日曜礼拝 2025年3月9日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
消 灯
本日は、受難節第1週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を1本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(ヤコブの手紙1:12)
讃美歌
旧讃美歌515番「十字架の血に」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆命の造り主である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める、受難節第1週目を迎えました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、その関係を回復することができるように、必要な変化をもたらしてください。
◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り6週間となりました。どうか今、とりかえしのつかない傷を抱えた全ての人に、あなたの憐れみが豊かに注がれ、新しい希望と喜びを受け取る準備ができますように。
◆私たちの神様。洗礼を受けたいと願っている人、洗礼について考えている一人一人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、招かれた者と迎える者が、互いに恵みを受け取って、豊かに分かち合えるよう、今この時を導いてください。
◆私たちの友なる主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書4:1〜11の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書4頁です。
もう一箇所、マタイによる福音書4:1〜11の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書4頁です。お持ちでない方は新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編91:1〜16、新共同訳交読詩編の105頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の284番「荒れ野の中で」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
聖書には、神の子であるイエス様が、洗礼を受けた直後、悪魔から誘惑を受けた出来事が描かれています。神の子なのに、洗礼を受けた直後なのに、悪魔から誘惑を受けるなんて、何だか奇妙に感じます。イエス様が洗礼を受けた際には、天から神の霊が降ってきて「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言までされました。
にもかかわらず、イエス様は悪魔を避けることができず、むしろ、荒れ野をさまよって悪魔に接近してしまいます。普通、聖霊に満たされたら、神の霊が降ってきたら、悪魔に接近しないよう、誘惑から遠ざけてもらえると思うでしょう。しかし、イエス様に降った霊は、反対に、悪魔の試みを受けるよう、イエス様を荒れ野に導いてしまいます。
しかも、40日間断食して、空腹の状態にさらされます。人は、水分の補給さえあれば、絶食状態でも、2ヶ月ほど生きられると言われています。しかし、荒れ野には、水も十分ありません。40日間じっとしているならまだしも、霊に導かれて、荒れ野をさまよい続けたら、疲労も限界に達するでしょう。まさに、極限状態です。
そんな中、「誘惑する者」「試みる者」が近づいて来て、「悪魔」との戦いが始まります。この状況、皆さんはどう感じるでしょう? もし、洗礼を受けたばかりの人が、荒れ野のような、困難の多いところへ追いやられたら……何の用意もさせてもらえず、助けてくれる知り合いもない、悲惨な状況に陥ったら……何の罰かと思いますよね?
せっかく、洗礼を受けたのに、自分には聖霊が降らなかったんだろうか? それとも、自分に降った聖霊が、離れ去ってしまったのか? 信仰が欠けているから、祈りが足りないから、神様に認めてもらえず、困難を退けることができず、望んでもいないのに、自ら苦しみを受けに行ってしまうのか? そのように感じてしまう人が、いるかもしれません。
また、自分のことじゃなくても、教会で洗礼を受けたばかりの人が、一ヶ月以上、礼拝に顔を出さなくなったり、多くのことに思い悩んで、苦しめられているのを見たら、「あの人はせっかく洗礼を受けたのに、信仰が薄いから、誘惑を避けることが、困難を退けることができないんだ」そのように考えてしまう人が、いるかもしれません。
しかし、「信仰があるなら、そうならないはずだ」「神の子とされた者なら、これができるはずだ」と、相手を試そうとする態度こそ「試みる者」「悪魔」と重なっているんです。一方で、「信仰があるなら、神の子とされているなら、言うとおりにやってみろ」と試されて、苦しみを受けてしまうとき、その人はまさに、イエス様と同じ道を歩んでいます。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」……悪魔からそう言われたとき、イエス様は40日間、昼も夜も断食し、十分な水もないところで、死んでもおかしくない状況でした。神の子なら、神に愛された信仰者なら、パンが与えられると信じ奇跡を祈り求めることは、当然のように見えました。
実際、イエス様が教えられた、祈り方の基本である「主の祈り」でも、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」「私たちの日毎のパンを、今日もお与えください」と願うことが勧められています。しかし、「神の子ならパンが与えられるはずだ」「パンが与えられるのを見せてみろ」と試みる者の挑戦に対し、イエス様は、祈りが聞かれるところを見せません。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」そう言って、奇跡が起こるかどうかで、神の子かどうか知ろうとする、神の子とされているかを試そうとする、そんな態度を退けます。これって、「勝負から逃げた」と言われそうですよね? 「祈りが聞かれないのが怖いのか!」と笑われそうですよね?
