ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『離れてほしくない』マタイによる福音書17:1〜13

日曜礼拝 2025年3月30日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

消 灯

本日は、受難節第4週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を4本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。(ペトロの手紙二1:17〜18)

 

讃美歌

旧讃美歌515番「十字架の血に」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆赦しと和解をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める、受難節第4週目を迎えました。どうか今、悩みや苦しみを抱えている人、痛みを覚えている人に、あなたの癒しと慰めが、豊かにありますように。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り2週間となりました。どうか今、希望を持てない人、喜びを感じられない人に、あなたの御手が差し伸べられ、共に恵みを分かち合うことができるよう、助けてください。

◆私たちの神様。今年度も最初から最後まで、あなたが守ってくださったことを感謝致します。どうか今、新しい2025年度も、あなたによって守られて、互いに愛し合う生き方ができるように、私たちを互いに遣わしてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書17:1〜13の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書32頁です。

 

同じく、マタイによる福音書17:1〜13の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の32頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編145:1〜13、新共同訳交読詩編の162頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の285番「高き山の上」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

PetraによるPixabayからの画像

メッセージ

 ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、イエス様が選んだ12人の弟子たちの中で、最も活躍の多い弟子たちです。ただし、活躍と言っても、決して誇らしいエピソードばかりじゃありません。むしろ、恥ずかしい失敗や愚かな姿、信仰的とは言えない様子を、度々見せてきた者たちです。

 たとえば、17章の直前で、ペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱られてしまいます。イエス様が、これからエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを話したとき、それを受け入れらなかったからです。

 ペトロはイエス様をわきへお連れし、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と十字架の道行きを止めようとします。病人を癒し、悪霊を追い出し、僅かなパンで5千人以上を満ち足らせ、湖の上を歩き、亡くなった少女を生き返らせた数々の奇跡を目にしても「三日目に復活する」という言葉をペトロは受け入れられません。

 「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される」という言葉だけがペトロを捕らえ、「殺されてしまったらもう終わりだ」「自分たちを置いてイエス様が居なくなってしまう」という恐怖に支配されてしまいます。この後も、二度にわたって、復活について告げられるのに、ペトロは話を聞けません。

 また、ヤコブとヨハネの兄弟は、母親を介してイエス様に「王座にお着きになるとき……一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願い、周りの弟子たちからひんしゅくを買う者たちです。他の福音書では、イエス様がサマリア人から歓迎されなかったとき、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と語ったことも記されていました。

 自分たちが他の者よりも権威を持つこと、力を奮うことに、強い関心を持っていたことが見てとれます。また、病人を癒したり、悪霊を追い出したりする力は、イエス様から与えられたもので、彼ら自身が獲得した力ではありません。にもかかわらず、自分たちには天地を動かせる力があるかのように、高慢な態度を見せてしまいます。

 あまり、褒められた姿勢じゃないですよね? さらに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、イエス様が十字架につけられる前、ゲツセマネという所へ連れて行かれ、イエス様から直々に、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と頼まれます。食事の席で、イエス様が今夜打たれてしまうこと、そのあと復活して、ガリラヤへ行くことを話した後のことでした。

 間もなく敵に捕まって十字架にかけられる自分のために、一緒に祈ってほしいとイエス様から頼まれたにもかかわらず、この3人は目を覚ましていることができません。眠りこけてしまいます。「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われてもなお、彼らは再び寝てしまいます。

 結局、三度にわたって、目を覚ましていることができなかった3人は、イエス様が敵に捕まると、一緒についていくことなく、見捨てて逃げてしまいます。ペトロはこっそり、イエス様の後を追いかけますが、群衆に見つかって「お前もあの連中の仲間だ」と言われ、「そんな人は知らない」と呪いの言葉さえ口にしながら、イエス様を否定します。

 しかも、これらのことを、イエス様は事前に予告し、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人と他の弟子たちみんなが自分を裏切り、見捨ててしまうことを話していました。「あなたたちはこれから自分を見捨てるだろう」「最後まで、一緒についてくることができないだろう」と言いながら、彼らを伴い続けます。

 不思議ですよね? イエス様は「世の終わり」「終末」について話したたとえでも、「目を覚まして」待っているように、自分が再び来ることを信じて待っているよう教えてきたのに、自分を待てずに眠りこけ、目を覚ましていられず、復活も信じられない弟子たちを切り離さずに、伴い続けているんです。

 他の箇所では、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と弟子たちに告げていたにもかかわらず、自分を三度「知らない」と言うペトロのために、信仰が無くならないよう祈ります。ペトロが自分を否定したまま終わらないように、三度自分を「愛している」と答えるまで、再び会いにやって来ます。

 「山上の変貌」と呼ばれるマタイによる福音書17章の出来事も、6日前に「神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたばかりの使徒ペトロと、ヤコブとヨハネが連れられて、イエス様の光り輝く姿を見せられます。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」という記述は、神の国でのイエス様本来の姿を示しています。それは、復活して天にいる時の姿であり、世の終わりに再び地上へ来られるときの姿です。

