オープン礼拝 2025年2月2日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。(ハバクク書2:20)
招詞(招きの言葉)は、礼拝に集まった人たちへ神の招きを告げる聖句です。基本的に、聖書箇所までは読み上げません。この言葉は、その日の教会暦やメッセージに即したもの、あるいは、聖書日課で指定されている聖書箇所から選ばれます。
讃美歌
旧讃美歌531番「こころの緒琴に」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。
最初の讃美歌は、神の招きに対する応答の賛美です。礼拝委員会で季節毎にふさわしいものを選びます。最後についている「アーメン」は「本当にそうです」「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語で、賛美歌を入れる順序や訳詞によって、つける場合とつけない場合があります。讃美歌は立って歌われることが多いですが、しんどい方は座ったままでも大丈夫です。差し支えない方は、お立ちください。共に賛美を合わせましょう。
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
開会の祈祷は、神の前に立った会衆が聖書の言葉を受けとめる準備をします。たとえば、自分たちの罪を告白し、神様に憐れみを願い、神による罪の赦しを聞き、神の栄光をたたえて、聖霊の導きを求めます。最後の「アーメン」という言葉は「本当にそうです」「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語で、司会も会衆も、祈りを合わせる全員で声に出します。共に、祈りを合わせましょう。
呼びかけ
◆希望の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
罪の告白
◆私たちの神様。私たちはこの一週間、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。
憐れみの賛歌(キリエ)
◆私たちの神様。私たちはこの一週間、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、変化と回復をもたらしてください。特に、一人ではどうにもできない関係性や環境に、新しい展開をもたらしてください。
赦しの言葉
◆私たちの神様、あなたは心から悔い改め、あなたに立ち帰る全ての人を赦してくださいます。どうか今、ここに連なる一人一人をあなたが憐れみ、全ての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてください。全ての者が、あなたの家へ帰れるよう、導いてください。
頌栄(グローリア)
◆私たちの神様、あなたは後悔する者に癒しを、責める者に希望を与えてくださいます。本来なら、恵みを受け取れない者が喜べるように、変化と回復をもたらします。どうか今、天の上にも地の上にも、あなたの栄光が現されますように。
聖霊の導きを求める祈り
◆私たちの神様。あなたは心に平安をもたらし、大切な言葉を与えてくださいます。どうか今、心を乱す様々な事柄に惑わされず、あなたの声を聞かせてください。これからのち、新しい人として主に仕え、あなたの栄光を現すことができますように。
結び
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書4:12〜17。
聖書朗読は、神の語りかけを聞くときです。主に聖書日課で指定されている【旧約】【使徒書】【福音書】の中から選ばれます。礼拝の中心は神の言葉なので、できるだけ、この3つ全てを読むことが望ましいです。
どれかを省略しなければならないときは、クリスマス前の日曜日には【旧約】が、クリスマスからペンテコステ前までは【福音書】が、ペンテコステからアドヴェント前までは【使徒書】か、それに準ずる新約の文書が、なるべく読まれるようにしています。聖書についている見出しは箇所を見つかりやすくするもので、礼拝の中では読み上げません。今回は従来の新共同訳と、新しく翻訳された聖書協会共同訳から、同じ聖書の箇所を朗読します。
マタイによる福音書21:12〜16の新共同訳。会衆席にある新約聖書の40頁です。
同じく、マタイによる福音書21:12〜16の聖書協会共同訳を朗読します。新約聖書の39頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編84:1〜13(新共同訳交読詩編より抜粋)
交読文は、聖書の言葉を聞いた会衆が祈りへ導かれるように、詩編の言葉を司式者と会衆で交互に唱えていくものです。詩編の箇所も、聖書日課で指定されているものを選んでいます。『交読詩編』か、交読詩編付きの『讃美歌21』を持っている方は、一段下がったところと太字のところをお読みください。司式者は、会衆が読むところを間違えないように、テンポよく読むようにします。詩編84:1〜13
讃美歌
讃美歌21の99番「主イェスよ、われらの」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。
メッセージ前の讃美歌は、神の言葉を受けとめるため、教会暦や聖書箇所に即した歌が選ばれます。今回は、私たちの祈りを確かに聞いてくださる主イエスの希望を歌って、メッセージを聞く準備をします。讃美歌21の99番。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
本日は、「祈りの家と強盗の巣」と題して柳本伸良牧師にメッセージをしていただきます。
メッセージは、朗読された聖書の意味を解き明かし、神の言葉を受けとめる時間です。「説教」や「宣教」とも呼ばれます。牧師は、聖書箇所の文脈や出てくる単語の意味を調べ、現代の会衆に語られているメッセージを伝えます。教会の信徒が信仰に至ったきっかけや、聖書の言葉に助けられた体験を話す【信仰の証(奨励)】をする場合もあります。本日は、牧師からメッセージをさせていただきます。
