ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『偶像崇拝と異性関係』列王記上17:1〜7

聖書の学びと祈りの会 2025年4月18日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の378番「栄光は主にあれ」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆憐れみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。キリストが十字架につけられるまでの一週間を思い起こす「受難週」に入りました。どうか今、武装した姿ではなく、小ろばに乗ってやってきた主のお姿を受けとめつつ、和解と平和がもたらされるよう、私たちを互いに導いてください。

◆私たちの神様。明日は、キリストが最後の晩餐を共にした12人の弟子たちのために、一人一人の足を洗われた日を記念する「洗足木曜日」を迎えます。どうか今、私たちをも清めてくださる主の慈しみを受けとめつつ、主の食卓を味わう準備ができますように。

◆私たちの神様。明後日は、キリストが十字架につけられて息を引き取った日を記念する「聖金曜日」を迎えます。どうか今、神に見捨てられたと叫ぶ全ての人と、自ら共に居てくださる主の憐れみを受けとめつつ、イースターを迎える準備ができますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。列王記上17:1〜7の新共同訳を朗読します。会衆席にある旧約聖書547頁です。

 

同じく、列王記上17:1〜7の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の旧約聖書339頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は、「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで、聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は、「偶像崇拝と異性関係」というトピックについて、エリヤとカラスの話が出てくる、列王記上17:1〜7に焦点を当てて、話していこうと思います。

 キリスト教では、本当の神ではないものを神として拝んだり、神ではないものを神のように扱ったりすることを「偶像崇拝」と言います。そして、聖書の中では「神と人」「神と民との関係」が「夫婦関係」にたとえられ、神ではないものを神として拝む偶像崇拝は、「姦淫」や「淫行」などにたとえて表現されています。

 紀元前8世紀にイスラエルの指導者となったアハブ王も、異邦人であるイゼベルと結婚してから、彼女の国で信じられていた異教の神、バアルやアシェラなどの偶像をあちこちに建て、イスラエルに偶像崇拝を持ち込んでしまいました。神様は、パートナーの浮気を悲しむように、人々が自分以外のものを神として拝んでいることを悲しみます。

 実は、アハブが王になる以前から、こういった偶像崇拝は、何代にもわたって行われ、神様を悲しませてきました。そこで、神様は、イスラエルの王になった者たちへ、何度も預言者を遣わして、偶像崇拝をやめ、本当の神である自分に立ち帰るよう促します。ところが、王たちは預言者の言葉に耳を傾けず、世代を経るごとに、どんどん偶像の神が祀られるようになりました。

 アハブ王の時代には、本当の神を礼拝していた神殿にさえ、異教の神の偶像が祀られるようになり、国中で偶像崇拝が行われるようになっていました。そこで、神から遣わされた預言者エリヤは、王に向かって、偶像崇拝を推し進めてきた罰として、この国には数年のあいだ雨が降らず、露も降りないことを預言します。

 その後、エリヤは身を隠すよう神様に言われ、ケリトの川のほとりに身を隠すようになりました。王に対して、はっきりと物申したことで、命を狙われるようになったのかもしれません。エリヤは人前に出ることができなくなり、食べ物を買いに行くことができなくなってしまいました。

 水は川から得られても、肉やパンは一人で手に入れることができません。すると神様はエリヤのために数羽のカラスを遣わして、一日に2回、朝と夕方に、パンと肉を運ばせたことが、列王記上17章に出てきます。カラスと言えば、日本ではゴミ捨て場を漁る厄介者というイメージで、あまり好印象ではありません。

 人間からパンや肉を奪い取ったり、横取りしたりすることはあっても、自分が取ってきた食べ物を人間に渡したり、分け与えたりするところなんて、なかなか想像できません。確かに、カラスは頭の良い鳥で、上手く躾けることができた場合、犬のように「待て」をすることもあるようですが、人間へ食事を届けるところまでは、さすがに躾けられないでしょう。

 けれども、聖書には、神様がカラスに命じて、パンと肉を運ばせ、エリヤを養わせていたことが書かれています。当然、そんなの信じられない!……という人もいるでしょう。実際のカラスは、パンや肉を見つけたら、人間のもとへ届ける前に、自分で食べてしまうだろう、あるいは巣に持ち帰ってしまうだろうと思うでしょう。

