ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『聖書の比喩と注意点』マタイによる福音書17:24〜27

聖書研究祈祷会 2025年4月2日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書の学びと祈りの会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の58番「み言葉をください」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆憐れみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。偽装勧誘、霊感商法、二世問題が積み重なり、多大な被害が生まれてしまった宗教法人に東京地裁から解散命令が出されました。どうか今、私たちの教団・教会も、自らのことを点検しつつ、誠実な伝道と牧会ができるよう、働きかけてください。

◆私たちの神様。2025年度に入り、新たな一年が始まりました。新年度は「信仰継承を考える」というテーマで「カルトの教えとキリスト教」について、聖書研究で扱います。どうか今、私たちが誠実に信仰を育めるよう、この一年も導いてください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節第4週目を迎えています。どうか今、キリストの復活を記念するイースターまで残り2週間、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者として、希望と励ましを皆で一緒に得られますように。

◆私たちを新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書17:24〜27の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書35頁です。

 

同じく、マタイによる福音書17:24〜27の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書33頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Phuong NguyenによるPixabayからの画像

メッセージ

 華陽教会では、『信仰継承を考える』という年間主題で、マルコによる福音書10章14節の「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」という言葉を、新年度の年間聖句として、教会総会で提案する予定です。

 これは、昨年度3月25日に東京地裁から旧統一協会への解散命令が出たことを受け、いわゆる「宗教二世」問題や、不安と恐怖をあおった高額献金・霊感商法につながる要素を、私たちの教会でも見過ごしてないか、放置していないか点検しつつ、誠実な信仰継承を展開していきたいという願いからです。

 そこで、今年度の聖書研究祈祷会は、これからキリスト教や聖書に触れる人、教会やキリスト教主義の幼稚園・ミッションスクールに集まる子どもたちが、聖書の記述を利用した、悪質なコントロールから守られるように、『カルトの教えとキリスト教』というテーマで、聖書を読むときの注意点について、共有できるようにしていきたいと思います。

 実は、キリスト教系の破壊的カルトや、キリスト教の教えを一部取り込んでいる宗教カルト、カルト化してしまった教会では、聖書の記述を利用して、様々なコントロールが行われています。この聖書研究祈祷会では、そのような歪んだ支配に陥らないよう、聖書を読む上で注意すべきことを一緒に確認していきたいと思います。

 第一回は「聖書の比喩と注意点」というテーマで、ペトロと魚の話が出てくる、マタイによる福音書17章24節から27節に焦点を当てて、話していこうと思います。先ほど同じ聖書の記事を、新共同訳と聖書協会共同訳という2つの訳で、順番に読ませてもらいました。

 この箇所では、イエス様がペトロに「釣りをしなさい」と言うか「釣り針を垂れなさい」と言うかくらいの違いしか見られなかったので、異なる翻訳を並べて読むことに、あまり意味を感じないかもしれません。しかし、キリスト教系の破壊的カルトでは、このように違う翻訳を並べて読むのを嫌がります。

 なぜなら、聖書を用いる破壊的カルトの特徴として、こういった聖書の言葉一つ一つに独自の意味を結びつけ、単語一つ一つの比喩的解釈を濫用する傾向があるからです。たとえば、「湖」は人の群れ、「釣り針」は聖書の教え、「魚」は人間、「銀貨」は献金というふうに、「それぞれが特定のものの比喩である」と教えていると、翻訳の違いによって、異なる表現で訳出されたり、訳出されない単語が出てきた瞬間、話が通用しなくなるからです。

 そのため、キリスト教を装う破壊的カルトの中には、一般的なキリスト教会で、新しい翻訳の聖書が使われるようになっても、ずっと古い翻訳を使い続け、他の翻訳は間違っていると激しく非難するところもあります。しかしそれは、翻訳が変わると自分たちの教えの根拠が崩れてしまうため、変えるに変えられないという事情が隠れています。

 中には、自分たちの団体で独自に訳した聖書のみ、正しい聖書として扱っているというグループもあります。もし、聖書を読もうとして、「他の翻訳を使ってはいけない」「うちで出している聖書以外は聖書じゃない」というようなことを言われたら、ちょっと警戒するようにしてください。

 さて、聖書をパラパラとめくってみたら分かるように、この中には、様々なたとえ話が出てきます。旧約聖書では、預言者が象徴的な行為や幻を通して、神様の言葉を伝えますし、新約聖書でも、イエス様が色々なたとえ話を語っています。そのため「聖書に出てくるあらゆる話は、何かを比喩したものである」という極端な捉え方も出てきます。