神の子イエス・キリストが、父なる神に犠牲をささげる神殿の境内で、大暴れした話。それが「宮清め」と呼ばれる一連の出来事です。イエス様の生涯を記した4つの福音書すべてに出てくる話ですが、そのうち3つの福音書で、イエス様がエルサレムに入った当日もしくはその翌日には、もうこの事件を起こしていたことが記されます。
神様を礼拝する場所で、そこにいる人々を追い出したり、台や腰掛けを覆したり、優しいイエス様のイメージには、似合わない行動が描かれます。何か嫌なことでもあったのかと思いきや、直前には、大勢の群衆がイエス様を出迎え、歓迎していたことも書かれていました。普通は、機嫌が悪くなるどころか、むしろ良くなるシーンです。
何をそんなに怒ったのか気になっている私たちへ、イエス様はこんな言葉を残します。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」……それは、ユダヤ人でない異邦人にも、救いをもたらす神様の約束が告げられた、預言者イザヤの言葉を思い出させる台詞でした。
「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」……つまり、異邦人にとっても、神様に犠牲をささげて受け入れてもらう礼拝は、大切なものでした。
けれども、それなら逆に、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したイエス様の行動は、人々を困らせることになります。たとえば、皇帝を神のように表現した銘文が刻まれているローマの貨幣を、本当の神様にささげる献金へ用いるわけにはいかないため、神殿で献金するには、両替をする必要がありました。
また、神様へささげる犠牲には、傷のない動物を用いることが求められますが、遠方から来る参拝者に、山羊や羊や鳩などを無傷で連れてくるなんて、ほぼ不可能なことでした。そのため、犠牲に用いる動物が、神殿の前で売られているのは、自力でそれらを用意するのが困難な人のためでもありました。
つまり、両替人や鳩を売る者が追い出されるのは、礼拝で使う聖書や讃美歌を貸し出している受付の人が追い出されるくらい、とんでもないことでした。しかも、神への犠牲に鳩をささげる人たちは、山羊や羊を買うことのできない、最も貧しい者だったので、鳩を売る者が追い出されて困るのも、貧しい人たちだったんです。
そして、よく見ると、イエス様が神殿の境内から追い出したのは、そこで商売をしていた人たちだけではありません。神様に犠牲をささげるために、そこで必要なものを買おうとしていた人たちも、一緒に追い出されていました。売る者も買う者も、両方追い出されてしまう。しかし、両者の売買を禁じたら、そもそも神殿での礼拝が成り立ちません。
「神聖な場所が、金儲けに使われていることを批判した」というイメージが強い場面かもしれませんが、神殿で犠牲をささげに来た人たちが、この行動を歓迎するとは思えません。せっかくエルサレムまでやって来たのに、イエス様のせいで、犠牲用の動物を買うことも献金のための両替をすることもできなくなり、礼拝そのものが困難になったからです。
にもかかわらず、境内には、イエス様のそばへ寄ってくる人たちが現れます。他の福音書では、夢中になってイエス様の話に聞き入り、その教えに心を打たれる人々も出てきます。境内で売り買いしていた者たちが皆、追い出されたのなら、この人たちは、いったい何者だったんでしょう?
犠牲にささげる動物を買うことも、献金のための両替をすることもなく、神殿の境内に集まって、イエス様から追い出されなかったのは、どんな人たちだったんでしょう? それは、神殿の境内から、それ以上中に入れない、神殿で犠牲をささげること自体が許されていない人たちでした。
実は、ここで言われている「神殿の境内」とは、おそらく「異邦人の庭」と称された、神殿の最も外側の部分と言われています。神殿の中央には大祭司のみが入れる「至聖所」があり、その外側に、ユダヤ人の男性のみ入ることを許された「イスラエル男子の庭」があり、さらに外側に、ユダヤ人の女性までが入れる「イスラエル婦人の庭」がありました。
ユダヤ人でない異邦人も入ることができる「異邦人の庭」はもっと外側で、ユダヤ人のみが入れる庭とは柵で仕切ってありました。そこには、異邦人が柵を越えて中に入れば、その者を死刑に処すという警告の板も立てられていました。つまり、異邦人はユダヤ人のように、神殿の中へ入って犠牲をささげること自体、できなくされていたんです。
また、同じユダヤ人であっても、目の見えない人や足の不自由な人たち、障害のある人たちは、その状態が治らない限り、神様に犠牲をささげる祭儀にふさわしくないと判断され、礼拝に参加することが許されませんでした。そのため、彼らも異邦人の庭から先に入ることができず、一番外側の庭で、癒しを求めるしかありませんでした。
さらに、子どもの場合も、大人のように、中まで入れてもらうことはできず、途中の庭までしか入ることができませんでした。現代の教会では、「教会学校」や「子どもの教会」という礼拝がありますが、かつてのイスラエルに、子どものための礼拝なんてありませんでした。門の外で待つしかありません。
神様に犠牲をささげる所まで入っていくことが許されない、異邦人や子どもたち、障害のある人たちは、犠牲用の動物を買うことも、献金のための両替をすることもなかったでしょう。それらを購入しようとすれば、「あなたが祭儀に加わることは許されない」と門前払いを食らったでしょう。
しかし、イザヤの預言でも語られたように、神様は異邦人に対し、「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す」と言っていました。「彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる」と言っていました。
