聖書研究祈祷会 2025年4月30日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の348番「神の息よ」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。
◆私たちの神様。先日の日曜日には、定期教会総会が開かれ、無事に、全ての報告・議案を承認・可決することができました。どうか今、再任された役員、監事、奉仕者一人一人が支えられ、会衆のみんなで、教会の働きを誠実に担っていくことができますように。
◆私たちの神様。今年度は「信仰継承を考える」というテーマで、不幸な宗教2世ではなく、幸福な宗教2世を養い育てることを目指します。どうか今、不安や恐怖に基づく伝道ではなく、神への信頼に基づく誠実な伝道ができるように、私たちを導いてください。
◆私たちの神様。ペンテコステには、新しく信徒の一員に加わる方の洗礼式を予定しています。どうか今、洗礼の準備を進めている人、洗礼を受けようか迷っている人に、あなたの慈しみが豊かにあって、共に、前へ進んでいくことができますように。
◆信仰と希望と愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。テサロニケの信徒への手紙一 5:23の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書379頁です。
同じく、テサロニケの信徒への手紙一 5:23の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書371頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |

メッセージ
今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「霊を成長させるには?」というトピックについて「霊と心と体」が出てくる、テサロニケの信徒への手紙一5章23節に焦点を当てて話していこうと思います。
キリスト教では、私たちが直接見ることのできない神様を信じ、私たちが直接見ることのできない聖霊が一人一人に送られてくると教えます。また、目に見える肉の身体が滅んでも、目に見えない私たちの霊は滅ぼされず、新しい身体に甦らされ、「天の国」「神の国」に迎え入れられると信じます。
そのため、目に見える「この世のもの」「いつか朽ち果てるもの」に心を奪われ、目に見えない神様を忘れて、神様への信頼を失うことがないように、祈りや賛美や礼拝を大切にすることが勧められます。ヘブライ人への手紙11章1節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言われるように、「見えない神様がわたしと共に居てくださる」という事実を、見失わないよう求められます。
けれども、キリスト教系の破壊的カルトには、病気や障害、事故や災いなど、あらゆるものの原因を、目に見えない「霊」の状態や「霊」の働きに結びつけ、自分の「霊」を成長させなければ、次々と不幸に襲われて、死んで地獄に落ちてしまう……など、不安や恐怖をあおった教えを展開してくるものがあります。
また、自分たちの教えに従って「霊」を成長させることで、精神や身体の状態が良くなって、周りの環境や人間関係も向上し、物事が上手く進むようになる……とアピールし、「霊」を成長させたいなら、自分たちのところで学ばなければならない……と信者を囲い込むところもあります。
最初は、実生活における問題の解決や、ささやかな幸せを求めて「霊」を成長させようとしていたはずが、いつの間にか、それよりも「霊界」における裁きを恐れ、「霊界」での救いを得ようと、実生活を蔑ろにしてでも「霊」を成長させるための修行や勉強、奉仕や祈祷を一日に何時間も行っている……という状態に、陥っている人がいるかもしれません。
こうして、霊的なステージを高めることが何よりも優先され、学業や仕事、家族関係や友人関係が二の次となり、「霊的な成長」を目指す同士以外から孤立していくようになると立派なカルトメンバーの仲間入りです。見えないものへの信頼ではなく、見えないものへの恐怖に支配された生活を送らされ、それによるトラブルは見えないように、無視するように、思考パターンを置き変えられてしまいます。
しかし、そういう危険があると分かっていても、私たちは「霊的なもの」に、ついつい興味を惹かれてしまいます。目には見えない「悪い霊」が、悪いことの原因だと察知できたり、目には見えない「良い霊」から、特別な力をもらったり、多くの人が感知できない「霊的なもの」を把握して、世渡りが上手くできたらな、と考えることもあるでしょう。霊能力者や霊感が強い人への憧れは、どうしても生まれてくるものでしょう。
また、幽霊や悪霊など「見えないもの」への恐怖心が強ければ強いほど、どうすれば、そういったものに対処できるのかも気になります。だからこそ、破壊的カルトは「霊」に関する聖書の記述を恣意的に引用し、自分たちに都合の良い教えを作って、信者をコントロールするのに利用してしまうんです。
ただ、聖書全体を通して見ると、人間は「外側の肉体」と「内側の霊魂」で構成されるというような、私たちがよくイメージする形で描かれているわけではありません。旧約聖書では、人間は、神様から与えられる「命の霊」(命の息)によって生かされる、具体的な存在と考えられ、死んだら霊魂が切り離されて、霊魂だけで生きていく、という考え方ではないんです。