実は、イエス様が十字架につけられたときも「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」と笑われていました。本当に神が認めているのなら、神の子とされているのなら、馬鹿にしている我々を見返す奇跡を起こしてみろ! この挑戦を受けてみろ!……けれども、イエス様は挑戦を受けません。
「信仰的」に見えないかもしれません。「祈れば叶うと信じていない」姿に見えるかもしれません。洗礼を受けたのに、貧しさから解放されず、病気から回復できず、さらなる困難に襲われてしまう人たちも、あるところでは笑われます。信仰が足りないから、神の子とされてないから、願いを聞かれないんだろう? お前は神の子じゃないんだろう? と。
ところが、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から宣言された方、正真正銘、神の子であるイエス様が、笑われる者に示されます。「あなたこそ、神の子とされている私の兄弟、私の姉妹」「私の道を歩む者」と……荒れ野でパンを与えられず、十字架から降ろしてもらえなかった神の子が、あなたを笑う者を退けます。
神の子とされるのは、単純に奇跡を起こせる者ではありません。キリストの兄弟姉妹とされるのは、すぐに願いを叶えられる者ではありません。欲しているものが与えられず、期待した助けがもたらされず、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ者、「彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と笑われる者、聖人とは見なされない、なかなか信仰を見出されない……そんな人たちが、神の子とされてきたんです。
悪魔の挑戦は続きます。イエス様は、聖なる都に連れて行かれ、神殿の屋根に立たされて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と言われます。悪魔は聖書を引用し、「『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」……そう告げてきます。
確かに、交読文で読んだ詩編91編にも、「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る」と書いてありました。紛れもない聖書の言葉、神の言葉が告げています。聖書に書いてあるのだから、そのように願うのは正しいように思えてきます。
実際、人々の前で、自分が死の危険から守られる姿を見せられたら、それを見た人々も「神様は信じる者を守ってくれる」と確信し、信仰を得られるかもしれません。伝道のために、命の危険を顧みず、神様を信頼する様子こそ、信仰者にふさわしい、神の子とされた者にふさわしい姿と思われるかもしれません。
しかし、イエス様は「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言って、神が助けてくれるか試そうとする、危険な要求を退けます。神の子なら、神の子とされた信仰者なら、聖書に書いてあることを信じて実現しようとするのは当然だろう? 伝道のために危険を犯すことを厭わないのも当然だろう? そんな態度を退けます。
これって、「臆病者」と言われそうですよね? 「死ぬのが怖いのか」と笑われそうですよね? 実は、イエス様が十字架につけられる前、弟子たちと一緒にゲッセマネで祈られたときも、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と苦しみ悶え、「父よ、できることなら、この杯を(十字架の死を)わたしから過ぎ去らせてください」と願っていました。
「信仰的に」見えないかもしれません。復活を、永遠の命を「信じていない」ように見えるかもしれません。洗礼を受けたのに死を恐れ、危険を犯すことをためらう人たちも、あるところでは笑われます。信仰が足りないから、神の子とされていないから、恐怖を感じるんだろう? 危険を犯せないんだろう? と。
ところが、全ての人のために十字架にかかり、3日目に甦った方、正真正銘、神の子であるイエス様が、笑われる者に示されます。「あなたこそ、神の子とされている私の兄弟、私の姉妹」「私の道を歩む者」と……ゲッセマネで苦しみ悶え、血が滴るように汗を流した方が、あなたを笑う者を退けます。
最後に、悪魔は三度目の挑戦をします。一瞬でイエス様を非常に高い山へ連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ってきます。荒れ野から都まで、神殿から山の頂上まで、瞬時に移動させる様子は、紛れもなく超常的な力です。
