ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『御心なら救ってもらえ』マタイによる福音書27:32〜56

日曜礼拝 2025年4月13日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

消 灯

本日は、受難節第6週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を6本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。(イザヤ書42:1a)

 

讃美歌

旧讃美歌515番「十字架の血に」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆贖いの主である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める、受難節第6週目を迎えました。どうか今、悩んでいる人、困っている人、傷ついている人、それぞれに、あなたと共に起き上がる日を迎えさせてください。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り1週間となりました。どうか今、信じない者が信じる者に、悲しむ者が喜ぶ者に変えられて、希望を受け取ることができるように、一人一人を整えてください。

◆私たちの神様。キリストがエルサレムに入城し、十字架につけられるまでの一週間を思い起こす「受難週」を迎えました。どうか今、自分の犯した過ちと、背負い切れない贖罪を、一緒に引き受けてくださったイエス様の慈しみを、今こそ受けとめさせてください。

◆喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣かれる主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書27:32〜56の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書57頁です。本日は、聖書箇所が長いので新共同訳のみ朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編118:19〜29、新共同訳交読詩編の134頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の309番「あがないの主に」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

sebastian del valによるPixabayからの画像

メッセージ

 救い主イエス・キリストが、十字架につけられて死ぬまでの最後の一週間を思い起こす受難週を迎えました。来週には、いよいよ、キリストの復活を記念するイースターを迎えますが、その前に、イエス様が受けられた痛みと苦しみ、十字架の死を思い起こして、罪の赦しを受けとめる、復活の主を出迎える、準備をするときが来ています。

 イエス様が亡くなる一週間前、弟子たちと共にエルサレムへやってきたとき、多くの群衆がイエス様を歓迎し、自分たちの服や木の枝(棕櫚の葉っぱ)を道に敷いて、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫び、喜んで都に出迎えました。

 「ホサナ」という挨拶は、もともと「主よ、お助けください」という意味で、「あなたこそ、私を救ってくださる方」「あなたこそ、神に遣わされた真の王」という告白にもなっていました。フランクに訳すなら「王様ばんざい!」「王のお通りだ!」くらいの感じです。「ダビデの子」という表現も「神に選ばれた正統な王」というニュアンスでした。

 イエス様は、あちこちで病気に苦しむ人を癒し、悪霊に苦しむ人を助け、ローマ帝国の支配構造に取り込まれた貴族層、サドカイ派たちも批判して、虐げられた人々を解放する教えを語っていました。そのため、自分たちを虐げる支配者層を打ち倒し、イスラエルを独立させてくれる新しい指導者として、イエス様に期待する人々が増えていました。

 ようするに、多くの人は、イエス様が革命を起こして、ローマ帝国や既存の支配階層を打ち倒す、軍事的指導者になることを期待していたんです。しかし、イエス様が人々に、隣人として愛するよう求めていたのは、同胞のユダヤ人に限りませんでした。ユダヤ人が忌み嫌う異邦人や、現在進行形で対立し、敵対している人たちも含まれました。

 現在でたとえるなら、韓国人も日本人も、ユダヤ人もパレスチナ人も、ロシア人もウクライナ人も、救いにあずかる者となるよう、互いに愛し合うことが説かれていました。神の掟である律法を守れない「罪人」や、神から罰を受けていると見なされた「汚れた者」も、イエス様から病気を癒やされ、教えを受け取り、食事を共にしていました。

 それは、「あんな奴らは滅びるべきだ」「あいつらが神の国に迎えられるなんてありえない」と考えてしまう人たちにとって、受け入れ難いことでした。私たちだって、そうですよね? 理不尽な人間の支配ではなく、憐れみ深い神の支配が行き渡る、新しい国が建てられても、自分を苦しめてきた者たちが入ってきたら、そこを楽園だとは思えません。

 ユダヤ人にとって、自分たちの母国を滅ぼし、自分たちを虐げてきた大国の異邦人は、追い出され、倒されるべき者でした。彼らを倒すのではなく、隣人として、神の国に迎えるなんて、なかなか納得できません。イエス様の教えを聞いた、サドカイ派やファリサイ派、祭司長や律法学者は「そんなの神の御心であってたまるか!」と攻撃しました。

 彼らは、多くの人に慕われていたイエス様を貶めるため「あの男は自分を神だと言っている」「人々を惑わし、騒動を起こしている」「神の掟を蔑ろにし、人々にも背かせている」と訴えました。最初は、イエス様を歓迎していた群衆も、祭司長たちに煽動されて、掌を返すように、イエス様を攻撃するようになりました。

 誰が敵かをはっきりさせ、悪人を容赦なく打ち倒し、自分たちを苦しい生活から解放してくれる、強力なリーダーシップを求めていたのに、イエス様は異邦人をやっつけようとはなさらなかったからです。移民や難民を一気に強制送還させたり、マジョリティーと異なる人たちを締め出したり、特定の職員を大量解雇することもありません。

 むしろ、みんなが誰かに石を投げようとする現場では、石を投げさせませんでした。剣を持って、自分を捕まえに来た兵士にさえ、弟子たちが斬りつけるのをやめさせました。イエス様は、人々を率いて悪人を懲らしめようとはなさいません。むしろ、嫌われていた徴税人や百人隊長にも手を伸ばし、仲間にしたり、助けたりします。