たとえるなら、車からエンジンが抜け出して、エンジンだけで車として存在することはできないような感じです。もし、永遠に壊れないエンジンを載せた車があって、壊れた外側の車体だけ脱ぎ捨てたとしても、エンジンだけで車が車として動くことはできません。聖書における人間も、霊と体が切り離されて生きていくことはできないんです。
ヨブ記や詩編やコヘレトの言葉など、知恵文学と呼ばれる書物では「死んで陰府に降った魂」のことが語られますが、それは、人間が「命」から切り離され、何もできなくなった状態を指し、「霊魂だけで生きている」という状態ではないんです。死んで霊魂だけになったら、肉体を脱ぎ捨て、あの世を自由に動き回れるような描き方ではありません。
また、新約聖書では、「魂と身体の区別」や「霊と肉との対立」について出てきますが、死んでない、肉体をまとった人間も「霊の人」(霊的人間)と表現されたり、生きていて、霊魂を失ってないはずの人間が「肉の人」(肉的人間)と表現されたりしています。人間を「霊の部分」と「肉の部分」に分けているというより、「その人全体」を表す表現です。
たとえるなら、人間は「理性だけ」「感情だけ」で存在することはできませんが、その人全体を表すのに、「理性的」「感情的」あるいは「理性の人」「感情の人」という表現が使われるのと似ています。
つまり、「霊的」「肉的」という表現は、「神様とどんな関係か」「神の霊との関係」を示す表現で、人間を「霊」と「身体」に二分できるという考えではないんです。そのため、復活も、「霊魂だけが永遠に生きる状態」ではなく、「いつか朽ち果てる肉の体から、朽ち果てることのない霊の体に造りかえられる」ものとして出てきます。
ところが、キリスト教系の破壊的カルトでは、テサロニケの信徒への手紙一5章23節の「霊と心と体」の記述や、ヘブライ人への手紙4章12節の「魂と霊、関節と骨髄」「心の思いや考え」に関する記述を引用して、人間は「霊(魂)」と「心(精神)」と「体(肉体)」に分けられると教え、「霊」について、ことさら詳しく強調されることがあります。
この場合、「霊の体」や「肉の体」という表現は「一人一人の霊が、それぞれの肉体と似ている形で存在している」「肉の体は、霊の体のコピーである」といった説明に用いられ、「心(精神)は、霊と肉体をつなげる役割を持っている」という理屈で、霊を成長させるため、心をどのように動かし、体をどのように使うべきか、思考パターンや行動パターンを指定するようになっていきます。
たとえば、霊の呼吸には祈りが必要で、祈るのをやめたら霊が死んでしまう……霊の食べ物は神の言葉で、聖書をたくさん読まなければ、霊が飢え死にしてしまう……霊の運動は伝道だから、伝道していないと霊が運動不足になって正しく機能しなくなる……そんなふうに説明して、朝早くから夜遅くまで、祈りや勉強や伝道に駆り出し、組織の活動に従事させ、冷静に自分を振り返る時間や体力を奪ってしまうんです。
もちろん、一般的なキリスト教会では、毎朝毎晩祈ることを強迫的に迫ったり、聖書を読ませるために「霊が飢え死にしてしまう」と脅したり、学業や仕事、睡眠時間に支障が出るほど伝道活動や奉仕活動に従事させることはありません。そういった指導は、健康でエネルギッシュな若者でないとついていけず、精神を病んでいる人や障害のある人、身体の調子を崩した人を「霊的成長ができない者」として追い詰め、排除してしまうからです。
しかし、「霊」を成長させるため、絶え間なく組織の活動に時間投資し、リーダーの指導に従わなければならないという刷り込みが、一旦強化されてしまうと、なかなか抜け出すことはできません。けれども、先に話してきたように、本来、人間の構造を「霊」と「体」に二分したり、「人間の心が、霊と肉体をつなげている」というような考えは、聖書の中には出てきません。
むしろ、神から与えられた「命の霊」(命の息)を人間の体につなぎとめておられるのはどこまでも神ご自身であって、人間は主導権を持ちません。テサロニケの信徒への手紙一5章23節で「霊と心と体」について言及されるのも、「人間が」ではなく「神様が」私たちの霊と心と体とを正しい状態へ導いてくださる、という信頼を語っているものです。
ヘブライ人への手紙4章12節では、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と出てきますが、これは、人間が自分の手で制御できない細部にまで、神の力は及んでいる、ということを示しています。
「人間は、霊と心と体の3つから成り立っている」という説明や「人間の心の有り様で霊と肉体が離れてしまう」という説明をしようとするものではありません。キリスト教系の破壊的カルトは、難しい言葉を並べて、もっともらしく「人間と霊の関係」や「霊界」についての説明を行うことが多いですが、たいてい、聖書全体の文脈や語の使い方は無視しています。
「霊」に関する専門的な深い知識を有しているように見せますが、文脈を無視した聖書の引用や、ネットの記述をそれっぽく組み合わせた説明をしていることが多いんです。しかし、聖書やキリスト教に初めて触れる人たちは、「宗教的」「哲学的」「科学的」用語を組み合わされると、難しいけど、正しいことを言われているように感じるため、素直に受け取ってしまうことが多々あります。
そして、「霊的に成長している」と評価されることを求め、過密なスケジュールと膨大な課題をこなそうと組織に従ってしまうんです。けれども、「霊的に成長した」って、どういう状態を指すんでしょう? 霊的に優れているかどうか、どうやって判断したらいいんでしょう?
