クリスマス祈祷会 2024年12月25日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の245番「世の成らぬさきに」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆光と希望をもたらす、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られてクリスマス祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。
◆私たちの神様。今日は、24日の聖夜礼拝に出られなかった人のため、聖書を開き、メッセージを聞き、賛美と祈りをささげつつ、神の祝福を分かち合う、愛餐式を行います。どうか今、ここに連なる一人一人に、あなたの恵みを与えてください。
◆私たちの神様。日曜日に続き、昨日も、クリスマスの礼拝を最初から最後まであなたが導いてくださったことを感謝致します。どうか今、この祈祷会も最初から最後まであなたが導き、参加した人に新しい力をもたらしてください。
◆私たちの神様。キリストの誕生を記念するクリスマスを迎え、一年の終わりも近づいて来ました。教会の新しい一年は、既にアドヴェントから始まっていますが、来年も健やかに迎えることができるように、私たちのことを助けてください。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書1:1〜14の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
メッセージ
この時期、教会に何度か足を運んだことのある人は、クリスマスの礼拝で、最初に、ヨハネによる福音書の冒頭が読まれるのを聞いたことがあるんじゃないかと思います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」……ちょうど、24日のクリスマス聖夜礼拝でも、礼拝の初めに、招きの詞として、この聖句が読まれていました。
しかし、初めて聞いた人は「どういうこと?」と混乱してしまう文章です。なぜ、キリストの誕生を記念するクリスマスに、この聖句が読まれるのかも、不思議に感じるかもしれません。何だか抽象的な言葉が続くし、読者を煙に巻くような表現が並んでいるため、ヨハネによる福音書が、ちょっと苦手な方もおられます。
ただ、ここに出てくる「言」という単語を「イエス」という名前に置き換えると、意味が通じるようになってきます。「初めにイエス・キリストがおられた」「イエスは神と共にあった」「イエスは神であった」「このイエスは、初めに神と共にあった」……いわゆる、ロゴス・キリスト論と呼ばれる表現です。
実は、ヨハネによる福音書の冒頭は、ナザレのベツレヘムという町でお生まれになったイエスこそ、神の言葉が肉となって(受肉して)、この世に遣わされた方であるという宣言をしたものなんです。キリスト教の教義である「三位一体論」を形作った要素の一つでもありました。続く文章も「言」を「イエス」に置き換えていくとこうなります。
「万物はイエスによって成った。成ったもので、イエスによらずに成ったものは何一つなかった。イエスの内に命があった。命は人間を照らす光であった」……つまり、2000年前にナザレで生まれたイエス様は、それ以前から父なる神と共におられ、創造の業に携わり、人々を照らし、命をもたらす者として、一致する意志を持っているという表現です。
よく、旧約に出てくる「世界を創造した神は裁きの神」で、新約に出てくる「イエス・キリストは愛の神」というふうに言われることがありますが、実際には、世界を創造した父なる神と、子なるキリストは一体で、悪を放置して歪んだ状態のままにせず、正しい状態へ回復させる両者の姿は、新約にも旧約にも出てきます。
そして、ヨハネによる福音書では、「言」の他にも、「光」や「命」がイエス・キリストを指す表現として用いられ、イエス様自身も、「わたしは世の光である」「わたしは命のパンである」「わたしは道であり、真理であり、命である」と多様な表現をしています。それらはいずれも、私たちが生きていくために必要な、欠けてはならないものでした。
光がなければ、私たちはどこを歩けばいいか分からず、命がなければ、私たちは存在することもできず、パンがなければ、その命をつなぐことさえできません。道がなければ、前へ進めず、真理がなければ、歪んだ状態から正しい状態へ回復することができません。言、命、光、パン、道、真理のないところで、私たちは生きていくことができません。
ヨハネによる福音書15章では、イエス様からこんな言葉も語られていました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
ここでも、イエス様なしに、私たちは生きられないことが語られています。ただ、世界にはイエス・キリストを信じてない人、キリスト教を知らない人もたくさんいます。このクリスマスに、初めて教会を訪れ、初めてクリスマスがキリストの誕生を記念する日だと知った人だっているでしょう。
結局、イエス様が居なくたって、イエス様から離れていたって、生きている人はいっぱい居るじゃないか? と思われるかもしれません。しかし、イエス様が誕生した、クリスマスの出来事を思い返すと、そもそも、神様が遣わした救い主は、最初から救い主を受け入れていた者ではなく、むしろ離れていた者と……すぐには受け入れられなかった、理解することができなかった、信じることができなかった人たちと共に居られます。
