ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ここにはおられない』マタイによる福音書28:1〜10

日曜礼拝 2025年4月20日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。(ヨブ記19:25)

 

讃美歌

旧讃美歌515番「十字架の血に」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆甦りの主である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は、キリストの復活を記念するイースターの礼拝です。天に召された方々も、地上にいる私たちも、共に、あなたへ賛美をささげます。どうか今、死によって隔てられた一人一人に、あなたの希望と慰めが、豊かにありますように。

◆私たちの神様。親しい人を見送った方、仲の良かった人たちと遠く離れてしまった人にあなたの励ましがありますように。どうか今、見えないつながりが強められ、新しい出会いがもたらされ、また新しく生きていく力を与えてください。

◆私たちの神様。病気や怪我、貧困や暴力、差別や争いに苦しめられている人たちへ、あなたの助けがありますように。どうか今、頼れる隣人が与えられ、癒しと回復がもたらされ、あなたからの聖霊を豊かに受け取ることができますように。

◆復活と希望をもたらす、イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書28:1〜10の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書59頁です。

 

同じく、マタイによる福音書28:1〜10の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の58頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編66:1〜9、新共同訳交読詩編の73頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の322番「天の座にいます」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

congerdesignによるPixabayからの画像

メッセージ

 マタイによる福音書では、イエス様が十字架の上で息を引き取ったとき、恐ろしい出来事がいくつも起きたことが描かれていました。たとえば、昼の12時にもかかわらず、全地は暗くなり、それが3時間以上続いたとあります。イエス様は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ、人々はそれを聞いて嘲笑います。

 ところが、イエス様が再び大声で叫び、息を引き取った瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、「本当に、この人は神の子だった」ことが明らかになります。さらに地震が起こり、岩が裂け、墓穴が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たち(神様を信じて亡くなった者たち)の体が甦ります。

 そして、イエス様が復活した後、生き返った彼らも、墓から出てきて、聖なる都(エルサレム)に入り、多くの人々に現れたことが書かれていました。天変地異や死者の復活、神殿における異変など、どこまでが現実で、どこまでが象徴的な表現なのか、よく分からない描き方です。

 その様子は、ダニエル書やヨハネの黙示録など、世の終わり、終末において起こることを描いている「黙示文学」と共通する表現でもありました。ちょうど、イエス様が十字架にかかって死んだ後、三日目に甦るときも、大きな地震が起こって墓穴が開き、空っぽの墓が見えるようになったことが記されています。

 そのとき、「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」という記述も、世の終わり、終末について描写する「黙示的表象」の一つです。つまり、キリストが十字架につけられて、三日目に甦り、人々に姿を現したときの様子は、キリストが救いを完成するために、再びこの世へ訪れて、人々に姿を現す「終末のとき」を先取りしたものでもありました。

 「世の終わり」「終末のとき」と言われると、戦争、地震、飢饉など、世界が終わりに向かっていく、恐ろしいイメージを思い浮かべるかもしれません。生きている者も死んでいる者も、神の前へと引き出され、「救いにふさわしい者」と「滅びに定められた者」に振り分けられ、後者は地獄の火に投げ込まれるような話もありました。

 その日までに悔い改めて、敬虔な信者になっていないと、再びこの世へやって来た「再臨の主」「来臨のキリスト」から「わたしはお前たちを知らない」と言われ、新しい天と地に入れてもらえず、神の国から締め出されてしまうような、おどろおどろしい「最後の審判」をイメージするかもしれません。

 けれども、「世の終わり」「終末の日」の先取りとして描かれるキリストの復活は、そのような恐ろしいイメージを覆します。イエス様は、自分が十字架にかかって殺されても、三日目に復活することを、三度にわたって、弟子たちに予告していました。その日が来るのを信じて、目を覚まして待っているよう教えていました。

 それは、世の終わり、終末の日に、救いの完成する日がやって来ると信じ、目を覚まして待っているよう、私たちに教えられたことと重なります。しかし、弟子たちは、復活するというイエス様の言葉を信じて待つどころか、家の中に閉じこもっていました。イエス様を迎えるどころか、戸に鍵をかけて、誰も入って来られないようにしていました。

 マタイによる福音書25章の前半では、最後の審判についてのたとえ話で、式場に到着する花婿を、きちんと迎えられなかった愚かなおとめが、「わたしはお前たちを知らない」と言われ、婚宴の席から締め出される様子が描かれていました。予告どおり、イエス様が復活した日、迎えに行けなかった弟子たちは、まさに、愚かなおとめと同じ姿をさらしています。

 また、弟子たちは、イエス様が捕えられたとき、牢を訪ねに行くことも、打たれた傷を手当てすることもありませんでした。イエス様が十字架の上で苦しまれていたときも、喉の渇きを潤したり、裸のときに服を着せたり、息を引き取るまで世話をすることもありませんでした。イエス様が亡くなった後、遺体を葬りに行くことさえ、ありませんでした。

 マタイによる福音書25章の後半では、「最も小さい者」と共におられる神の子が、飢えたり、渇いたり、裸であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかった者たちは、「永遠の罰」に定められることが書かれていました。敵に捕まったイエス様を見捨てお世話をしなかった弟子たちは、まさに「永遠の火に入れ」と言われる者たちと同じ姿をさらしていました。