「私はこのとおり、神から多大な権限を受けている。あなたはテストに合格した。最後に私に従うなら、あなたを神の子と認めよう」悪魔の囁きは、そんな呼びかけに聞こえてきます。確かに、神の言葉、聖書の言葉を引用することができ、世界を見渡せるほど高い場所まで瞬時に引き上げる力は、神様から権限を授かっている証のように見えてきます。
そのような存在に従って、自分も力を与えられることこそ、神様に仕えることのように思えてくるかもしれません。しかし、イエス様は、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って、神からの権限を装って、人の信仰を試す態度を退けます。
これって、間違えていたら怖いですよね? 「私に従わなければどうなるか、分かっているか?」と罵られそうですよね? もし、本当に神様から多大な力を与えられ、自分を試す権限を持っている相手だったら、その者に逆らうことは、神に逆らうことと等しいことになるからです。
実は、イエス様が敵に捕まって、裁判にかけられたときも、祭司長や律法学者から、「お前は神を冒涜した」「律法を、神の掟を蔑ろにした」と散々罵られました。神殿で働き、律法を教える指導者のような、神から権威を受けていると見なされている者たちから、激しい攻撃を受けました。
「信仰的に」見えないかもしれません。「大人しく、わきまえて、神に従ってはいない」ように見えるかもしれません。洗礼を受けたのに、牧師や司祭の言うことに疑問を持ち、抵抗しようとする人たちも、あるところでは罵られます。信仰が足りないから、神の子とされていないから、私に従えないんだろう? 神に逆らってしまうんだろう? と。
ところが、祭司長や律法学者を非難して、最後まで闘い抜いた方、正真正銘、神の子であるイエス様が、罵られ、否定される者に示されます。「あなたこそ、神の子とされている私の兄弟、私の姉妹」「私の道を歩む者」と……不利な証言をされても黙り続け、自分を否定しなかった方が、あなたを否定する者を退けます。
イエス様が悪魔から誘惑を受け、試された出来事は、あなた自身が笑われ、侮辱され、罵られるとき、「お前は神の子とされてない」と否定されるとき、「いいや、あなたは私と共にいる」「私の兄弟姉妹である」と、イエス様から呼びかけられ、自分が神の子とされていると、思い出させてくれる出来事です。
キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす、受難節第1週目……イエス様の復活を記念するイースターまで、あと6週間……共に今、あなたを神の子としてくださるイエス様の歩みを思い起こし、待ち望んでいた救いと恵みを、受け取る準備をしていきましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌19番「悲しみながら立ち去るとき」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題
御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」
年間主題
華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章24節を今年度の年間聖句にしています。
今週は、卒園・卒業する子どもたち、教会学校の子どもたちを覚え、新年度も新しく迎えるために、準備をしていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
憐れみ深い神様。私たちの生活の一部をおささげします。どうか、これらの献金を、困っている人のため、信仰生活を支えるため、教会の働きを続けるために用いてください。人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:19〜20)
祝 福
どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった名、同時に視聴された 名、計 名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜礼拝は『悪霊の内輪もめ?』と題して、マタイによる福音書12:22〜32のお話をします。なお、華陽教会ではイースター前の6週間、受難節の間に、洗礼を考えている人や受洗に興味のある人に向けて、受洗勉強会を行っています。
礼拝後に何もない日曜日や、聖書研究祈祷会後に何もない水曜日、第3金曜日のキリスト教ABC講座の後、その他、希望者と牧師の都合が合う日程で、随時、開催していますので、参加したい方は気軽にお申し出ください。
今のところ、4月2日(水)、4月3日(木)、4月16日(水)の14:30〜15:30に、受洗の学びを開催する予定です。それではまた、日曜日まで皆さん一人一人に神様の平和がありますように。