ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『偉くなりたい』マタイによる福音書20:20〜28

日曜礼拝 2025年4月6日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

消 灯

本日は、受難節第5週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を5本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書57:15)

 

讃美歌

旧讃美歌515番「十字架の血に」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆憐れみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める、受難節第5週目を迎えました。どうか今、教会に来られない人、祈る力さえ出てこない人に、あなたの癒しと慰めが、豊かにありますように。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り2週間となりました。どうか今、自分を見捨ててしまった者、信じて待つことができなかった者に、和解と喜びを与えてくださったイエス様を、改めて、お迎えすることができますように。

◆私たちの神様。新年度、最初の日曜日を、こうして迎えることができ、感謝致します。どうか今、洗礼の準備をしている人、新しく教会に来られた人、遠くから祈りを合わせる一人一人と、新たな出発ができるように、私たちみんなを導いてください。

◆一人一人の隣におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書20:20〜28の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書39頁です。

 

同じく、マタイによる福音書20:20〜28の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の38頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編118:1〜9、新共同訳交読詩編の133頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の294番「ひとよ、汝が罪の」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

svklimkinによるPixabayからの画像

メッセージ

 イエス様は、自分が十字架にかかって殺され、3日目に復活することを、三度にわたって、弟子たちへ予告していました。一度目は、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した後のことでした。イエス様は、自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている……と弟子たちに打ち明け始めます。

 すると、ペトロはイエス様を脇へお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめ始め、予告された出来事を何とか止めようと試みます。ペトロには、イエス様の死が受け入れられず、復活するという言葉も、信じることができませんでした。

 すると、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りつけ、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と告げられます。イエス様は、その後も彼らを伴い続け、弟子たちと語り続けますが、弟子たちの方から、イエス様の死と復活について、改めて聞くことはできませんでした。

 二度目の予告は、弟子たちが、ある子どもに取りついた悪霊を追い出せず、彼らの代わりに、イエス様が悪霊を追い出した後のことでした。イエス様はもう一度、自分が人々の手に引き渡され、殺された後、3日目に復活することを語ります。弟子たちは非常に心を痛めますが、それについて、詳しく聞こうとはしませんでした。

 他の福音書では、「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と説明されています。彼らは、イエス様が何のために死ななければならないのか、その後復活するとはどういうことか、確かめることができません。自分たちが追い出せなかった悪霊を目の前で追い出すところを見ていたのに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と自ら告白していたのに、「死んだあと復活する」というイエス様の言葉が実現すると思えません。

 三度目の予告は、エルサレムへ上って行く途中のことでした。イエス様は、12人の弟子たちだけを呼び寄せて、これから自分に起きることを告げられます。すなわち、祭司長や律法学者に引き渡され、死刑を宣告され、異邦人に引き渡され、嘲りを受け、鞭打たれ、十字架につけられ、3日目に復活することです。最後の予告は、最も詳細で、具体的な内容です。

 ところが、弟子たちはこの件について、何の反応も示しません。一度目は、予告された出来事を止めようとし、二度目は、予告された出来事に心を痛めますが、三度目は、心を痛める様子さえ見せません。むしろ、死と復活の話を無視して、イエス様に何かを願おうとする者が現れます。

 それが、ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネの兄弟でした。彼らは、イエス様が自分の死について、復活について話した後、母親と一緒に自分たちの地位について交渉を始めます。他の福音書では、母親ではなく、息子たち自身が「お願いすることをかなえていただきたいのですが……」と言い出したことも書かれています。

 イエス様がもうすぐ逮捕され、鞭打たれ、殺されるという話を、本人から聞いてすぐ、「私たちを他の弟子より、高い地位にしてほしい」と頼むって、なかなかやばいですよね? 母親が急に入ってきて、自分たちの代わりに願いを言い始めたとしても、「母さん、ちょっと待って、今じゃない!」と慌てて止めるのが普通でしょう。けれども、この息子たちは母親を止めず、一緒になって、願いを聞いてもらおうとします。

 イエス様が「何が望みか」と言われると、母親はこう返事をします。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」……ようするに、イエス様の次に偉い地位を息子たちに与えてほしいと願ったんです。そりゃ、他の弟子たちも怒りますよね? 自分たちだけ抜け駆けして、母親に何言わせてるんだと。

 一方で、本当にそう願っているなら、この場面で、このタイミングで、こんな形で願い出ても、かえって悪い印象を持たれ、願いどおりにならないだろうと、誰でも思い至るでしょう。だって、12人の弟子たちみんなが揃っているところで、「僕たち2人に一番偉い地位を与えてください」なんて言っちゃったら「誰がお前らに従うものか」と反発を受けるに決まっています。

 しかも、「私はもうすぐ殺される」と話した人に「あなたの次に高い地位が欲しいです」と言うなんて、空気が読めないにも程があります。私が上司だったら、そんな部下に良い地位は与えないでしょう。当然、出世を狙う部下だって、ここまであからさまに願い出る人はいないでしょう。貪欲に地位を狙う人ほど、もっと狡猾に、他の仲間が見てないところで、イエス様にすり寄るはずです。

 もしかしたら、ヤコブとヨハネの兄弟には、「偉くなりたい」という願い以上に、「話題を変えたい」という願いが、強く出てしまったのかもしれません。イエス様から三度、死と復活を予告され、彼らはもう、どんな反応を示せばいいか分かりませんでした。「十字架にかかって殺される? そんなことがあってはなりません!」と答えたら、ペトロのように「サタン、引き下がれ」と言われてしまうかもしれません。