マリアは、天使に教えてもらうまで、自分のお腹に、聖霊によって身ごもった、子どもがいると気づけません。その子が、神の子である救い主だと言われても、「どうしてそのようなことがありえましょうか」とすぐには受け入れられません。天使がねばり強く、マリアを安心させ、何が起こったのか説明するまで、彼女はイエス様の母親になることを否定しようとしていました。
ヨセフは、夢でお告げを受けるまで、自分の婚約者に、神の子である救い主が宿っていると、信じることができません。聖霊によって身ごもったことが明らかになってからも、ひそかに別れようと、妻と子どもから離れようとしていました。彼は、天使に、その子が誰か教えられるまで、イエス様の父親になることを拒絶しようとしていました。
エルサレムの人々は、東から来た占星術の学者たちが、新しい王の誕生を知らせたときそれが「良い知らせ」だとは思わずに、不安を抱いてしまいます。星の光に導かれる、学者たちについて行けば、待ち望んでいた救い主の赤ちゃんと会えるのに、誰も、ついて行こうとしませんでした。人々は、赤ん坊が大人になって、宣教の業を開始するまで、イエス様が新しい王であることを否認しようとしていました。
けれども、自分たちのもとに訪れた、救い主を受け入れられず、理解できず、信じられない人たちから、イエス様は離れていきません。神様は、彼らを放置できません。救い主を信じて迎え入れるまで、良い知らせを受け取ることができるまで、天使を遣わし、星で導き、洗礼者ヨハネに証しを語らせ、一人一人に命を得るよう促していきます。
道のないところに道を作り、光のないところに光を照らし、真理を見失った人にその目を開く神の言が与えられます。実は、神様と出会わない人なんていないんです。キリストが訪れない人なんていないんです。いつ、どのように出会っていたのか、導かれていたのか、すぐには分からない私たちも、神様によって道を作られ、光を照らされ、命を養われているんです。
今日は、神様から、命を受けようとしなかった者が、命を受ける者へと変えられていった、最初の出来事を記念する日です。イエス様を迎えようとしなかった者が、喜んで迎える者へと変えられていった、クリスマスの出来事を思い起こし、今、あなたにも、命を得るよう呼びかけ続ける神の言を、喜んで受け取る者となりましょう。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」アーメン。
主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……
愛 餐
本日は、共に教会へ集まった方々と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。
讃美歌
マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。
食卓への招き
かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」
また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」
主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。
信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげます。
恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。
様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。
配 餐
共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。
本日、教会に来られているお子さんも、親しい方を見送ったご遺族の方も、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。(パンと水を配る)
分かち合い
ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。
主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。
主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげましょう。
愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。
足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:23)
祝 福
神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。(詩編67:2〜3)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。1月1日(水)の聖書研究祈祷会は、午後2時〜3時の元旦礼拝と合流します。礼拝の中で、神の祝福を分かち合う愛餐式も行います。元旦礼拝のあと、牧師のぜんざいを振る舞う予定なので、よかったらぜひ、ご参加ください。
なお、1月8日(水)と1月15日(水)の聖書研究祈祷会は、牧師の休暇と出張のためお休みです。次回の聖書研究祈祷会は、1月22日(水)に予定しています。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の祝福がありますように。良いお年を。