たくさん聖書を読んだ人が、聖書に詳しくなった人が、霊的に成長した人なんでしょうか? たくさん祈っている人が、たくさん感謝する人が、霊的に成長した人なんでしょうか? 大人しく、牧師の言うこと、教会の言うことに従って、疑いを持たない人が、霊的に成長した人なんでしょうか?
もし、聖書の中から、「霊的に優れている人」を選ぶとしたら、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムや、「神の人」と呼ばれたモーセ、イエス様から「あなたの信仰があなたを救った」と言われた人たちが挙げられるでしょう。しかし、彼らにまつわるエピソードは、通常、「霊的な成長」や「霊的に優れている」とは、受け取れないものが多いです。
アブラハムは、神様がソドムとゴモラの町を滅ぼそうとされたとき、その町に住む自分の甥が巻き込まれるのを止めようとして、「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」と訴えます。
神に歯向かい、神に逆らっていると思われても仕方ない、命懸けの問いかけです。しかし彼は、「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません」と、恐れながらも信頼し続け、ソドムの町に正しい者が10人しかいなくてもその10人のために町を滅ぼさないことを神様に約束してもらいます。
神への畏れを持ちながら、神に信頼し続けるとは、まさに、こういうことではないかと思わされます。神様は、理不尽な独裁主義者のように、私の訴えを無視するような方じゃない……私が自分に歯向かったと、問答無用で裁きを下す方じゃない……神と人との信頼関係が現れている、印象深いエピソードです。
一方でアブラハムは、神様から「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたとき、同じように訴えることはできませんでした。神様がなぜ、自分の息子をささげるように求めたのか、理由を聞くこともできません。
「主よ、私が何か悪いことをしたでしょうか?」「息子が罪を犯したでしょうか?」「息子が罪を犯したのなら、代わりに私の命を取ってください」「息子が理由でないのなら、罪のない子どもの命を奪うなんて、あなたがなさるはずございません!」「私の過ちが原因なら、息子ではなく、私の命を取ってください!」……そのようなやりとりが期待されても良いシーンのはずでした。
けれども、アブラハムが、息子を死から救うために、命懸けで神様にとりなす姿はありません。息子のために考え直してもらえるよう、神様に祈ろうとすることも、息子の代わりに、自分の命をささげようとすることもありません。「何を言っても赦してもらえることはない」と思うくらい、何か重い罪を犯した自覚があったのかもしれません。あるいは、自分の命を差し出すような勇気は出せなかったのかもしれません。
にもかかわらず、アブラハムが息子に手を下そうとしたとき、神様は彼の手を止めて、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と宣言します。「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言って、信仰を試すテストを終了します。
本来は、神への信頼を試されて、その試験に合格できなかったシーンだと思うんです。息子のためにとりなすことも、自分の命を差し出すこともできないで、「正しい人」「義人」になることができなかった、愚かなシーンだと思うんです。しかし神様は、祝福を受けるのにふさわしくないはずのアブラハムを「自分に聞き従った者」とし、「正しい者」として祝福し、どこまでも付き合い続けます。
アブラハムが霊的に成長させられ、霊的に優れた者であったとしたら、それは彼自身の努力によるものではなく、神様の一方的な恵みによるものです。彼は、美しい妻を奪いに来る者から、神様が守ってくれると信じきれず、妻を妹と偽った者でもありました。神様が年老いた自分に息子が生まれる約束したとき、信じ切れずに笑ってしまった者でもありました。
どちらかというと、霊的に成長していく姿より、信仰が揺れ動く姿を何度も見せた者でした。しかし、神様は、アブラハムを自分に従った者として、自分と共に歩んだ者として祝福し、どこまでも付き合い続けます。
「神の人」と呼ばれたモーセも、一貫して、神様を信頼し、神様に従い続けた者というより、揺れ続けた者でした。神様に「従います」と言った後で「やっぱり他の人を遣わしてください」と逃げようとしたり、民と一緒になって神様に不満を訴えたり、霊的に成長していく姿より、霊的に揺れ動く姿を何度も見せた人でした。それでも、神様はモーセのことを、自分と共に歩んだ者として祝福し、どこまでも付き合い続けます。