 たとえば、今日読んだマタイによる福音書17章の後には、18章で「迷い出た羊のたとえ」や「仲間を赦さない家来のたとえ」などが出てきますが、先ほど読んだ「神殿税を納める」話は、何かを比喩したものであると明確には記されません。イエス様はたいてい、たとえ話を始める前に「あなたがたはどう思うか?」という問いかけや「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始めました。

 しかし、ここでの「どう思うか」という問いかけは、「湖に行って釣りをしなさい」という命令ではなく、「地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか」にかかっています。たとえや比喩として受けとるべきは前半の言葉で、後半の指示を同様に「何かを比喩したものである」と受け取っていいかは微妙です。

 けれども、一見、現実的には見えない話や、納得しにくい出来事も「何かを比喩したものである」と言われると、けっこう納得できてしまうため、「それはこういう比喩なんだ」という説明を、素直に受け取ってしまう人も多いです。「こんな解釈を聞くことができるのはうちだけです」「うちはすごいんです」と力説されると、何か特別な話を聞けたようにも感じるでしょう。

 しかし、それは、その団体が特別な秘密を解き明かせる力を持っているからではなく、十分な根拠がないから、聖書学的に突っ込まれてしまうから、他の教会では語られない解釈を語っているに過ぎないこともあるんです。残念ながら、私たち牧師も「こういう比喩だと説明すれば納得してもらえる」という誘惑に動かされて、ついつい、根拠不十分な解釈をメッセージで展開してしまうことがあります。

 たとえば、イエス様は自分とペトロの分の神殿税を納めさせるため、ペトロに向かって「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」と指示します。でもこれって、本当に言われたとおりに魚が釣れて、魚の口から銀貨が見つかるなんて、現実的とは思えないですよね?

 さらに、この話は、イエス様がペトロに命じた言葉だけで終わっていて、その後どうなったのかも記されません。言われたとおりになったのか、ちゃんと神殿税を納められたのか、曖昧なまま次の話へ移っていきます。ペトロが指示どおり魚を釣りに行ったのか、その魚から銀貨を取り出し、神殿税を納められたのか、私たちには分かりません。

 そこで、次のように説明されると、すっきりするかもしれません。ペトロは昔、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、すぐ網を捨てて従った。「人間をとる漁師」とは、もちろん、人間を網で獲ったり、釣り上げたりする者ではなく、人々を集めて、信仰を持つように導く人である。

 だから、イエス様が「湖に行って釣り針を垂れなさい」と言われたのは、文字どおり、「魚を釣りに行け」という意味ではなく「神の教えを聞く人々を捕まえなさい」という意味である。そして、「最初に釣れた魚の口から銀貨を取って納めなさい」というのは、「教えを聞いた人から献金をもらって、それを神殿税として納めなさい」という意味である。

 こういうふうに言われたら、確かにすっきりしますよね? ああ、なるほど……と感じられます。実際、旧約聖書のエレミヤ書16章16節には、「今、私は多くの漁師を遣わし、漁師たちは彼らをすなどる」という神様の言葉が出てきます。これは、神様を信じる人々を集めるため、遣わされる人のことが「漁師」や「狩人」として表現されている言葉です。

 だから、ここでもペトロは「人間をとる漁師」として、神の教えを伝えに行き、教えを受け入れた人から献金をもらって、神殿税を納めるように命じられたんだ……という説明は、的を得ているように思われるかもしれません。ところが、イエス様がペトロに「漁をする」よう命じたシーンは他にも出てきて、そこでは文字どおり、網を下ろして魚を捕まえる様子が出てきます。

 ペトロはイエス様に従って弟子になるとき、網を捨てたから、漁をする道具はなかったはずだ……と言う人もいますが、ペトロを含む元漁師の弟子たちは、仕事を捨ててイエス様に従ったあとも、漁師の仕事道具である舟を使って沖へ漕ぎ出したり、魚を獲りに行ったりした様子が描かれています。

 実は、神様を信じる人々を集める者として「漁師」という比喩が使われることはあっても、それが全ての箇所で当てはまるわけではないんです。もともと、ここに出てくる「神殿税を納める」話は、「神殿税を集める者たち」が「あなたがたの先生(イエス)は神殿税を納めないのか」とペトロに問いただすところから始まっていました。