 こうして見ると、弟子たちに見捨てられ、三日目に復活した後も、彼らに迎えてもらえなかったイエス様は、弟子たちに再会しても「わたしはお前たちを知らない」と言うか、「永遠の火に入れ」と命じるのが、自然な流れに思えます。「三日目に復活する」と言われていた日がタイムリミットです。その日までに信じて迎えに行かなければ、彼らは救いにあずかれない……そう思うのが普通です。

 それは、男性の弟子たちだけではありません。最初にイエス様の墓を見に行った女性たち、マグダラのマリアともう一人のマリアも、イエス様が復活することを信じて、墓を見に行ったわけではありませんでした。天使が2人に「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と言ったように、彼女たちが捜していたのは、死んで動かなくなった、墓の中でじっとしているイエス様でした。

 2人は、イエス様が約束どおり復活して、自分たちへ会いに来るとは思えずに、動かなくなった遺体と別れを惜しむために、墓までやって来たのでした。しかし、天使は、はっきり言います。「あの方は、ここにはおられない」「死者の中から復活された」「そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。

 不思議なことに、ヨハネによる福音書では、弟子たちの家へイエス様が自ら訪れたように書かれているのに、マタイによる福音書では、イエス様が弟子たちにガリラヤまで会いに来るよう命じたことが書かれていました。なぜ、マタイによる福音書では、イエス様の方から弟子たちの家に行かないんでしょう? 彼らにガリラヤまで来させるんでしょう?

 それは、復活の日に、約束を信じられないまま、自分を迎えられなかった弟子たちに、約束を信じて、自分を迎える者となれるよう、改めて、ガリラヤへ迎えに来るよう呼びかけたことが強調されているからです。信じない者が信じないまま、従えない者が従えないまま、救いにあずかれない者が救いにあずかれないまま滅んでいくことを、この方は放置しないからです。

 最後まで自分の言葉を信じなかった者が「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができるまで、自分のことを三度も「知らない」と否定した者が「あなたはわたしの愛する者です」と三度告白し直すことができるまで、この方は付き合い続けました。人々が、自分と出会えないまま終わらないように、関係が失われたまま放置されないように、キリストは何度も新しく出会いに行きます。

 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」……マグダラのマリアと、もう一人のマリアによって、伝えられたこの言葉は、家に閉じこもっていた弟子たちを動かし、復活の主を迎えに行けなかった者を、迎えに行く者へ変えていきました。

 ガリラヤで、自分を見捨てた弟子たちに再会したイエス様は、彼らに向かって、「わたしはお前たちを知らない」と言うことも、「永遠の火に入れ」と言うこともありません。むしろ、十字架にかかる前と変わらず、弟子たちを「兄弟」と呼び続け、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語ります。永遠の地獄の炎ではなく、聖霊の炎を受けるように、彼らに息を吹きかけます。

 「世の終わり」「救いが完成する日」には、同じように、信じない者が、信じる者となるように、滅ぶべき者が、救いにふさわしい者となるように、キリストは一人一人に姿を現し、呼びかけに応える者としてくださいます。亡くなった者も生きている者も、神の国へ迎えられる者として、新しい命にあずかります。

 ですから、自分が死なせた者として、自分が見捨てた者として、自分が従えなかった者として、墓の中に閉じ込められた、イエス・キリストを捜すのではなく、空っぽの墓を見てください。あの方は、ここにはおられません。あなたが迎えられるように、あなたを迎えられるように、死者の中から復活して、あなたの行くところで待っています。あなたと共に、神の国が完成する日の祝宴に、あずかる準備をしています……来て、見なさい。

 

讃美歌

オンライン賛美歌4番「わたしの主がとり去られた」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

愛 餐

本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。愛餐式とは、キリストが神の国のしるしとしてなされた5千人の給食を根拠にした「神の祝福を分かち合う食事」です。モラヴィア派の人々やメソジスト教会の各家庭で、かつては盛んに行われていたものでした。

 

 

信仰を告白した人が、信仰者であり続けるための「聖餐式」と違い、洗礼を受けていない人もあずかることができるので、現在もカトリックとプロテスタントの教派を超えた礼拝や、洗礼を受けていない人が多く集まる地区・教区の新年礼拝などで用いられています。

 

配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。御着席のままで大丈夫です。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

配 餐

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。

 

本日、礼拝に来られているお子さんや学生も、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。係の方は、前へお越しください。(パンと水を配る)

 

分かち合い

ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。今から後、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」4節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。(マタイによる福音書28:6)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった18名、同時に視聴された10名、計28名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は『復活を受け入れられない』と題して、マタイによる福音書28:11〜15のお話をする予定です。また、礼拝後に定期教会総会が開かれます。当日、総会に出席できない教会員は、議決権行使書を伴う委任状を渡すので、牧師までお申し出ください。

 

なお、イースターの墓前礼拝は、今週、来週とぶどう園の集いや教会の総会が続くので、5月以降に延期します。墓前礼拝の日程が決まり次第、アナウンスさせていただくので、どうぞよろしくお願いします。

 

この後、イースターを記念して、2階集会室でハレルヤランチが開かれます。時間のある方はぜひ、食事もご一緒できればと思います。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。