます。特に、審判者が来られるとき、最後の審判は、神の国に迎えられるか、滅びに定められてしまうのか……に関わるため、教会も、人々の恐怖を煽って信者を集め、コントロールする方向へ、度々押し流されてしまいます。

 なぜなら、世の終わり、終末に関する記述は、聖書の中でも、抽象的な表現や、象徴的な表現が最も使われているため、あらゆる事象と結びつけやすく、「○○と書いてあるのは○○のことだ」「××と言われているのは××のことだ」というふうに、誰でもそれっぽく言えてしまうからです。

 たとえば、「小黙示」と呼ばれるマタイによる福音書24章には、世の終わりに、偽メシアや偽預言者が出現し、戦争の騒ぎや噂が起こり、民と民・国と国とが対立し、飢饉や地震に襲われて、迫害や殉教、背教と裏切り、不法が蔓延することが書かれていました。これって、今起こっている出来事と、結びつけようと思ったら簡単に結びつけられますよね?

 自分のことを再臨したキリストだと言って、信者を集める偽メシアは、この時代にもたくさんいますし、戦争の騒ぎや噂は何度も起こっています。民と民・国と国との対立は、見てのとおり事欠きませんし、実際に大きな戦争や衝突が起こっています。飢饉や地震などの自然災害は記憶に新しいですし、迫害や弾圧も、いくつかの地域で、現在進行形の話です。不法の蔓延も、政治家の汚職や、役人の不正で見慣れたものですよね。

 ただ、これらの事象は、新約聖書が書かれた頃も、それ以降も、今に至るまで、繰り返し見られてきた現実です。当てはめようと思えば、いつの時代も当てはまります。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」と言われているように、聖書の記述と一致する出来事が起きたからと言って、終末の時期を予測することはできません。

 それでも、目の前の出来事を、世の終わりと結びつけて、まもなく、最後の審判が訪れる! と言い出すところが続発するのは、それだけ、辛く苦しい現実があり、悪が力を振るったまま、終わりを迎えてしまうんじゃないか? このままじゃ、救いを得られることなく、滅ぼされてしまうんじゃないか? という不安に襲われているからだと思います。

 私たちも、何か大きな事件や災害を前にすると、これは偶然じゃなくて、自分が神様を怒らせたからじゃないか? 正しいことをしないで、間違ったことを続け、神様に背いていたから、裁きが下ったんじゃないか? と考え、より深刻な裁きに遭わないよう、身の振り方を改めることがありますよね。

 最後の審判に関するたとえ話も、主人に忠実でなかった悪い僕が、厳しく罰されてしまったり、主人の迎えに間に合わなかった愚かな僕が、家から締め出されてしまったり、主人の期待に応えられず仕事を怠けていた僕が、外の暗闇に追い出されたり、神に背いた人々が、深刻な裁きに遭う様子が、続けて描き出されています。

 さらに、ヨハネの黙示録では、死んだ者たちが、彼らの行いに応じて裁かれ、「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」と出てきます。こんなこと聞いたら、そりゃみんな、最後の審判が来る前に、何とかして救われようと、間に合わせようと必死になりますよね。

 でも、最後の審判のたとえ話で、厳しく罰され、締め出され、暗闇に追い出された悪い僕、愚かな僕、怠け者の僕の姿は、よく見ると、イエス様が復活したとき、まともに迎えられなかった、弟子たちの姿と重なります。

 マタイによる福音書24章46節には、「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と書かれていますが、イエス様の弟子たちは、甦ったイエス様が帰ってきたとき、誰も、イエス様に言われたこと、「3日目に復活する」という約束を信じて待っていませんでした。

 マタイによる福音書25章では、主人の帰宅に間に合わず、迎えにいけなかった「愚かな僕」が書かれていますが、イエス様の弟子たちも、イエス様が復活して帰って来た日、まともに迎えることができた人は、一人もいませんでした。むしろ、戸に鍵をかけて、イエス様を締め出していました。女性たちが「復活したイエス様に出会った」と言っていたにもかかわらず。

 イエス様が捕まって、十字架にかかった後、何もしないで、家の中に閉じこもっていた彼らの姿は、イエス様がした「タラントンのたとえ」で、主人から預かった金を地面に埋めて、何もしないで隠していた「怠け者の僕」と重なります。こうして、思い返してみると、イエス様に従った弟子たちで、最後の審判に耐えられる者は、一人もいなかったことが分かります。

 けれども、私たちは知っています。悪い僕、愚かな僕、怠け者の僕だった弟子たちに、決定的な瞬間に、イエス様が帰って来る日に、救いようのない姿を晒した弟子たちに、死を越えて会いに来たイエス様が、最初に告げたその言葉を。「あなたがたに平和があるように」……それは、本来、滅びを免れない彼らに、赦しと命が与えられた宣言でした。

 テモテへの手紙の著者として、名前が出てくる宣教者パウロも、復活したイエス様の幻と会ったとき、その用意ができていない者でした。イエス様を信じる者を迫害し、弟子の処刑に賛成し、そんな自分が正しいと思い込んでいる者でした。彼もまた、その名を命の書に書き記されるはずのない、滅びを免れないはずの者でした。

 ところが、イエス様は、そんなパウロに姿を現し、「わたしに従いなさい」と声をかけ、信仰の戦いを立派に戦い抜くよう、聖霊を注いで遣わしました。審判者が来られるとき、神の国に迎えられるはずのなかった者たちは、その命を新しくされ、キリストに従う者へと変えられてきました。終わりの日に訪れる裁きも、私たちを恐怖でコントロールするような、歪んだ支配ではありません。

 だから、折が良くても悪くても、この良い知らせを語り伝え、身を慎んで、苦しみを耐え忍び、自分の務めを果たしましょう。正しい審判者である主が、かの日に、義の栄冠を授けてくださいます。真理から耳を背け、作り話の方にそれて行かないように、主イエス・キリストの教えと業を、その出会いを、繰り返し思い起こしましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている広島県圧原市の庄原教会のために、親しい人を見送った人のために、死を恐れている人のために、悲しんでいる人のために祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆広島県圧原市の庄原教会のために祈ります。牧師が急に亡くなって、悲しみの中にいる人へ、あなたの憐れみがありますように。会衆が癒され、整えられ、後任の牧師が遣わされますように。

◆親しい人を見送った人のために祈ります。大切な人との別れに、心の整理がつかない人へ、あなたの慰めがありますように。十分に悲しむ時間と、回復する過程が与えられますように。

◆死を恐れている人のために祈ります。自分自身や親しい人の死を恐れ、怖がっている人たちに、あなたの助けがありますように。死が終わりではない希望と、今を生きていく平安がもたらされますように。

◆悲しんでいる人のために祈ります。傷つき、悩み、苦しんでいる人たちに、あなたの励ましがありますように。思うようにいかないとき、思ってもみなかった恵みがもたらされ新たな希望を受け取ることができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌6番「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『審判者が来られるとき』と題して、テモテへの手紙二4:1~8のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。