にもかかわらず、異邦人が献げ物といけにえをできないように、祭儀に加わることができないように、境内は仕切られ、ユダヤ人のみに売り買いされ、神殿は「すべての民の祈りの家」とは呼べない状態になっていました。「異邦人の庭」は、異邦人が祈りの輪へと加えられる場所ではなく、祈りの輪から弾かれる、境界線のようになっていました。
けれども、イエス様が神殿で売り買いしていた人たちを追い出すと、「礼拝の外側」だった「異邦人の庭」が「神への賛美をささげる場所」「まことの礼拝をささげる場所」に変えられます。祭儀に加わることが許されなかった、目の見えない人や足の不自由な人は癒やされて、子どもたちはイエス様を神に遣わされた王として褒め称えます。
祭司長や律法学者は、イエス様が「ダビデの子にホサナ(王様ばんざい!)」と言われているのを聞いて、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか?」と責め始めます。ローマ帝国に立てられた傀儡の王を差し置いて、神殿で新しい王の登場を宣言すれば、帝国への叛逆を起こしたと捉えられ、神殿がどうなってしまうか、分かったもんじゃないからです。
しかし、イエス様は堂々と「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」と返します。それまで、祈りの場所を奪われた「強盗の巣」だった境内は、今こそ、締め出されていた人たちへ、賛美の歌を歌わせる「祈りの家」へ変えられたんだと、力強く宣言します。
現在、世界中の教会でも、外国の人や異民族との間に壁を作り、外へ追い出そうとする姿勢が、一部の人たちに力強く支持されています。親と子どもが引き離されるのもかまわずに、同じ空間に入れてはならないと、ものすごい勢いで、排除されていく人たちがいます。まさに、大きな「強盗の巣」ができているように感じられます。
もう一度、「すべての民の祈りの家と呼ばれる」場所を回復するため、あのとき怒りを表された、イエス様の姿を思い出しましょう。私たちが一緒に居ることを拒んでいる相手が「祈りの家」を作る、隣人の一人であることを思い出しましょう。目の見えない人、足の不自由な人、異邦人、子どもたちを招くこの方に、あなたも今日呼ばれたからです。
讃美歌
オンライン賛美歌14番「奮い立て貧しい民よ」(©️柳本和良)を歌います。
メッセージ後の讃美歌は、神の言葉を締めくくるのにふさわしい歌を歌います。今回は、泣いている者、凍えている者、傷ついている者と一緒に立ち上がるため、私たちを必要としてくださった、キリストの呼びかけを受けとめる賛美を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Bです。オンライン賛美歌の後ろの方の3頁をご覧ください。
使徒信条は、神の言葉に共鳴して、教会の信仰を告白するキリスト教会共通の信条です。信仰者が何を信じているのか表す便利な要約となっており、一人一人が自分の口で、神様と、イエス様と、聖霊について、集まった人たちに伝える時間でもあります。
その性質上、初めて来た人にも分かる言葉で告白するのが望ましいです。華陽教会では、今も文語の使徒信条を使っていますが、今回は、初めて来た人や、子どもたちにも分かりやすい口語訳で、信仰を告白したいと思います。『讃美歌21』の93-4Bか、オンライン賛美歌の後ろの方の3頁をご覧ください。使徒信条。

紹 介
華陽教会では、その日、初めて教会に来た方や、久しぶりに礼拝へ集まった方を意識して「とりなし」と「祝福」を行います。それは、この礼拝につながった全ての者が、神の民として招かれた隣人であり、新たに加えられた仲間だからです。
みんなの前で紹介されるのを遠慮したい方は、受付の新来者カードの記入欄で「紹介されるか/されないか」を選ぶことができます。連絡先や住所の記入欄は、緊急時の連絡先や集会案内などを希望される場合に使うもので、書いても書かなくても大丈夫です。
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
とりなしの祈りは、自分自身がイエス様のとりなしによって助けられていることを覚え、今度はこちらから、周りのため、世界のために、神様へとりなす祈りです。お祈り毎に、沈黙を挟むので、皆さんも、それぞれ思い浮かぶ人のためにお祈りください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
主の祈りは、神の国でイエス様と共に食卓に着く日を待ち望み、キリストの十字架と復活を思い起こす「聖餐式」(パンとぶどう液をいただく式)の準備をする祈りです。イエス様が「祈り方の基本」として弟子たちに教えたものであり、現代でも、どう祈ったらいいか分からない人へ、最初に教えられる祈りでもあります。「祈り方の基本」を伝えるものでもあるため、なるべくみんなに分かる言葉を用いることが望ましいです。華陽教会では、今も文語訳を使っていますが、今回はオンライン賛美歌4頁右側の『日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳』を祈りましょう。

愛 餐
本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。愛餐式とは、キリストが神の国のしるしとしてなされた5千人の給食を根拠にした「神の祝福を分かち合う食事」です。モラヴィア派の人々やメソジスト教会の各家庭で、かつては盛んに行われていたものでした。
信仰を告白した人が、信仰者であり続けるための「聖餐式」と違い、洗礼を受けていない人もあずかることができるので、現在もカトリックとプロテスタントの教派を超えた礼拝や、洗礼を受けていない人が多く集まる地区・教区の新年礼拝などで用いられています。