 そのため、次のように説明されたら納得できるかもしれません。聖書の記述は、様々な比喩で書かれているため、「カラスがエリヤを養った」という記述も、何かを比喩していると考えられる。カラスと言えば、黒くて、不潔で、不吉な印象があり、他のカラスの卵を食べたり、雛を襲ったり、共食いしたりすることもある。死体や墓場に群がりもする。

 つまり、カラスは「死」のイメージを持たれ、忌み嫌われる存在で、外国でも同様に不吉な存在としてイメージされます。そして、神様にとって「忌み嫌うべき存在」とは、本当の神ではないものを神として拝む、偶像崇拝をする人たち、神様にとって「死んでいる者」とは、自分から離れて、自分との関係が切れている人たち。

 ようするに、カラスという言葉は、本当の神から離れ、神との関係を絶って、偶像崇拝をする人たちを表しており、カラスが運んできたパンや肉は、偶像崇拝に来た人々が、偶像の神にささげた供え物を意味している……と言うわけです。この解釈では、人々の偶像崇拝をやめさせるという使命を果たすため、エリヤは偶像にささげられた供え物をこっそり取って生き延びたと説明されます。

 本当は、偶像にささげられたパンや肉など、エリヤは口にしたくなかったものの、偶像を拝む人間を見て悲しんでいる神様を思い、これ以上、神様を悲しませないために、自分も涙を流してパンを食べ、何とか生き延びていった、と強調されます。そして、エリヤは最後まで耐え忍んだので、異教の神であるバアルとアシェラに仕えていた850人の預言者と対決した際も、最後まで耐え忍んで勝利することができたと言われます。

 この勝負は、列王記上18章に記されており、バアルとアシェラの預言者は、どれだけ自分たちの神に祈っても、手を触れずに、祭壇の上の雄牛へ火をつけることはできませんでした。しかし、エリヤが自分の神に祈ると、火をつけることができました。このように、私たちも偶像崇拝に流されず、神様との関係を清く保ち、神様が悲しまないように、エリヤを見習って、最後まで戦い抜くことが必要だと説かれることがあります。

 けれども、この解釈にはいくつかの問題があり、信者以外との人間関係を制限したり、婚姻関係のコントロールに用いられることが度々あります。たとえば、「同じ信仰を持たない人と恋愛関係になることは、イゼベルと結婚して偶像崇拝に陥ったアハブ王と同じ道をたどることだ」「異性との恋愛は堕落をもたらす」という理屈で「異性に惹かれること」=「神から離れて道を踏み外すこと」と教え込み、自由に恋愛できなくさせるんです。

 そうして、婚姻関係を組織のメンバーに限定することで、メンバー以外の人間と接触する機会を減らし、強力なコントロールを保つ団体が存在します。また、同じ信仰を持たない人を好きになること、教会で認められてない人と交際することは、神様を死ぬほど悲しませることだ……と「神の心情」を持ち出して、組織が認める合同結婚を強制し、「本人の心情」を無視させるリーダーも存在します。

 しかし、こういったコントロールの根拠になっている聖書の話をよく見てみると、実はたいへん都合よく、恣意的な解釈が行われていると分かります。たとえば、聖書の中で、カラスが登場する箇所を一つ一つ確認すると、カラスは「死」や「忌み嫌うべき存在」というより「神の庇護による愛と慈悲を受けるもの」として取り上げられていることが分かります。

 ヨブ記38章41節では、カラスの雛が食べ物を求めて迷い出ると、神様が餌を置いてやり、詩編147編9節では、鳴いているカラスに神様が食べ物を与え、ルカによる福音書12章24節では、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないカラスを神様が養ってくださることが書かれています。

 雅歌では、「恋しい人の髪」が、カラスの羽の輝く黒さにたとえられ、箴言では、罪深い者の眼球を素早く攻撃する存在として登場します。エリヤの話でも、カラスは神の使いとして、預言者のサポートに用いられるため、肯定的な表現の中に登場していました。実は聖書全体を確認すると、カラスは「死」を象徴するものでも、「忌み嫌うべき存在」でもなく、むしろ神様に養われ、神様に用いられる存在として描かれています。

 つまり、カラスを比喩として受け取るなら、「神との関係を絶って偶像崇拝をする者たち」のような否定的な受けとめ方はできないんです。こういう作業を「釈義」と言って、聖書からメッセージを語る牧師や司祭が、この作業を怠ってしまうと、聴衆に間違ったイメージを押し付けたり、歪んだ解釈を植え付けたりすることになるため、神学部や神学校で、口酸っぱく注意されます。