 「こんなの神の御心じゃない!」そう思って、イエス様を罵る人が次第に増えていきました。イエス様は敵に捕まり、裁判にかけられ、偽りの証言で有罪にされます。「たとえ、死ぬことになっても、最後まであなたに従います」と言っていた弟子たちは、全員イエス様が捕まると怖くなり、見捨てて逃げてしまいました。

 敵に捕まったときも、裁判にかけられたときも、十字架につけられたときも、神の助けはありません。人々はイエス様に向かって「本当に神の子なら、本当に救い主なら、天から助けが来るはずだ」と嘲笑い、「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」と侮辱します。しかし、神の使いが降りてきて、イエス様を十字架から下ろすことはありませんでした。

 少し前、イエス様が捕まる前に、ゲツセマネという所で、「父よ、できることなら、この杯を(十字架の死を)わたしから過ぎ去らせてください」と祈ったときも、天からの答えは返ってきませんでした。十字架の上で、イエス様が苦しんでいるときも、天から止めてくれる声はありませんでした。

 それは、祈っても、祈っても、自分の望む答えが返って来ない、私たち信仰者の苦しみが凝縮されたような出来事でした。信じているのに、従っているのに、神様に答えてもらえない、神様に助けてもらえない……自分を弁護する者も、救ってくれる者も現れない……私が救われるのは、神の御心じゃないようだ……そんな絶望が襲ってくる。

 必死に助けを求める中、昼の12時にもかかわらず、全地が暗くなって、それが3時頃まで続いたら、「もう終わりだ」「助からないんだ」「救いは潰えてしまったんだ」と思うでしょう。自分が救われる世界はやって来ない。このまま苦しみの末に全ては終わる。そのように感じて、絶望してしまうでしょう。

 きっと、そうやって亡くなっていった人も、たくさん居たと思うんです。最後まで、神への信頼を捨てずに息を引き取った者ばかりじゃないでしょう。「もう終わりだ」「見捨てられた」「何で助けてくれなかったんですか!」神様に向かってそう叫んで、死んでいった信仰者もたくさん居たでしょう。

 「あの人は最後に信仰を捨てた」「神への信頼を保てなかった」そういうふうに言われてしまった者も居たでしょう。しかし、神の子であるイエス様は、絶望の中で息を引き取る人たちと同じ言葉を叫ばれます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」……!

 通常、それは、信仰を捨てたと見なされる叫びです。神への信頼を保てなかった、救いを信じきれなかった、神との関係を捨ててしまった、と見なされてしまう叫びです。しかし、神の子であるイエス様は、そのように叫ぶ私たちと、同じところに来られます。絶望し、泣きじゃくり、「神に見捨てられた」と叫ぶ者と、この方は一緒に叫ばれます。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」……それはもはや、神との関係を失う言葉になりません。このように叫んだ者は、世の終わりに、神の国へ迎え入れてもらえない、復活させてもらえない、とはなりません。同じ言葉を叫ばれた、イエス様と一緒に、復活させられる者として、全ての者が起こされる日がやって来ます。

 イエス様の十字架の死と復活は、「世の終わり」「終末の日」に、神の国が完成し、そこへみんなが迎えられる日を、先取りした出来事でもありました。神様を信じ切れなかった、神様を信頼し切れなかった、神様に見捨てられたと叫んでしまった者たちが、神との関係を失わず、神から離れたままにされず、新しい命を受ける、新しい関係が結ばれました。

 祈っても、祈っても、天から答えてもらえずに、神から助けてもらえずに、救われることなく死んでいく、終わっていくことを恐れる者に、イエス様は言われます。わたしがあなたと共にいる。あなたは今、わたしと一緒に十字架を背負って歩んでいる。あなたの苦難は、救いが潰えるしるしではなく、救いの完成に向かって、わたしと一緒に歩んでいるしるしなんだ。

 キリストの復活を記念するイースターまで、あと一週間……信じない者が信じる者に、悲しむ者が喜ぶ者に、争う者がとりなす者に変えられる、神の救いを思い起こし、希望をみんなで分かち合う、準備をしていきましょう。見よ、あなたの王が来る。見よ、あなたの王が来る……アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌4番「わたしの主がとり去られた」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題

御着席ください。新年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」

 

年間主題

華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を新年度の年間聖句として提案する予定です。

 

今週は、破壊的カルトや二世問題に苦しんできた被害者の救済と回復を祈り、誠実な信仰継承ができるように、私たち教会のあり方も一緒に見直していきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ書9:9)

 

祝 福
平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソの信徒への手紙6:23〜24)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった18名、同時に視聴された7名、計25名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は、キリストの復活を記念するイースター礼拝です。『ここにはおられない』と題して、マタイによる福音書28:1〜10のお話をする予定です。礼拝後、ハレルヤランチも予定しています。ぜひ、次の日曜日も、祈りを合わせてご参加ください。

 

なお、今週の木曜日は、夜7時から洗足木曜日・最後の晩餐記念礼拝を行います。キリストが十字架につけられる前、弟子たちと取った最後の食事を記念して、聖餐式か愛餐式を行います。

 

また、金曜日の午後2時半〜3時半には、キリスト教ABC講座が、夜7時半〜8時半には、聖書の学びと祈りの会を予定しています。こちらも気軽にご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。