配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。
讃美歌
讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。御着席のままで大丈夫です。
食卓への招き
かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」
また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」
主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。
信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげます。
恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。
様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。
配 餐
共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。
本日、礼拝に来られているお子さんや学生も、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。係の方は、前へお越しください。(パンと水を配る)
分かち合い
ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。
主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。
主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげましょう。
愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。
足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額の定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金は、神の恵みに対する感謝の応答です。自分の生き方を神にささげるしるしとして、献げ物を行います。初代教会では、信徒一人一人がパンや飲み物を持ち寄って祭壇にささげ、集まった食事を生活に困っている人たちへ分け与えていました。そのとき集められた一部を聖餐に用いたため、献金と聖餐は、本来セットで行われます。
現代では、集めた献金を教会の維持や運営のため、牧師の謝儀(給与)のため、地区・教区・教団の働きのため、福祉や慈善活動のために用いています。あくまで「恵みに対する感謝」としてささげるものなので、金額に定めはありません。
どうしても献金の目安が欲しい方は「2人でお茶やお菓子を分けられるくらい」あるいは「2人でご飯を分けられるくらい」の気持ちで考えていただけたらいいと思います。献金の後、係の方が祈りをささげますが、書いたものを読んでもらって大丈夫です。
献金の祈り(例)
命の源である神様。あなたの愛に感謝して、私自身をあなたにささげます。今、ささげた献金を感謝のしるしとして受け取ってください。このお祈りをイエス様のお名前によっておささげします。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

最後の讃美歌は、会衆が神の栄光をたたえて、礼拝から送り出されていくものです。神の栄光をたたえる「頌栄」の讃美歌が選ばれる他、祝福との関連で「派遣」をテーマにしたものが選ばれます。季節毎に礼拝委員会で話し合って決められます。お立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派遣の言葉と祝福は、会衆一人一人が、神様の愛を示していく生き方ができるように、神の祝福を宣言して、日常へ送り出すものです。祝福の間、目を閉じなければならない決まりはありません。
できれば、互いに祝福し合う気持ちで、顔を上げていただけると嬉しいです。なお、体の不自由な方やしんどい方は座ったままで大丈夫です。立っている方も、牧師が祝福を宣言し、両手を合わせた後は、静かに座っていただいて、後奏に耳を澄ませてください。
派 遣
わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。(マタイによる福音書21:13c)
祝 福
主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった18名、同時に視聴された16名、計34名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
本日は、オープン礼拝として、前奏から後奏まで一つ一つの要素を確認しながら、恵みを分かち合わせていただきました。この後、軽食を挟んで教会への要望や質問、総会で取り上げてほしいことなど、お茶を飲みながら話し合う「教会懇談会」を開きます。
華陽教会に通っておられる客員や求道者の方も参加できます。午後1時に終わる予定なので、時間のある方はぜひ、ご参加ください。なお、来週の日曜礼拝は、日本国際ギデオン協会岐阜支部のメンバーにお越しいただき、信仰の証し(奨励)をしていただきます。
その翌週、16日の日曜日は、片桐多恵子さんによる信徒立証礼拝を行う予定です。それぞれ、お話くださる方々のためにお祈りください。また、今月23日の日曜日、午後2時から3時半に、ピアノ奉献コンサートを行います。
ドイツから加藤るみさんにお越しいただき、昨年教会へささげられたピアノの演奏をしていただく予定です。地域の方も自由に参加できるので、ぜひ、知り合いや家族を誘って、お越しいただけると嬉しいです。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。