 ちなみに、雛に対して残忍なカラスの寓話は、ユダヤ人やアラビア人の著述家によって伝えられていますが、そうした寓話の一つにも、「カラスの親に巣から追い出された雛が、神から特別な慈悲を受ける」というストーリーが出てきます。なお、カラスが雛に対して愛情を抱かないというのは全く根拠を欠いた空想で、実際には、生涯同じパートナーと過ごし、子育てを協力して行う鳥であることが知られています。

 世界中の神話においても、カラスは神の使いや守り神として登場することが多く、「死」や「忌み嫌うべき存在」というイメージは、限定的なものでしかありません。このように一見、ある単語が何をたとえているか、何を比喩しているか、明確に解き明かしているように見えても、都合の良い結論を導くために、信頼に乏しい根拠が使われていたら、一旦立ち止まらなければなりません。

 さらに、エリヤとバアルの預言者が対決するところでは、エリヤが手を触れずに祭壇へ火をつけた奇跡が記されていましたが、この信じ難い奇跡については、字義どおり、文字どおりに受けとめて、カラスがエリヤを養った奇跡は、比喩表現として受けとめる……という一貫性のない解釈になっています。つまり、何が比喩的表現で、何が字義どおりに受けとめるべき表現か、恣意的に選ばれているんです。

 本来、神様に命じられた数羽のカラスがエリヤを養った出来事は「エリヤがいかに頑張って成功を収めたか」ではなく「神様がいかにエリヤを守り、エリヤを支え続けたか」を語るものです。「神様が離れていく恐怖」を植え付ける話ではなく、「神様が共に居て守ってくれることへの信頼」を持つよう励ます話です。

 もちろん、恋愛や結婚の自由を制限するため「脅し」に使っていい話でもありません。「神の子イエス・キリストの系図」に出てくるボアズが、異邦人のルツと結婚したように、非イスラエル人であるラハブも、神の子の系図に出てくるように、イエス様自身が、ユダヤ教徒でない異邦人とも関係を拒まなかったように、キリスト教会が「信者でないから」という理由で、関係を制限することは、決してふさわしくありません。

 確かに、聖書では、偶像崇拝が神にとっての「姦淫」や「淫行」にあたると表現されており、この比喩は、人間関係や婚姻関係を制限するコントロールに利用されることが多々あります。しかし、「神の心情」を持ち出して「人の心情」を無視する姿勢を、本当に神様

が望んでいるのか、改めて問い直さなければなりません。

 私は、異なる信仰の持ち主でも、キリスト教の信仰を告白していない相手でも、お互いの関係を通して、互いに愛し合うことで、神様の愛に触れていくなら、それは祝福された関係になると思います。神と人、人と人との関係を、誠実に築いていくために、私たちが聖書の言葉を「偶像」にしてしまわないために、今一度、自分自身と教会の在り方を見直しながら、誠実な信仰継承を積み重ねていきましょう。

 

とりなし

共に神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている兵庫県加古川市のはりま平安教会のために、貧しい人のために、被災した人のために、戦禍を被った人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆兵庫県加古川市のはりま平安教会のために祈ります。昨年度から始まった新会堂の建築が最後まで守られ、良い働きをしていくことができますように。会衆一人一人と牧師の健康が支えられ、新年度も豊かな交流ができますように。

◆貧しい人のために祈ります。食べ物や着る物に困っている人、医療費が払えず、十分な治療を受けられない人、教育費が賄えず、進学することが難しい人に、必要な助けがありますように。足りないものが満たされ、希望がもたらされますように。

◆被災した人のために祈ります。地震、洪水、台風など、様々な自然災害の他、原発事故や欠陥工事の被害を受けて、苦しんでいる人たちに、あなたの助けがありますように。人手と物資が届けられ、復旧と復興が進みますように。

◆戦禍を被った人のために祈ります。紛争や戦争に巻き込まれ、家族や家を失った人、心と体に傷を負った人、安心して眠ることができなくなっている人に、あなたの助けがありますように。一刻も早く平和が訪れ、全ての命の人権が尊重されますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌26番「あなたが共にいること」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『真理と法則の留意点』と題して、ヨハネによる福音書1:1〜5のお話しをします。なお、明日の木曜、夜7時か8時にかけて洗足木曜日・最後の晩餐記念礼拝を行います。

 

キリストが十字架につけられる前、弟子たちと取った最後の食事を記念して、聖餐式か愛餐式を行います。どなたでも参加できるので、よかったらお越しください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。