日曜礼拝 2025年1月1日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
彼らは古い時代の廃虚を建て直し/かつての荒廃した地を復興し/廃虚の町、代々の荒廃地を再建する。(イザヤ書61:4)
讃美歌
旧讃美歌531番「こころの緒琴に」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。昨年も、最初から最後まで、あなたが守り導いてくださったことを感謝致します。どうか今、一年を通して、培われたもの、与えられた気づきを活かし、課題として残っているものに取り組めるよう、今年も私たちを送り出してください。
◆私たちの神様。2025年を迎えました。あなたが与えてくださる新しい一年の始まりに感謝致します。どうか今、新年もあなたに信頼し、あなたのもたらす喜びと希望を胸に、歩み続けることができるよう、私たちを導いてください。
◆私たちの神様。病気の人、怪我をした人、弱っている人、苦しんでいる人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、一年のスタートから躓いている人たちにも、慰めと励ましが豊かにあって、変化と回復がもたらされるよう、助けてください。
◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書9:14〜17の新共同訳を朗読します。
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
同じく、マタイによる福音書9:14〜17の聖書協会共同訳を朗読します。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながら、お聞きください。
その時、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。すると、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる。誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編65:10〜14(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。
神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。
あなたがそのように地を備え/畝を潤し、土をならし
豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。
あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。
あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
荒れ野の原にも滴り
どの丘も喜びを帯とし
牧場は羊の群れに装われ
谷は麦に覆われています。
ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。
讃美歌
讃美歌21の367番「偉大なみ神の」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
メッセージ
新しい年を迎えました。今日から2025年です。皆さんは、どんな気持ちで一年をスタートしたでしょうか? もしかしたら、まだ「スタートした」という感じじゃないかもしれません。クリスマスが終わって、冬休みに入って、一年で最もゆっくりできる正月です。今はまだ、何かを始めるというよりも、休んでいたい気分でしょう。
私もそうです。キリスト教では、イエス様の誕生を記念する、クリスマスの準備をする期間「アドヴェント」から一年が始まると考えるので、既に12月の頭から、新しい一年に入っています。とはいえ、教会の人たちも、クリスマスという大きな行事を終えてからまだ一週間……楽しかったけど、疲れが取れていないというのが本音でしょう。
けれども、聖書日課で指定されている、元旦礼拝の聖書箇所は、様々な働きを終えて、疲れの溜まっているイエス様に、容赦無く、論争が持ち込まれた話で始まっています。マタイによる福音書9章では、イエス様が自分の町へ帰ってきた途端、人々が体の麻痺した人を連れてきて、イエス様に癒してもらったことが書かれていました。
イエス様は、連れてこられた人を見て「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言いますが、それを聞いた律法学者は「この男は神を冒涜している」と考えます。病人が起き上がれない原因は、その人が罪を犯して、神の怒りを受けたからで、まだ癒やされていないのに、神の赦しを宣言するのは、あり得ないと思ったからです。
皆さんも、自分が病気になったのは、罪を犯して、罰を与えられたからだと考えたことがあるかもしれません。病気が治ったら、神様に、罪を赦してもらえたんだと感じられるかもしれません。反対に、病気が治らないのは、罪を赦されてないからで、神様が、まだ怒っているからだと考えるかもしれません。
しかし、そのような考えをしていると、イエス様は、「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と言われます。「神様はまだ、自分を赦す気はないんだ」と考えてしまう私たちへ、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と命じます。体が麻痺していた人は、その言葉を聞くと、本当に起き上がり、家に帰って行きました。
次に、イエス様はそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と呼びかけます。彼はすぐに立ち上がって、イエス様に従い、自分の家へ連れていき、食事に招待しました。彼の仲間であった徴税人や罪人も大勢やって来て、イエス様や弟子たちと、同じテーブルに着きました。
けれども、ファリサイ派の人たちはこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難します。収税所にいたマタイのように、ローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を集める徴税人は、神様を裏切っている罪人で、関わってはならないと思われていたからです。
皆さんも、キリスト教を信じていたら、神様を礼拝する日曜日は、仕事を休んで礼拝に出るべきなのに、生活のため、仕事を優先してしまうとき、自分は神様を裏切っていると考えるかもしれません。日曜日、なかなか礼拝へ出られないのに、信仰者を名乗ることは間違っていると感じてしまうかもしれません。
しかし、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言って、彼らと食事を続けます。同胞のユダヤ人から「汚れた者」とみなされて、神殿で礼拝することのできなかった徴税人や罪人は、自分たちの家が、イエス様の訪れる「神の家」へと変えられていきました。
さて、病人を癒し、罪人を迎え、ひと段落したイエス様に、今度は洗礼者ヨハネの弟子たちがやって来ました。彼らは「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と訴えてきます。断食は、神様の前で罪を償う姿勢を示し、ユダヤ人は年に何日も断食を守り、悔い改めを表していました。