 ペトロは批判を避けるため、咄嗟に「納めます」と答えますが、イエス様は神殿への自発的な献金は推奨したものの、掟で縛って強制的に徴収する神殿税については否定的でした。そこで、ペトロにこう言います。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」

 この問いかけこそ、「あなたはどう思うか」で始まっているように、イエス様のたとえ、比喩が込められているところで、信仰者が自分の意志によってではなく、強制的に決められた金額をささげさせられることへの、批判が含まれるやりとりです。さて、王が税金を取り立てるのは、自分の子どもたちか、ほかの人々か? という質問に、ペトロは「ほかの人々からです」と答えます。

 「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」という言葉は、「子供たち」という複数形で書かれているように、神の子どもであるイエス様に限定された話ではなく、神様から見た全ての子ども、信仰者たちに適用される話です。神と人との関係は、主人と奴隷ではなく父と子の関係なのだ……というたとえで、信仰者一人一人の生活を顧みない強制的な献金に反対し、本来の献金はそういうものではない、というメッセージが語られています。

 破壊的カルトでは、こういった部分を「イエスは神の子だから、本来、献金をささげる必要はなかったが、私たち信徒は、旧約聖書で定められた、収入の十分の一をささげなければならない」というふうに読ませてしまいますが、たとえの意味を読み取るときは、よくよく注意が必要です。

 また、「イエスは、ファリサイ派や律法学者に悪い噂を流されないよう、ペトロだけに分かるたとえを使って、信者から献金を受け取って神殿税を納めるよう命じたのだ」と言われることもありますが、イエス様がペトロと話したとき、2人は家の中にいるので、他の誰にも聞かれておらず、敵に分からないよう比喩を使う必要はありません。

 むしろ、このように「イエスは色んなところで弟子たちだけに分かるよう、敵に分からないよう比喩を用いた」と繰り返し説明することで、「キリストの生まれ変わり」や「再臨の主」「来臨の主」を自称する教祖が、正体や目的を隠して伝道活動をさせていることが、正当化される下地を作ってしまう点も、注意しなければなりません。

 確かに、聖書には重要な比喩がたくさんあります。しかし、聖書の記述を何でもかんでも比喩的に捉えればいいわけではありません。十分な根拠を示さずに、「これは○○の比喩である」と都合よく語って、聞き手をコントロールする者もいるからです。聖書の比喩的解釈を用いたコントロールに陥らないよう、私たちも十分注意して、誠実に、神の言葉を受け取っていきたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている兵庫県神戸市の須磨月見山教会のために、病に苦しむ人のために、怪我をした人のために、障害のある人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆兵庫県神戸市の須磨月見山教会のために祈ります。礼拝に出席している方々へ、あなたの愛と導きが豊かに伝わりますように。近隣の子どもたちに救いの良い知らせが届き、出席困難な高齢者の信仰が守られますように。

◆病に苦しむ人のために祈ります。治療が困難だったり、痛みが大きかったり、人から理解されにくかったりする病で苦しんでいる方々に、あなたの癒しがありますように。不安が和らぎ、痛みが引いて、希望が湧いてきますように。

◆怪我をした人のために祈ります。思うように動かなかったり、症状が悪化したり、不快感に苦しめられている人へ、あなたの助けがありますように。適切な治療と休息、必要な理解がもたらされ、焦りから解放されて、回復へと至ることができますように。

◆障害のある人のために祈ります。発達障害、精神障害、身体障害など、様々な困難がある人へ、あなたの支えがありますように。周りの環境が整えられ、出会いと仲間に恵まれて、二次障害が防がれて、未来が明るくなりますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌1番「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『聖書における時代性』と題して、ヨシュア記10:12〜14のお話しをします。なお、華陽教会ではイースター前の6週間、受難節の間に、洗礼を考えている人や受洗に興味のある人に向けて、受洗勉強会を行っています。

 

礼拝後に何もない日曜日や、聖書研究祈祷会後に何もない水曜日、第3金曜日のキリスト教ABC講座の後、その他、希望者と牧師の都合が合う日程で、随時、開催していますので、参加したい方は気軽にお申し出ください。

 

今のところ、本日4月2日の水曜日と4月3日の木曜日、4月16日の水曜日の午後2時半〜3時半に、受洗の学びを開催する予定です。また、4月6日(日)の礼拝後も2階集会室で受洗の学びをする予定です。関心のある方は、気軽にご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで皆さん一人一人に神様の平和がありますように。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。