 ところが、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったため、弟子たちはまともにイエス様を見ることができません。それでも一生懸命、イエス様を見つめようとするとモーセとエリヤが現れて、イエス様と何かを語り始めます。モーセは、神の掟である律法を受け取った人物で、エリヤは神の言葉を預かって人々に伝えてきた預言者でした。
 この2人が、イエス様と何を語り合っていたのかは記されませんが、おそらく旧約聖書から続く神様の救いの計画について、この後イエス様が受けられる十字架の死と復活について、話していたんだろうと思います。けれども、ペトロはそれを聞いていられず、口を挟んで、「主よ、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」と言い始めます。

 他の福音書では、ペトロが自分でも「何を言っているのか分からなかった」と出てくるように、イエス様が死んでしまうこと、自分たちの前から居なくなってしまうのを極度に恐れ、思わず口から言葉が飛び出し、彼らの言葉を遮ってしまったんだと思います。「仮小屋」というのは、聖書協会共同訳で「幕屋」と訳されているように、そこに留まるために建てられるテントのようなものでした。

 もしかしたら、ペトロは自分でも気づかないうちに、このままイエス様が天に昇って、離れ去ってしまわないよう、彼らが留まる場所を作ろうとしたのかもしれません。すると、天から神様の声が聞こえてきます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」……神の子であるイエス様に、何を聞くようと言われたのか、ペトロも薄々気づいていたかもしれません。

 自分が受け入れられずにいる、耳にするのを拒んでいる、イエス様の死と復活について聞くように……苦しみを受けて終わりではない、十字架にかかって終わりではないことを神の子である、キリスト・イエスに聞きなさい。「神のことを思わず、人間のことを思っている」使徒ペトロが、恐怖に囚われているまま、死に支配されたままでいることを、神様は放置できません。

 結局、弟子たちは、天から聞こえてくる声も、非常に恐れてしまったため、まともに聞くことができません。しかし、それでもなお、イエス様は近づいて、彼らに手を触れて言われます。「起きなさい。恐れることはない」「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」……それは、弟子たちが地面に伏して起きないまま、恐れているまま、復活を信じられないまま、放置されないことを意味しました。

 「死者」と「復活」という言葉を聞いて「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と話を逸らしてしまう弟子たちに、イエス様はその後も根気強く、自分がエリヤと同じように人々から苦しみを受け、洗礼者ヨハネと同じように死に渡されてしまうことを告げられます。復活を信じて受け入れるよう呼びかけ続けます。

 私たちも、神様を礼拝するようになってなお、イエス様を信じるようになってなお、聖書で語られていることが分からなくなったり、目を覚まして祈っていることができなくなったり、神様を、イエス様を「知らない」と否定してしまうときが出てきます。このような自分は、天の国で神様からも「知らない」と言われ、捨てられてしまうんじゃないかと時々恐ろしくなるかもしれません。

 しかし、イエス様は、あなたが自分を否定したまま、神のことを思わないまま、滅びに定められたまま、放置する方じゃありません。見てください。「サタン」と言われてなお、伴われていた弟子のことを……不信仰や無理解を指摘されてなお、伴われていた弟子のことを……この方は、自分が離れていかないか、恐れてしまう者たちに、何度でも会いに来る方です。どこまでも迎えに来る方です。あなたにも、手を触れてこう言われます。

 起きなさい。恐れることはない……さあ、顔を上げて、行きなさい。

 

讃美歌

オンライン賛美歌19番「悲しみながら立ち去るとき」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題

御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」

 

年間主題

華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章24節を今年度の年間聖句にしています。

 

今週は、新しく芽含幼稚園にやってくる子どもたちや、教会学校と日曜礼拝にやってくる子どもたちを覚え、一人一人を迎えるために、準備をしてきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」(マタイによる福音書17:7)

 

祝 福

神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。(ペトロの手紙二1:2)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった24名、同時に視聴された8名、計32名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は、『偉くなりたい』と題して、マタイによる福音書20:20〜28のお話をする予定です。ぜひ、次の日曜日も、祈りを合わせてご参加ください。なお、華陽教会ではイースター前の6週間、受難節の間に、洗礼を考えている人や受洗に興味のある人に向けて、受洗勉強会を行っています。

 

礼拝後に何もない日曜日や、聖書研究祈祷会後に何もない水曜日、第3金曜日のキリスト教ABC講座の後、その他、希望者と牧師の都合が合う日程で、随時、開催していますので、参加したい方は気軽にお申し出ください。

 

今のところ、4月2日(水)、4月3日(木)、4月16日(水)の14:30〜15:30に、受洗の学びを開催する予定です。それではまた、日曜日まで皆さん一人一人に神様の平和がありますように。