洗礼者ヨハネも、神様の約束された救い主を迎えるため、人々に悔い改めの洗礼を授けてきた人物です。そのため、ヨハネの弟子たちも、救い主に受け入れられるよう、悔い改めて、罪を赦されるように、断食を繰り返していました。ところが、ヨハネが「この方こそ救い主だ」と教えたイエス様は、弟子たちに悔い改めの断食を求める様子がありません。
弟子たちの中には、マタイのように徴税人だった者や、神の掟である律法を守れなかった者もたくさん居たのに、イエス様は彼らに断食させて、悔い改めを表すように求めません。それどころか、病人を見て、すぐに罪の赦しを宣言し、罪人と呼ばれる人たちと、平気で食事を共にします。
ヨハネの弟子たちは、救い主を迎える用意のなかった人たちが、罪の赦しを受けられる準備のなかった者たちが、イエス様に呼びかけられ、迎えられていくのを見て、激しく躓いてしまいました。「さっきまで、ユダヤ人を苦しめていた徴税人を赦すんですか?」「弟子として迎え入れるんですか?」「彼らは悔い改めて、罪を償ったと言えるんですか?」
皆さんも、自分が本当に悔い改めたのか、キリストの弟子にふさわしい者となったのか自信を持てないことがあるかもしれません。一年の始まりから、聖書の言葉に躓いたり、礼拝に行きたくないと思ったり、新しいことを始める気持ちになれなくて、本当は何か、自分を罰する必要があるんじゃないかと考えてしまうかもしれません。
しかし、イエス様は「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と語って、自分があなたと共にいる今、受け取ってほしいのは喜びだと訴えます。自分の身内として、友として、婚礼に呼んでもらえたのに、呼んでもらえなかった者のように、赦しを得られなかった者のように、悲しく振る舞わないでほしいと語ります。
そう、イエス様は「あなたの罪は赦される」と宣言した者たちに、悔い改めを求めるとき、ゴールで待っている方ではなく、一緒にスタートする方でした。横になっていた者と共に起き上がり、座っていた者と共に歩き始め、孤独だった者と共に食事をして、神の国へとたどり着くよう、付き合い続ける方でした。
イエス様は、自分が一緒に居ないかのように、赦すつもりがないかのように、私たちが振る舞うことを望みません。既に、イエス様の身内として迎えられたのに、まだ迎えられてないかのように振る舞うことは、救いを信じる信仰を育むどころか、救いが潰える恐怖を育ててしまいます。
「誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ」「誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる」……そう、イエス様のたとえは、もはや、あなたが古い者ではなく、新しい者に変えられたことを告げています。古い感覚に捉われず、新しい生き方をするように促します。
イエス様から「子よ、元気を出しなさい」と聞いたあなたは、元気を出したらいけない者ではありません。イエス様から「わたしに従いなさい」と聞いたあなたは、仲間になったらいけない者ではありません。イエス様から「婚礼の席に着きなさい」と聞いたあなたは、その席に着いたらいけない者ではありません。
新しい一年の始まりに、上手くスタートできなくて、さっそく躓いている方は、自分をゆるせなくなっている方は、一緒に神の祝福を受けてください。イエス様のもとに集まった病人に、罪人に、弟子たちに与えられた、一切れのパンを受け取ってください。共に、新しい力を受けて、送り出されて行きましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌6番「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
愛 餐
本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。
讃美歌
マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。冊子の8頁です。御着席のままで大丈夫です。
食卓への招き
かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」
また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」
主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。
信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげます。
恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。
様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。
配 餐
共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。
本日、礼拝に来られているお子さんや学生も、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。係の方は、前へお越しください。(パンと水を配る)
分かち合い
ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。
主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。
主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげましょう。
愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。
足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
私たちの神様。ここにささげた献金を、あなたの心に適う形で用いることができますように。教会の働きと私たち一人一人の良心をこれからも導いてください。そして、あなたの栄光が、ますます豊かに現され、神の国の平和が告げ知らされますように。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。(イザヤ書43:18〜19a)
祝 福
主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩編121:7〜8)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先日の日曜礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された8名、計24名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
本日礼拝後、2階集会室で、牧師の作ったぜんざいを振る舞う予定です。よかったらぜひ、お召し上がりください。なお、来週、再来週の聖書研究祈祷会は、牧師の休暇と出張のため、お休みです。
次回の水曜日の聖書研究祈祷会は、1月22日の午後1時半から2時半に予定しています。来週の日曜日の新年礼拝は、いつもどおり、1月7日の10時半から11時半に行います。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。