ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『犠牲になった子どもたち』マタイによる福音書2:13〜23

日曜礼拝 2025年1月5日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。(エレミヤ書31:16)

 

讃美歌

旧讃美歌531番「こころの緒琴に」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今年最初の日曜日を迎えました。昨年も一年間、私たちを守り、導き、支えてくださったことを感謝致します。どうか今、2025年も、あなたの導きによって、新たに歩んでいくことができますように。

◆私たちの神様。冬休み中の子どもたちや保護者、先生やスタッフの上に、あなたのお守りがありますように。どうか今、新学期を健やかに迎えることができるよう、それぞれの安心できる居場所と関係を整えてください。

◆私たちの神様。病気や怪我、障害や衰えのため、弱っている人たちと、その家族、治療する医療従事者の上に、あなたの助けがありますように。どうか今、痛みや不安が和らいで、希望と喜びを受け取れるよう、私たちみんなを用いてください。

◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書2:13〜23の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編70:1〜6(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の268番「朝日は昇りて」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Welcome to All ! ツによるPixabayからの画像

メッセージ

 子どもの頃、旧約聖書の話で、ずっと引っかかっていたことがありました。有名な出エジプトの物語で、イスラエル人を奴隷にしていたエジプト人が、神様から十の災いを受ける話です。その最後の災いで、多くの子どもたちが犠牲になります。なんと、エジプト人の家で、最初に生まれた子どもたちが全員死んでしまったんです。

 それは、イスラエル人を奴隷から解放し、この国から去らせてほしいという頼みを、エジプトの王ファラオが頑なに拒んだからでした。神様は、最後の災いを下すとき、イスラエル人が災いを受けないように、彼らの家の入り口に小羊の血を塗って、印をつけるよう命じます。入り口に血を塗ってある家は、災いを受けなくて済むと語られました。

 けれども、エジプト人はそのことを知らなかったので、どの家も、入り口に小羊の血を塗ってはいませんでした。真夜中になると、王座に座しているファラオの子どもから、牢屋につながれている捕虜の子どもまで、また、家畜の子どもまで、最初に生まれたエジプトの子は、ことごとく死んでしまいました。

 まさに大量虐殺(ジェノサイド)です。しかも、犠牲になったのは多くの子どもです。神様がこんな展開を望むなんて、信じられません。おそらく皆さんの中にも、ずっと引っかかっていた人がいるはずです。イスラエル人の中にも、「いくらエジプト人であっても、子どもの命が犠牲になるのは間違っている」と思う人がいなかったのか疑問です。

 確かに、イスラエル人は、ファラオによって、「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と命じられ、先に、自分たちの子どもを殺されていました。しかし、だからと言って、敵の子どもたちが死ぬことも、当然のように、受け入れてしまったんでしょうか?

 「このままじゃ、あなたの家の子は死んでしまう」と、エジプト人の親たちに、家の入り口へ血を塗って、災いを避けるよう、教えた人はいなかったんでしょうか? 神様に向かって、「いくらエジプト人でも、子どもの命に手をかけるのはやめてください」と、執り成す人はいなかったんでしょうか?

 神様に選ばれ、イスラエル人を率いたモーセも、エジプト人の子どものために、何の執り成しもしなかったんでしょうか? 彼は、幼い頃、ファラオの命令で、ナイル川に捨てられますが、ファラオの王女に拾われて、王女の子として育てられました。モーセという名前は、エジプトの王女が、自らつけてくれた名前でした。

 彼にとって、エジプト人は、同胞を虐げる敵でありつつ、自分を救ってくれた王女の民でもありました。また、モーセ自身も、ファラオの家臣や一部のエジプト人から、大いに尊敬を受けていました。さらに、神様は、最後の災いを下す前に、イスラエル人に、エジプト人の好意を得させ、金銀の装飾品を分けさせるほど、その仲を取り持っていました。

 本当に、エジプト人の初子を滅ぼす展開を、神様は望んでいたんでしょうか? 本当は神様がイスラエル人に期待したのは、自分たちの子どもだけ、助かるようにすることではなく、エジプト人の子どもたちも、犠牲にならないよう、彼らのために執り成して、関係を回復し、和解に至ることだったんじゃないだろうか?……そんなふうに思うんです。

 けれども、イスラエル人の中で、エジプト人の子どものために、神様へ執り成す者は現れません。エジプト人の中で、イスラエル人の子どものために、王へ執り成す者がいなかったように……残念ながら、新約聖書でも、このような歴史が繰り返されます。しかも、今回は、ユダヤ人の王ヘロデによって、ユダヤ人の子どもたちが殺されるんです。

 先ほど読んだ、マタイによる福音書では、2章の後半に、生まれたばかりのイエス様がヘロデ王に命を狙われ、ヨセフとマリアに連れられて、エジプトへ逃げたことが書かれていました。ヘロデ王は、自らの保身のため、妻をはじめ、身内の者6人、息子3人を殺してしまったと言われるほど、王という地位にしがみついていた人間です。

 一方で、信心深い面もあり、エルサレム神殿を立派に建て直したり、洗礼者ヨハネの話を熱心に聞いたりするところもありました。東方から来た博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探していると言ったときも、すぐに、「神様が約束していた救い主が生まれたのだ」と確信して、祭司長や律法学者を問いただしたほどでした。

