聖書研究祈祷会 2024年12月11日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の240番「『主イェスは近い』と」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけて歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆世界を創造し、完成される神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。
◆私たちの神様。キリストの誕生を記念するクリスマスの準備をしつつ、キリストが再び来られるときを待ち望むアドヴェント第2週目を迎えました。どうか今、心が騒ぎ、気持ちが焦り、期待を持てない人たちに、あなたが傍にいて助けと平安をもたらしてください。
◆私たちの神様。今度の日曜日には、華陽教会の教会学校で、クリスマス礼拝と祝会が開かれます。どうか今、子どもたちと一緒に、あなたの恵みを豊かに分かち合えるよう、私たち大人の準備を導いてください。また、保護者にもあなたの支えがありますように。
◆私たちの神様。クリスマスに洗礼を受ける人、久しぶりに来られる人、初めて訪れようとしている人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、新しい命をみんなで受けることができるように、私たちを豊かに用いてください。
◆全てのものを新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。テトスへの手紙2:11~3:7の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
メッセージ
全ての人のために十字架にかかり、復活して、天に昇ったイエス様が、再び地上へ来られるときを待ち望む、アドヴェント第2週目を迎えました。キリスト教では、世の終わりに、イエス様が再び来られるとき、死んだ者たちが甦らされ、全ての悪が滅ぼされ、私たちが、新しい天と地、神の国に迎えられる日を、救いの完成として待ち望みます。
その日には、朽ちることのない新しい体で復活し、朽ちることない新しい世界に受け入れられ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、永遠の神の国で、一緒に住む恵みが与えられます。実は、その日、その時、新しい体に甦らされる「永遠の命」「新しい命」は、既に、イエス様を信じる一人一人に与えられていると言われます。
けれども、いわゆる「天の国」「神の国」に何の条件もなしに迎えられるとは、なかなか信じられません。それこそ、神様の命じた掟を守り、善い行いに励まなければ、いくら、「イエス様を信じます」「神様を信じます」と言ったって、救いにあずかることはできないと思われるかもしれません。
事実、テトスへの手紙をはじめとする牧会書簡では、健全な教えを守ること、善い行いに励むことが勧められ、テモテへの手紙一と二でも、この世でどのように生きるべきか、何に気をつけて行動すべきか、事細かく教えられていました。しかも、終末における神の前での審判に触れて、戒めを守るよう、伝道に励むよう勧められます。
これまでの聖書研究祈祷会で、いくつか触れてきたように、それらは必ずしも、字義通りに、実践することが適切なわけではありませんが、誠実に、健全に、善い生き方をするように、目指すところは変わりません。一方で、テトスへの手紙には、こんな言葉も書かれていました。
「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」……どうやら、善い行いをすることが、救いの条件になるわけではないようです。
むしろ、私たちの努力や行いによってではなく、神様からの無償の愛の恵みによって、「義とされる」(正しい者とされる)ことで、神の国に「ふさわしくない者」から「ふさわしい者」にしてもらえると告げられます。不思議なことに、キリスト者に善い行いが勧められている箇所にもかかわらず、善い行いが救いの条件とは言われないんです。
では、善い行いが救いの条件でないのなら、善い行いは何のために勧められているんでしょう? 「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」と命じられている聖書の言葉は、何のために実践するんでしょう? それはまさに、「救いの条件」としてではなく、「感謝の応答」のために行います。
「感謝しなければ救われない」という意味ではありません。救いを信じた者は、自然と感謝する者へ変えられていき、恵みを分かち合う者へ変えられていくんです。なぜなら、自分が救われるために、何か条件を達成しなければ……という思いからは「心から隣人を思う行動」ではなく、どこまでも「自分のための行動」しかできません。
しかし、何かの条件によってではなく、無償の愛によって救われることを信じるなら、自分のために、自分が救われるためにではなく、心から隣人のために行動することができるようになります。「信仰義認」を教えたとされるパウロや「信仰のみによる救い」を訴えたマルティン・ルターが語ってきたのは、まさに、この恵みです。
利己的な動機から、自分のエゴから解放されて、本当に心から、人のために愛を実践する者へ変えられていく……それが、キリストによって、新しい生き方に変えられるということであり、復活の日の先取りである、新しい命を与えられるということです。善い行いは救いの条件ではなく、救いを信じた者から溢れ出ていくしるしなんです。
けれども、救いを信じるだけで救われるなら、信じたあと、善い行いをする人が、居なくなってしまわないか? 人間の側の努力をする人が、減ってしまわないか? そんな教えを広めてしまっていいんだろうか? という心配もあると思います。受洗の学びでも、少し話しましたが、私はこれに対して、よくこういうたとえをします。
本来なら死んでしまう患者を、絶対に見捨てないで、100%治療を成功させられる優しい医者が、あなたや、あなたの大切な人を助けてくれると約束したとき、「この医者の治療は、必ず成功するものだから」と、自分は何もしないでしょうか? 本当は死ぬような病気であるにもかかわらず、絶対にそれを治してくれると知ったとき「これでもう平気だ」と何の応答もしないでしょうか?