 「殺されるなんて冗談ですよね?」と聞いたら、「わたしは必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される」と念押しされるかもしれません。まさに今、エルサレムへ上って行く途中の彼らは、このままイエス様の死が現実になって、自分たちの前から居なくなることに、怯えていたかもしれません。それは、イエス様に仕える息子たちを見ていた、母親だって同じです。

 先生、居なくなるなんて言わないですよね? この子たちを置いて消えることなんてないですよね? どうか、息子たちを、あなたのそばに、右と左に置いてください。この子たちから離れずに、一緒に居てくれると言ってください……実は、「偉くなりたい」という願いの裏には「私たちのそばから離れないでください」「ずっと一緒に居てください」という思いが隠れていたのかもしれません。

 一緒に居たい……だからこそ、2人はイエス様の言葉に即答します。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」……多くの聖書学者は、この問いが、「わたしと一緒に十字架にかかり、苦難を受けることができるのか?」という問いであることを、2人が全く理解せず、「できます」と言ったのだろうと考えています。

 しかし私は、ヤコブとヨハネも、この「杯」が、文字どおりの「杯」ではないことを、何らかの「苦難」を意味していると、実は分かっていたんじゃないかと思います。なぜなら「杯」という言葉は、詩編やイザヤ書でも「苦難」を意味する語として出てきており、「どんなに苦しくてもついて来られるか?」というふうに受け取ることは、想像に難くないからです。「できます」「最後まであなたについていきます」「あなたと一緒に居たいんです」

 けれども、イエス様は分かっています。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」……イエス様と一緒にいるとはどういうことか? イエス様から離れないとはどういうことか? それは、華々しい勝利を収めることではありません。名誉ある死にあずかることではありません。裸にされ、馬鹿にされ、罪人として磔にされることです。

 十字架の上で、最後までイエス様と一緒に居たのは、勇敢に敵と戦って、人々に讃えられた英雄ではありません。犯罪を犯した強盗です。「折から、イエスと一緒にいた2人の強盗が、一人は右に、もう一人は左に、十字架につけられていた」……それは、ヤコブとヨハネが座ることを願った場所でしたが、誰一人、羨むことのない場所でした。

 イエス様と一緒にいるということは、私たちが理想とする「偉大な者」になる話とは、根本から違うんです。「母国を偉大にする」「自国ファースト」そう言って、みんなより自分を偉く見せ、周りを支配することとは違うんです。かつて、ローマ帝国を打ち倒して、イスラエルが独立し、神聖政治を行うことが、神の御心だと思い、イエス様が、軍事的な指導者になることを期待していたユダヤ人のように、現代のキリスト教徒にも誤った方向で、願いを叶えようとする人たちがいます。

 信仰者が権力を奮うことで、周りを支配することで、神の国が完成すると考えて、他国を虐げ、抑圧してしまう者もいます。しかし、イエス様はこう言います。「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

 それは、多くの人が期待するリーダーシップとは違うかもしれません。かっこいい姿ではないかもしれません。むしろ、情けない、嘲りの対象となる、弱々しい姿に見えるかもしれません。しかし、「キリストにならう」とは、英雄を求めることではないんです。偉大なものに飛びつくことではないんです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」……そう、分かっていないんです。私たちは分かっていないんです。

 

讃美歌

オンライン賛美歌4番「わたしの主がとり去られた」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願いします。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

ようこそいらっしゃいました。今から神の民の祝宴が開かれます。神の子であるキリストは、十字架につけられる前の晩、これから自分を裏切って、見捨ててしまう弟子たちに、パンを手渡して言いました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

 

同じように、ぶどう酒の入った杯を取って言いました。「これを取り、互いに回して飲みなさい」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 

主は、辱める者、傷つける者、信じない者を憐れまれ、一人一人の罪が赦されるよう、ご自分の命を献げられ、神の国で共に食卓に着く日がやってくることを教えました。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。アーメン。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、ここへ招かれた人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命をささげられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この場に連なる全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちがキリストの体の手足であること、神の国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

主なる神よ、私たちが持っているものはみな、あなたからいただいたものです。今、私自身の生き方をあなたの御用のためにおささげします。どうか、ここにささげた献金もあなたの求めていることに用いてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。(マタイによる福音書20:27)

 

祝 福

父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。(テモテへの手紙二1:2より)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった18名、同時に視聴された11名、計29名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は、『偉くなりたい』と題して、マタイによる福音書20:20〜28のお話をする予定です。ぜひ、次の日曜日も、祈りを合わせてご参加ください。なお、華陽教会ではイースター前の6週間、受難節の間に、洗礼を考えている人や受洗に興味のある人に向けて、受洗勉強会を行っています。

 

礼拝後に何もない日曜日や、聖書研究祈祷会後に何もない水曜日、第3金曜日のキリスト教ABC講座の後、その他、希望者と牧師の都合が合う日程で、随時、開催していますので、参加したい方は気軽にお申し出ください。

 

今のところ、4月2日(水)、4月3日(木)、4月16日(水)の14:30〜15:30に、受洗の学びを開催する予定です。それではまた、日曜日まで皆さん一人一人に神様の平和がありますように。

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。