 実は、誰よりも救い主メシアの誕生を素直に信じ、神の教えを熱心に尋ね、神殿を大事にしようとした、ユダヤ人の一人でもあったんです。にもかかわらず、彼は、王位を失うことを恐れ、待ち望んでいたはずの救い主を殺そうとします。ヘロデ王は、博士たちをベツレヘムへ送り出し、見つかったら教えるようにと命じました。

 ところが、星に導かれて、生まれたばかりの救い主を見つけた博士たちは、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げを受けたため、別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきます。ヘロデ王は、占星術の学者たちが自分を騙し、メシアの居場所を告げずに帰ってしまったことを知って、大いに怒り、なりふりかまわない行動に出ました。

 それは、メシアが生まれることになっている、ベツレヘム周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させるという暴挙でした。再び、大量虐殺です。今回も、子どもたちのために、王を止めようと執り成す者は現れません。メシアの居場所を聞かれた祭司長も、律法学者も、ヘロデ王の言いなりです。

 そんなとき、救い主の命を守るため、避難場所として示されたのは、かつて、多くの子どもたちが虐殺された、エジプトという国でした。イスラエル人の子どもたちも、エジプト人の子どもたちも、執り成しを受けることができなかった、死んでいくまま見捨てられた、悲惨な土地でした。災いを受けた、神に呪われた土地と思われていたかもしれません。

 しかし、その国が、救い主の家族を匿い、助ける場所として用いられます。災いを受けたエジプトの国は、災いを受けたままにはされず、神との関係を新たに結ばれ、救い主を迎える国に変えられます。神の民の執り成しを、受けられなかった子どもたちは、神の独り子の身内として、天で執り成される仲間となりました。

 後に、成人したイエス様は、子どもを連れてくる人々を叱った弟子たちに言いました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」それは、執り成しを受けられずに亡くなった、エジプトの、イスラエルの、ベツレヘムの子どもたちを、意識した言葉だったかもしれません。

 あの日、守ってもらえなかった、犠牲になった子どもたちを、神様は決して放置しない。天の国はこのような者たちのものである。わたしのところに来るのを妨げてはならない。弟子たちが追い払おうとした子どもたちに、手を置いて祝福したイエス様は、虐殺された子どもたちのことも、きっと忘れずにいたでしょう。

 現在、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区にあるベツレヘムは、パレスチナ・ガザ地区での戦争のため、クリスマスの祝祭が2年連続で中止されています。通常なら、広場の真ん中に置かれたはずのクリスマスツリーも、あちこちから聞こえてきたはずのクリスマスキャロルもありません。

 代わりに、大きな岩と有刺鉄線に囲まれて、キリストが降誕する場面を表現した展示物が置かれていました。ガザ地区の子どもたちにささげるものです。しかし、パレスチナとイスラエルの戦争が止まる気配はありません。ハマスによる攻撃も、イスラエル軍による報復も、犠牲にしている市民の大半は子どもです。

 本来、子どもたちが犠牲にならないよう、ヘロデ王を、ファラオを止めて、神様に執り成すことが期待されたのに、そうしなかった大人の歴史が、ここでも繰り返されています。ユダヤ人の味方をするか、アラブ人の味方をするかの話ではありません。戦争を続ければ、子どもたちが犠牲になります。虐殺を止めなければなりません。

 どんなに、イスラエルの復興を信じていても、律法の話に熱心でも、神殿の奪回が大事でも、犠牲になった子どもたちを顧みないなら、ヘロデ王と同じです。救い主を殺そうとして大虐殺を引き起こした、あの暴君と同じです。自分が味方したい人たちのことしか考えないなら、ヘロデ王を止めなかった、祭司長や律法学者と同じです。

 新しい年を迎えました。私たちは今、どこに立っているでしょうか? ヘロデのところへ帰ろうとする道でしょうか? それとも、「子供たちを来させなさい」と両手を広げる、イエス様が待つ道でしょうか? 神様の「立ち帰れ」という声が聞こえてくるなら、今こそ、新しく出発するときです。

 何度も立ち止まり、同じことを繰り返してしまう私たちに、語りかけ続ける神様の声に耳を澄ましていきましょう。荒れ野に水を溢れさせ、砂漠に川を置く方が、既に、私たちの前に、道を作っていることを思い出しましょう。イエス様の執り成しは、あなたを、私を変えていきます。新しいことは今も起こっています。ここに、今ここに……。

 

讃美歌

オンライン賛美歌6番「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、福音書は伝えています。主は十字架につけられる夜、残される人々のために杯を取り、彼らと共に飲んで教えました。神の国で、あなたがたと共に、新たに飲むその日が来ると。この食事は、やがて来たる神の国で招かれる、主の食卓の先取りです。

 

主は、救いを信じて待ち望む者に、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない方、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。(コリントの信徒への手紙二1:7)

 

祝 福

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への手紙二13:13)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された8名、計24名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

また、1日の元旦礼拝には、教会に集まった15名、同時に視聴された14名、計29名が参加され、礼拝後に2階集会室にて、みんなでぜんざいをいただきました。お集まりいただき、感謝致します。

 

今週8日(水)〜15日(水)まで、柳本牧師は休暇と出張のため不在です。今度の日曜日は、隠退教師の鈴木重正先生が『主イエスの受洗』と題して、マタイによる福音書3:13〜17のお話をしてくださいます。水曜日の聖書研究祈祷会はお休みです。

 

何か緊急の連絡がある方は、牧師のメールか電話までお願いします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。