むしろ、この人は絶対に自分を見捨てず、治療を成功させてくれると信じたら、感謝せずには居られませんし、治療に協力しようとせずにはいられません。また、自分の大切な人が、その医者を信じないで、「どうせ私は助からない」という失礼な態度を取っていたら、たとえ、この医師は絶対に見捨てないで助けてくれると分かっていても、治療を受ける人に対し、「本当に助けてくれるから、安心してほしい」と言わずにはいられないでしょう。
あるいは、治療を受ける人が、自分の病気を軽く見積もって、「あの医者の言うことはでたらめだ」「治療をしなくても自然に治る」と的外れなことを言っていたら、たとえ、この医者は絶対に見捨てないで、助けてくれると分かっていても、「この人の言葉を信じてほしい」「本当にあなたを死から救おうとしているんだ」と言わずにはいられないでしょう。
それが、救いを信じる者の応答であり、しるしであり、私たちキリスト者が他者に伝道することの意味だと思います。まとめると、キリスト教徒は、救われるための条件ではなく、救いに対する応答として、善い行いを実践します。献金や奉仕や伝道は、神の恵みに対する感謝の応答であって、救いの条件ではありません。
まともな教会なら、「救われるためにこれだけ献金しなさい」「このままじゃ、奉仕が足りないから救われない」なんて言いません。そのように言うとしたら、キリスト教を装ったカルトに近いと言えるでしょう。健全な教えを語る教会なら、そのように、不安や恐怖をあおって、信徒をコントロールするようなことは行いません。
キリストの誕生を記念するクリスマスまで、あと2週間……こうしなきゃ救われないという「恐れ」ではなく、慈しみと愛によって、私たちを救ってくださる神への「信頼」を確かにしつつ、その日を準備していきましょう。「父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和があるように」アーメン。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている山口県下関市の安岡教会のために、配信を見ている人のために、礼拝に来られない人のために、教会へ初めて来た人のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆山口県下関市の安岡教会のために祈ります。安岡教会のために祈り、奉仕をしてくださる5人の教師に、あなたの祝福が豊かにあって、健康が守られますように。子どもたちや新来者との出会いが導かれ、良い関係が築けますように。
◆配信を見ている人のために祈ります。華陽教会のために祈り、配信を通して、心を合わせている人に、あなたの恵みがありますように。顔と顔とを合わせられない人たちにも、あなたのもたらすつながりによって、喜びが満たされますように。
◆礼拝に来られない人のために祈ります。教会に来たいと願いながら、様々な事情で来られない人、行きたいという思いさえ損なわれている人たちに、あなたの憐れみがありますように。十分な支えと励ましが、休息と癒しが与えられますように。
◆教会へ初めて来た人のために祈ります。華陽教会に来てくれた子どもたち、生徒、保護者の上に、初めて来てくれた方々の上に、あなたの慈しみがありますように。これからもその人生が豊かに導かれ、良い出会いと発見に恵まれますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌5番「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌います。
主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『無益でむなしいもの』と題して、テトスへの手紙3:8~15のお話しをします。なお、今度の日曜日は、華陽教会の教会学校でクリスマス礼拝と祝会が開かれます。
時間はいつもの午前中ではなく、午後1時半から3時です。予約や参加費は必要ないので、子どもも保護者も、よかったらぜひ、お越しください。再来週22日の日曜日は、10時半から華陽教会全体のクリスマス礼拝・祝会を予定しています。
また、24日(火)の夜7時からは、クリスマス聖夜礼拝を予定しています。いずれも、予約や参加費は必要ありません。礼拝の中で献金の時間がありますが、金額に定めはありません。こちらも、よかったらぜひ、お越しください。
なお、24日の夜に礼拝へ参加できない人のために、25日の水曜日午後1時半から2時半に、クリスマス祈祷会も予定しています。それぞれ、無理のない形でご参加いただければ嬉しいです。それではまた、日曜日まで皆さん一人一人に神様の平和がありますように。