イエス様から「あなたの信仰があなたを救った」と言われた人たちも、通常、「霊的に優れている」とは思われない人たちでした。呼ばれてもいない食事の席で、いきなりイエス様に近寄って、その足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻した人……「罪深い女」と呼ばれていた、彼女が登場するシーンは、多くの人から見て、「信仰深い者」というより礼儀や常識を知らない娼婦のように見えたでしょう。
12年間も出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしても、病気を治すことができず、本来は、「汚れ」を移す行為であるため、誰にも触れてはいけなかったのに、黙ってイエス様の服の房に触れた女性……「わたしに触れたのはだれか」と言われても、隠しきれないと思うまで、震えて黙っていた彼女も、多くの人から見て「霊的に優れている」というより、罰当たりな存在に見えたでしょう。
重い皮膚病を患って、神様に犠牲をささげる祭儀に参加することができず、ユダヤ人から異端のように思われていたサマリア人も……何か罪を犯したせいで、神様から罰を受け、目を見えなくされたと思われていた盲人も……多くの人から見て、「霊的に成長している人」というより、「神の霊から離れている人」に見えたでしょう。
イエス様が、信仰を認めた人たちは、ところかまわず自分のことを大声で呼び、教えを語っているところへ、遮るように病人を運び、無理に自分を引き留めて、断られても助けを求め続けるような、全然、大人しくない人たちでした。同じことを教会の牧師にする者が居たら、皆さんも引いてしまうでしょう。その人のことを「霊的な人」「神と共に歩んでいる人」とは呼べないでしょう。
でも、イエス様が「あなたの信仰があなたを救った」と語った人たちは、そういう人たちなんです。神様が、「自分と共に歩んだ」と言っている人たちは、そういう人たちなんです。私たちの持つ「霊的に成長した人」「霊的に優れている人」というイメージから、だいぶ離れているかもしれません。
おそらく、本人たちも、自分が「信仰深い」と見なされるとは、神の霊に「立派だ」認められるとは、思っていなかったでしょう。「こういう人が霊的に優れている」「こうすれば霊的に成長する」とは、人の尺度で簡単には言えないことが分かってくると思います。「霊」に関する事柄は、丁寧に聖書を読み進めるほど、「こうだ」「ああだ」と、簡単には言えなくなっていくんです。
だからこそ、「霊を成長させるにはこうしなさい」「ああしなさい」と具体的に、殊更に強調してくるところには、警戒を持つようにしてください。霊的なもの、見えないものは好き勝手語りやすい分、人々をコントロールするために、自分たちを大きく見せるために恣意的に語られやすいからです。
むしろ、私たちが聖書を通して教えられるのは、人々から「霊的に成長できない」「霊的に劣っている」と見なされるような人たちが、神の祝福にふさわしい者として受け入れられ、神様にその信仰を認めてもらったという知らせです。まさに今、自分のことを「霊的に成長できない」「霊的に劣った人間だ」と思わされている者たちに、神様が、神の子が、聖霊が語ってきた良い知らせを、受け取るように促されます。
「あなたの信仰は立派だ。安心して行きなさい」……その言葉に信頼する日が、あなたにも訪れるように、あなたの隣人にも来るように、共に祈りを合わせましょう。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている兵庫県豊岡市の城崎教会のために、迫害されている人のために、差別されている人のために、抑圧されている人のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆兵庫県豊岡市の城崎教会のために祈ります。湯の町にある教会として、この教会が憩いと安らぎの場となりますように。会衆と牧師、一人一人の健康が守られ、誠実な歩みができますように。
◆迫害されている人のために祈ります。異なる思想や立場のため、ルーツや民族の違いのため、不当な迫害に遭って、苦しんでいる人たちに、あなたのお守りがありますように。憎しみではなく、理解が広がり、対話と安全がもたらされますように。
◆差別されている人のために祈ります。病気や障害、性的指向や性自認、人種、民族、性別など、本人が自由にできない属性によって、不合理な扱いを受けている人たちに、あなたの助けがありますように。デマや悪意から解放され、正しい認識が進みますように。
◆抑圧されている人のために祈ります。DVやデートDV、いじめやハラスメント、社会的な制度によって、抑圧されている人たちに、あなたの慈しみがありますように。それぞれに頼ることのできる仲間ときっかけが与えられ、明るい未来を得ることができますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌2番「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『比喩と象徴と歴史観』と題して、マタイによる福音書13:34〜35のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。